第二十二話
「ちょっと待ってください。さっきよりも金額あがってないすか?」
どうなっているんだ大久保と爽葵は目配せするも、当の本人は手を合わせて謝るだけだった。どうやら何か理由があるらしい。
「勝てばいいだけの話だろう。さあ、どうするんだ。もちろん断ってもらっても構わないが、そうなればこちらの不戦勝になる」
「……にゃろう」
どう言い訳して丁寧にお断りしたところで卓球部部長の意志は変わらないだろう。事の発端は確かに爽葵が原因ではあるが。
「その勝負受けて立とうじゃないか」
「うぉっ!」
爽葵の首に右腕を絡ませて支えを取りながら、涙で目を微かに充血させた紗央莉がニュルリと現れた。
女子とはいえ急に人一人分の負荷がかかり思わず倒れそうになるが、男の威厳として全力で踏ん張る爽葵の顔はプルプルと震えている。
「いいじゃねえか紗央莉。あたしも参戦してやってもいいぜ」
これまた後ろから爽葵達のやり取りを取りあえず見ていた香澄が、出番が来たとばかりに指を鳴らしながら前に出てきた。
ヤンキーの女子が迫力ある笑顔で指を鳴らす姿は中々に怖いものがある。
しかし、卓球部部長はさすが運動部と言ったところか、全く物怖じせずにどっしりその場で構えていた。
「ん、そうだね。ここは香澄ちゃんに任せよう」
「え、木枯がやるんじゃないのか。上北一人に任せるのか?!」
「大丈夫だよ爽葵君。香澄ちゃんならウチよりも上手くやれるさ。まだ作戦会議途中だし、一人でさっさと終わらせるに限る。それに――」
最後何か呟こうとした紗央莉だったが、思考に確信がないのか口をつぐみ、よっこらせと体を爽葵から離して杏奈へと近づく。
「この子がその勝負に乗るよ。ただし、条件を二つ付け加えさせてもらう」
「言える立場にあるとでも?」
「こっちとしては別に卓球台くらい弁償してもいいんだよ。部費はなくとも部費に代わるお金くらい教師から巻き上げ――失敬、先生たちから援助してもらっているからね。けど、勝負に乗った方がそっちにしても都合がいいんじゃないかな?」
「……何を言っているか分からないが。いいだろう、条件次第では許可してやる」
紗央莉の言葉にははっきりとした含みがあった。
勝負に乗った方が卓球部にとって都合がいいとはどういうことのなのか。普通に考えれば、勝負なしで卓球台を弁償すると言っているのだからそのまま弁償の流れに乗るはず。
だが、卓球部部長はその言葉を受けずに、あえて紗央莉が提示する条件を聞く方向に動いていた。これは明らかに不審である。
そして、さらっと紗央莉は教師から部費を巻き上げていると言ったような気がする。
「まず一つ目は勝負方法の選択肢をこちらに譲渡。二つ目は明日のイベントをちょーっと手伝ってもらう」
「イベント? ……まあいいだろう飲んでやる。して、勝負方法は?」
「コイントスだよ」
「ほう……?」
紗央莉が提示した勝負方法はコイントス。
コイントスというのはお金でもゲームのコインでも何でもいいのだが、親指に乗せて上へと弾き飛ばしたものを両手で掴む。掴みかたはどのようなものでもいいが、参加者が掴むところを視界に入れることが条件である。つまり掴む際に後ろを向いてはいけない。
そして、参加者はコイントスを行った者が掴んだどちらの手にコインが収まっているかを当てるという至極簡単なゲーム。
運任せに答えても正解する確率は二分の一だが、確実に当てるのならば動体視力が問われるゲームである。
メタモルフォーゼ部の三人もコインの行方を確かめるべく、紗央莉の正面へと動く。
爽葵達より一歩手前に立つ香澄が卓球部部長と横並びになるなり煽るような目つきで牽制するが、当の部長は紗央莉の手元に集中して全く気にも留めていなかった。
「ではでは、今からこの百円をトスするからどちらの手で取るか当てておくれ」
左手の親指を人差し指に引っかける形を作り、その上に百円玉を乗せる。行くよ、と一声かけてから紗央莉は百円玉を宙へと弾き飛ばした。
見事に直線を描きながら空中を綺麗に回転する百円玉に夕日が反射し、光の粒を部室にまき散らす。
星のように輝く百円玉だったがすぐに地球の重力に逆らえず、回転の勢いを弱めながら紗央莉の元へと落下する。
両手を肩幅程に広げた紗央莉は落ちてくる百円玉を視線で追いながら、自分の胸元付近まで来ると左手を前、右手を後ろに素早く交差してそれを攫った。
そして、すぐに両腕を前に突き出す。
一見手前の左手に収まったようにも見えるし、後ろの右手が直前に掠め取った気もする。
「瀬戸はどっちだと思う?」
「右手……に見えましたけど、実は大久保さんのズボンのポケットの中だったとかでしたら面白くないですか?」
「手品か!」
爽葵がツッコんでいる間に大久保が両手で左右のポケットの中を探るが百円玉はなく、出てきたのは何故かガムやら飴やらチャコレートといったお菓子の類いばかりだった。
「大久保さんはどう思われますか?」
「え、俺? そうだなぁ。俺も右手かなぁ。クロスする時に少し上に動いたから掬いあげるように取ったように見えたよ。けど、手を開いたら溶けちゃったとかだったら面白くない?」
「手品か――って恐いわ! 木枯の手が心配だわ!」
ちなみに爽葵の解答も右。理由としては百円玉を掴む瞬間に左手が右手を覆っていたように見えたから単純に左手では掴めないだろうという消去法。
だが、実際あくまでも『だろう』という可能性。確証まではほど遠い。
「さあどっちだ?」
紗央莉が笑顔で香澄と卓球部部長に問いかける。
どっちだと言われたところで簡単に答えられるものではな――
「左。ああ、紗央莉から見ての左な」
「なっ!?」
意外にも香澄の解答は一瞬だった。躊躇うことなく、さも平然と答える。
これにはさすがの卓球部部長も唖然と口を開き、爽葵達も本当に大丈夫かと香澄の後頭部を見つめた。
視線を感じたのか、香澄が顔だけを半分振り向かせて、
「んだよ、あたしの解答が不満か? こんなんどっちかに必ず入ってんだから迷うとこなんかねえだろ」
「「「ん?」」」
爽葵、杏奈、紗央莉の三人が一斉に首を傾げ、同時に表情が曇り出した。
つまり、香澄曰く確率は誰が何と言おうと二分の一なのだから、迷ったところで時間の無駄だということだろうか。いや、この迷いのない晴れ晴れとした表情はそうに違いない。
途端に、爽葵と杏奈が肩を落とし、敗北者のような黒い暗鬱としたオーラが滲み始めた。
「おいお前ら、早々に負けたような感じにしてんじゃねえよ! まだ分かんねえだろ!」
そもそも、爽葵達三人が同じ答えだったのに対し、香澄は逆の左手を選択した時点で多少なりとも敗北の臭いが漂ったのは言うまでもない。
しかし、香澄の言う通り、まだどちらの手に収まっているかは分からない。正解は紗央莉のみが知っているが、全くヒントの素振りも見せずに出題者らしくしっかり公平を保っている。
そんな不安の中を漂う爽葵達の様子を見てか、それともただ単に香澄とは逆の答えを出したかっただけか、
「なら、俺は右手を選ぶとしよう」
ふん、と両腕を組んで勝ち誇ったように選択した。
香澄の即答には多少なりとも驚いていたが、周囲の反応が明らかにおかしいことから自分の残された選択肢が正しいと確信があるようだ。
これで両者解答が出そろった。
ふふ、と不気味に笑う紗央莉が握り固めた両手仰向けにしてゆっくり開いていく。
コインが握られていたのは――左。
香澄の勝利である。
「馬鹿な……! この場にいる全員が右手に入っている予想をしていたのにっ……」
卓球部部長が愕然と膝をつき、後ろに立つ大久保は不思議そうに眉をひそめる。
横では杏奈と香澄が男張りのハイタッチを交わし、部室内に勝利の乾いた大きな音が鳴り響く。
「いやいや、よかったよ。香澄ちゃんがちゃんとウチの意図を理解してくれて」
ニッコリ顔の紗央莉が百円玉をテーブルの上に置いてあった財布に仕舞いながら言う。
やはりこの勝負にはタネがあったのか、と爽葵達は怪訝そうに紗央莉の顔へと視線を集める。
「どういうことだよ木枯?」
「まぁ、種明かしをしてしまうとウチは左利きだから左手でしか上手く取れないんだよね」
「種それだけか?! つか、それだけじゃ目を誤魔化せないだろ」
「ああ、そこはうまい具合に仕掛けさせてもらったよ。普通に取ったんじゃ芸がないからね。右手で取ろうと見せかけて上で指の間からコインをすり抜けさせて左手でキャッチしたんだよ」
横から見たら結構分かるんだけどね、と補足説明するが、そう上手いこと一発で成功するものなのだろうか。
あれだけハイスピードで回転するコインを手に掠らせることなく指の間をすり抜けさせるなど。
だが、ここでさらなる驚愕が爽葵達を襲った。
「んだよ。そんな単純なことだったのか」
「……まさか上北気づいてなかったのか? じゃあどうやって即答出来たんだよ?」
「あん? んなもん凝視してたからに決まってんだろ」
さらっと答える香澄の言葉が全く理解できずに爽葵は腕を組んで首を傾げる。頭の上にはクエスチョンマークが浮かんで点滅していた。
杏奈までがワナワナと体を震えさせる。
「まさか香澄……」
「杏奈までそんな驚くことかよ。普通に上に投げられたコインを目で追って、ちょっと開いた指の隙間を見てればどっちに入ったかなんてすぐに分かんだろ。あ、そうか。お前らあたしが勘だって言って騙したことに驚いてんだろ。あたしだってちったあ頭使ってんだぜ」
胸を張って鼻を高くする香澄の予想は全く異なる。無論爽葵達が驚いているのはあの小さなコインの動向を全て目で追えていた動体視力の凄さにであった。
まさに野生の獣並みの動体視力。
「いやいや、まさにウチの予想通りの展開だったね」
「嘘付け!」
ギリギリの勝利だっただろ、と爽葵にツッコまれた紗央莉は可愛らしくペコちゃんのように舌をペロっと出して誤魔化す。
整った顔でその仕草をされると多少なりともドキっとするのだが、今回は少々イラッとした感情も混ざる。
「じゃあじゃあ、これでウチらの勝ちは決定したわけだから弁償の件はなかったことでいいね」
「……約束だからな」
「あと、もう一つの約束もお忘れなく。こっちに関しては今日の夜にでもメールでお伝えするから。――爽葵君が」
「俺かよ!」
「いやいや、少し考えてもみておくれよ。ウチが男子とメールするとでも思うかい? これでも女子高生が大好きなんだよ。まぁ、前置きはさておき。君は大久保君のアドレスを知っているだろう。少々遠回りにはなるけど、それが一番簡単な方法さ」
前半も思いっきり理由の一つだろう。さすがは百合姫と称されることはある。
だが、そういえば香澄を助けた時に紗央莉は勝手に爽葵の携帯を奪って自分のアドレスを登録してきた。爽葵は大まかな男子の括りとは違うのだろうか。
すると爽葵の疑問を表情から読み取ったのか、紗央莉は「人によるさ」と小さく呟いた。
どうやら気に入った男子ならば例外はあるらしい。
だが、紗央莉はすぐに二人のやり取りを見て軽く頬を膨らませる杏奈へと抱き着いて頬ずりを始めた。
「大丈夫大丈夫。ウチは女の子が大好きだからー」
「ちょ、紗央莉頬が摩擦で熱い……!」
今にも煙が上がりそうな高速頬すりすりだった。
「というわけだから大久保、夜メールする。あと、先に謝っとく。たぶん明日は大変なことになると思うから……」
「ん、了解。楽しみにしてる。裏方でも司会でも応援団でも何でも来い」
社交辞令ではなく、本当に待ち遠しいのか右手の親指を立てて、ニカっと笑顔を浮かべた。




