第17話「さよなら、長い髪。」④
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
数日後、夕陽が王都を茜色に染める頃。
『ハサミ理容室』の扉が開き、軽やかなベルの音が店内に響いた。
「こんにちは!」
弾むような声と同時に、ノエルが勢いよく一歩踏み込む。つま先で軽く弾むような足取りだ。
聞き慣れた明るい声に、鏡子がはっと顔を上げて振り返る。
「あっ、ノエルさん!」
ぱっと表情を輝かせると、鏡子はエプロンの端をぎゅっと握りしめたまま、思わず前のめりに一歩踏み出した。
肩までの栗色の髪が軽やかに揺れる。
その笑顔には、もう以前のような遠慮や迷いはない。かつては視線を泳がせて指先をもじもじと絡めていた彼女が、今はまっすぐ前を見て背筋を伸ばし、足取りも軽やかに店内へ踏み出している。
鏡子は、その笑顔を見ただけで分かった。
(よかった……。)
(この子、本当に吹っ切れたんだ。)
胸の奥がじんわりと温かくなり、思わず頬が緩む。
ノエルは少し照れくさそうに頬をかき、視線を一瞬だけ落としてから、ぴしっと背筋を伸ばして軽く頭を下げた。
「ご報告に来ました。」
その声には、どこか誇らしさが滲んでいる。
「ちゃんと、お別れしてきました。」
鏡子は思わず両手を胸の前でぎゅっと合わせ、ぐいっと身を乗り出す。
「本当に?」
期待と安堵が入り混じった声だった。
「はい!」
ノエルは力強く頷き、胸を張るようにして微笑んだ。
「もう迷いません。」
「これからは、自分で決めた人生を歩いていきます。」
その言葉を聞いた鏡子は、ぐっと拳を握りしめてから、勢いよく頷く。
「うん!」
目を細めて、まるで自分のことのように喜びを噛みしめる。
「その顔が見られただけで十分!」
「私、本当に嬉しい!」
ノエルもつられて笑い、肩の力がふっと抜けたように見えた。
「鏡子さんのおかげです。」
素直な言葉に、鏡子はぶんぶんと大げさに手を振る。
「違う違う!」
首を横へ振りながら、少し照れたように笑う。
「最後に一歩踏み出したのは、ノエルさん自身だよ。」
ノエルはその言葉を受け止めるように、少しだけ目を細めてから、照れくさそうに肩をすくめて笑った。
その笑顔を見ていた亮一も、カウンター越しに腕を組んだまま、静かに口元を緩める。
「いい顔になったな。」
低く落ち着いた声で、淡々とした調子だが、どこか柔らかさが滲んでいる。
ノエルはすぐに顔を上げ、ぴんと背筋を伸ばす。
「はい!」
迷いのない返事だった。
その一言だけで、彼女の決意が十分に伝わってくる。
鏡子は腕を組み、ふいに思い出したように頬をぷくっと膨らませる。
「でもね!」
ぐっと拳を握りしめ、ぐいっと前に突き出す。
「あのカールって男だけは、私はまだ許してないから!」
「最後まで自分勝手で、本当に腹が立つ!」
「今からでも私が説教してやりたいくらい!」
ぷんすかと足を踏み鳴らす鏡子に、亮一は肩をすくめて小さく息をつき、苦笑する。
「鏡子。」
少しだけたしなめるような、抑えた声。
「もういい。」
「でも……。」
鏡子は納得いかない様子で唇を尖らせ、腕を組んだまま視線を逸らす。
「心配しなくても、ああいうヤツは、そのうち痛い目を見る。」
亮一はカウンターに軽く指先を置き、一定の調子で続ける。
鏡子は不思議そうに首を傾げ、じっと彼の顔を見つめた。
「どういうこと?」
亮一は少しだけ視線を遠くにやり、言葉を選ぶように間を置いてから、静かに答える。
「人は、一人では生きていけない。」
「誰かに支えられ、誰かを支えながら生きている。
それは、常に命を懸ける冒険者なら、なおさらだ。」
「仲間がいて、鍛冶職人がいて、商人がいて、ギルドがある。」
「みんなとの信頼があって初めて成り立つ仕事なんだ。」
淡々とした説明だが、芯の通った響きがある。
「だが、カールはその信頼を自分で壊した。」
「自分一人で何でもできると思っている独りよがりを、長く相手にする人はいない。」
鏡子は腕を組んだまま、少し考え込むように視線を落とす。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうか。」
まだ少し納得しきれていない様子だったが、それでもゆっくりと頷く。
「分かった。」
顔を上げ、亮一をまっすぐ見る。
「今回は亮一を信じる。」
亮一はその言葉に、わずかに目を細めて柔らかく微笑んだ。
「それでいい。」
ノエルも二人のやり取りを見て、思わず口元を押さえてくすっと笑う。
その笑いにつられるように、鏡子も肩の力を抜いて笑う。
さっきまで少し張っていた空気が和らぎ、店内には穏やかな笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
時を少し遡る――数日前――。
カールは苛立ちを隠せないまま、冒険者ギルドへ足を運んでいた。
胸の奥で何かがざわついている。理由は分かっているはずなのに、認めたくないという思いが喉元で引っかかっていた。
いつものように広間を見回す。
依頼を終えた冒険者たちが談笑し、次の依頼について話し合っている。
その光景が、やけに遠く感じられた。
(……いつも通りだろ)
そう自分に言い聞かせながら、輪へ近づき、声を掛けた。
「おい、次の依頼、一緒にどうだ?」
数人の冒険者がカールを見る。
その一瞬、確かに視線が交わった。
だが――すぐに、誰からともなく目を逸らした。
肩をすくめる者、わざと別の話題に視線を落とす者。
まるで、触れてはいけないものを見るかのように。
カールの拳がわずかに震える。
「……悪い」
言った男は、視線を合わせないまま、口元だけをわずかに歪めた。
「今回は……別のパーティーを組む」
「……そうか。」
喉が乾く。
声が思ったよりも低く、かすれていた。
別の冒険者にも声を掛ける。
「お前は?」
「……俺も、遠慮しとく」
ほんの一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされる。
短い返事だった。
それ以上の言葉はない。
視線すら向けられない。
(なんだよ……)
胸の奥がじわじわと熱くなる。
さらに別のパーティーへ向かう。
足取りがわずかに乱れる。
「空きがあるだろ?」
「……悪いな」
答えた男は、言い終える前に視線を横へ逃がした。
誰も目を合わせようとしない。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
気がつけば、広間のあちこちで小さな話し声が聞こえていた。
「あいつか……」
「……ノエルさんの件だろ」
「さすがにな……」
ひそひそと、しかし確実に耳に届く距離で。
耳を塞ぎたくなる。
だが、そんなことをすれば余計に目立つ。
カールは無理やり視線を前に向け、歩き続ける。
(聞こえてねぇ……聞こえてねぇ)
そう思い込もうとするほど、言葉は鮮明に耳に刺さる。
視界の端で、誰かが口元を隠しながらこちらを窺い、すぐに顔を背けるのが見えた。
胸の奥が締め付けられる。
呼吸が浅くなる。
「ちっ……」
舌打ちが、思った以上に大きく響いた。
周囲の空気が一瞬だけ凍る。
誰も何も言わない。
ただ、視線だけが一斉に外される。
カールはそれ以上何も言わず、乱暴にギルドを後にした。
扉を押し開ける手に、力が入りすぎていた。
◇ ◇ ◇
次にカールが向かった先は、王都でも評判の鍛冶工房だった。
ここなら、少なくとも仕事の話はできる。
そう思いたかった。
「ガンツ!」
声がわずかに荒れている。
工房には、金属を打つ甲高い音が響いている。
炉の前で真っ赤に焼けた鉄を打っていたガンツが、ゆっくりと金槌を止めた。
そのまま数拍、何も言わずに立ち尽くす。
やがて、わずかに肩を動かし――振り返った。
「……何だ」
低い声。
だが、その視線は一瞬だけカールを捉え、すぐに剣へと落ちた。
「剣の刃こぼれを直してくれ」
カールは当然のように剣を差し出す。
その手は、気づかぬうちに強く柄を握りしめていた。
しかし、ガンツは剣を一瞥しただけで、ゆっくりと視線を外し――静かに首を横へ振った。
「……悪いが」
一拍、間を置く。
「その依頼は、受けねぇ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
思考が止まる。
カールは眉をひそめる。
「……は?」
声が低く、押し殺されている。
「聞こえなかったか」
ガンツは振り返り、今度は逃げずにカールを見据えた。
その視線は重く、逃げ場を与えない。
「お前の依頼は……もう受けねぇ」
言い切るまでに、わずかな間があった。
だが、その間がかえって言葉の重みを増していた。
工房の空気が張り詰める。
炉の熱とは別の、冷たい圧が肌にまとわりつく。
「何でだよ!」
カールが声を荒らげる。
その瞬間、胸の奥に溜まっていたものが一気に噴き出した。
拳が震える。
歯を食いしばる音が、自分でも聞こえた。
ガンツは一歩だけ前へ出た。
だが、すぐには言葉を続けない。
カールを見据えたまま、わずかに息を吐く。
「……職人はな」
低く、押し出すような声。
「腕だけありゃ……食っていける世界じゃねぇ」
一瞬、視線が揺れる。
だがすぐに戻る。
「信用で……飯を食ってる」
短い言葉だった。
だが、その一言には長年職人として生きてきた重みがあった。
その重みが、カールの胸にのしかかる。
(信用……?)
その言葉が、やけに刺さる。
ガンツはわずかに視線を落とし、そして再びカールを見る。
「仲間を……大切にできねぇ奴のために」
一拍。
「俺は武器を、打たねぇ」
「……それだけだ」
言い返そうと口を開く。
だが、言葉が出てこない。
(違う……俺は……)
何を言えばいいのか分からない。
否定したいのに、うまく形にならない。
ガンツはそれ以上何も言わず、ゆっくりと視線を外した。
そして背を向け、再び炉へ向き直る。
真っ赤に焼けた鉄を金床へ置き、力強く金槌を振り下ろした。
カンッ――。
乾いた金属音が工房に響く。
その音が、胸の奥にまで響いた。
まるで、自分との繋がりを断ち切られたような感覚。
カールは拳を握り締めたまま立ち尽くす。
指先が白くなるほど力を込めているのに、震えは止まらない。
何か言い返そうとした。
だが、言葉は出ない。
喉が詰まる。
視線が揺れる。
ガンツの背中が、やけに遠く感じられた。
返ってくるのは、炉の炎が燃える音と、ガンツが鉄を打つ音だけだった。
自分は、もう歓迎される客ではない。
その現実だけが、胸に重くのしかかった。
(……ふざけんな)
そう思うのに、どこかで否定できない自分がいる。
それが、余計に苛立ちを募らせた。
カールは舌打ちすると、乱暴に工房の扉を閉めて立ち去った。
◇ ◇ ◇
日が傾き始めた頃。
カールは足早に住宅街を歩いていた。
向かった先は、浮気相手の女性が暮らす家だった。
何度も通った見慣れた扉の前に立ち、乱暴にノックする。
「俺だ。」
しばらくして扉が開いた。
姿を見せた女性は、カールを見るなり表情を曇らせた。
「……何?」
「何じゃねぇよ。」
「中に入れてくれ。」
女性は首を横に振る。
「ごめん。」
「今日は帰って。」
その言葉に、カールは眉をひそめる。
胸の奥がざらつく。嫌な予感が、喉の奥に苦い味を残した。
「は?」
「話があるの。」
女性は小さく息を吸い、覚悟を決めたようにカールを見つめた。
「私たち……もう終わりにしよう。」
一瞬、時間が止まる。
耳鳴りがした。周囲の音が遠のき、言葉だけがやけに鮮明に頭に突き刺さる。
「……何言ってんだ?」
カールは笑った。
頬が引きつる。自分でもそれが笑いになっていないことが分かる。
冗談だと思った。
そう思い込もうとした。
だが、女性の表情は変わらない。
「昨日のこと、もう街中に広まってる。」
「みんな知ってるの。」
「ノエルさんを無理やり連れて行こうとしたことも。」
「ギルドで騒ぎを起こしたことも。」
カールの表情が強張る。
心臓が一拍、強く打つ。血が頭に上り、視界の端が赤く滲む。
「だから何だ。」
吐き捨てるように言うが、声はわずかに掠れていた。
女性はゆっくりと首を振った。
「私は、この街で暮らしていきたい。」
「これ以上あなたと一緒にいたら、私まで同じ目で見られる。」
「そんなの……嫌なの。」
カールは苛立ったように鼻で笑う。
胸の奥で何かが軋む。怒りなのか、焦りなのか、自分でも判別がつかない。
「俺を捨てるってことか?」
言葉にした瞬間、胃のあたりが冷たく沈んだ。
「……ごめんなさい。」
女性は深く頭を下げた。
「今までありがとう。」
「さようなら。」
そう言って、静かに扉を閉めた。
ガチャリ――。
鍵の掛かる音が響く。
その音がやけに重く、胸の奥に落ちてきた。
カールはしばらく扉を見つめていた。
叩こうと手を上げる。
だが、その手は途中で止まった。
指先が震えていることに気づく。力を込めようとしても、うまく握れない。
冒険者たちは背を向けた。
ガンツにも拒まれた。
そして今、最後の一人まで去っていった。
頭の中で言葉がぐるぐると回る。
――なんでだ。
――俺が何をしたっていうんだ。
――みんな、おかしい。
――俺は悪くない。
そう何度も言い聞かせる。
それでも現実だけは変わらなかった。
冒険者たちは背を向けた。
沈みゆく夕日が王都を赤く染める。
長く伸びた影だけが、カールの足元へ静かに絡みついていた。
その影の隣には――もう、誰もいない。
失ったものの大きさに、カールはまだ気づいていなかった。
◇ ◇ ◇
――そして現在。その夜。
『ハサミ理容室』では、ささやかな女子会が開かれていた。
テーブルいっぱいに並んだ料理は、鏡子が腕によりをかけて作ったものだ。
ノエルの新しい一歩を祝おうと、ミリア、ナラも集まっていた。
「それじゃあ!」
鏡子がジョッキを高く掲げる。
「ノエルさんの新しい人生に――乾杯!」
「乾杯!」
グラスが軽やかな音を立てる。
店内には笑い声が広がった。
最初は近況や仕事の話で盛り上がっていた。
だが、お酒が進むにつれ、話題は自然とカールのことになっていく。
「ほんっと最低よね!」
鏡子が頬を赤くしながらテーブルを軽く叩く。
「あんな男、私だったら一発じゃ済まないんだから!」
「分かる!」
ナラも笑いながら頷く。
「私だったら最初の時点で張り倒してるわ。」
「ほんとそれ!」
女性陣は次々とカールへの不満を口にした。
「ノエルが優しすぎたんだ。」
ミリアも小さく頷いた。
「私もそう思います。」
「ノエルさん、本当に頑張りました。」
三人は口々にカールへの不満をぶつけていく。
その一つひとつが、まるで自分のことのようだった。
ノエルは最初こそ苦笑しながら聞いていた。
けれど。
「……私。」
ぽつりと呟く。
その瞬間、さっきまで賑やかだった空気がふっと沈み、油のはぜる音や食器の触れ合う微かな音だけが耳に残った。
胸の奥がじんわりと熱くなり、指先がわずかに震えるのを感じる。
「本当は……ずっと苦しかったんです。」
言葉を吐き出すたびに、喉の奥が締めつけられるように痛む。
少しずつ、胸の奥に閉じ込めていた想いがあふれ出す。
「嫌われるのが怖くて。」
「嫌だって言えなくて。」
「本当は違うって思っていても……笑うしかなくて。」
視界が滲み、頬に触れる空気がひやりと冷たく感じられる。
声が震える。
「でも……。」
涙が頬を伝った。
温かいはずの涙が、肌に触れるたびに妙に冷たく感じられた。
「カールのことが好きだったから……。」
「好きなら我慢しなきゃって……そう思ってました。」
言葉が途切れる。
胸の奥に溜まっていたものが一気に崩れ落ちるように、呼吸が浅くなる。
涙だけが次々とこぼれていく。
「ノエルさん……。」
鏡子の目にも涙が浮かんだ。
ノエルは涙を拭いながら、小さく笑う。
――けれど、その笑みはもう、過去に縛られたものではなかった。
胸の奥に残っていた重たい塊が、ゆっくりとほどけていくのを感じる。
「でも、もう大丈夫です。」
はっきりと、迷いなく言い切る。
言葉にした瞬間、肩にのしかかっていた見えない重みがすっと軽くなった。
「私、一人じゃなかった。」
「鏡子さんも、亮一さんも。」
「ナラさんも、ミリアちゃんも。」
「みんながいてくれたから、前を向けました。」
「ありがとうございます。」
深々と頭を下げる。
その姿を見た瞬間だった。
「もう……。」
鏡子が涙をぽろぽろこぼし始める。
「ノエルさぁん……!」
泣きながら勢いよく抱きついた。
その腕の温もりが、じんわりと体に広がる。
「幸せになってよぉ……。」
その姿を見て、ミリアも目元を押さえる。
「うぅ……。」
ナラも困ったように笑いながら涙を拭った。
「今日は涙もろい奴ばっかりだな。」
誰かが笑う。
その笑いにつられて、みんなも笑う。
涙を流しながら笑う。
笑いながら、また涙がこぼれる。
悲しい涙ではなかった。
過去を乗り越えた者だけが流せる、温かな涙だった。
気づけば鏡子はジョッキを片手に顔を真っ赤にしていた。
「ノエルさんは私が守るからねぇ~。」
「うん……。」
ノエルも頬を赤くしながら笑う。
「鏡子さぁん……。」
二人はそのまま肩を寄せ合い、いつの間にか眠ってしまった。
「……飲み過ぎだ。」
亮一が苦笑する。
ミリアもくすっと笑った。
「バルトを呼んでくる。」
しばらくして店を訪れたバルトは、眠るノエルを見ると優しく目を細めた。
「本当によく頑張ったな。」
そう呟き、ノエルをそっと背負う。
眠っているノエルは安心しきった表情で、小さな寝息を立てていた。
「それじゃあ、送ってくる。」
「私たちも一緒に帰ります。」
ナラとミリアも立ち上がる。
三人が店を出ようとした時、亮一が声を掛けた。
「バルト。」
バルトは足を止め、振り返る。
「カールは、その後どうなった?」
「……王都を出て行った。」
亮一は黙って聞いている。
「居場所がなくなったんだろう。」
「地方へ行ったのか、それとも他国へ渡ったのか……そこまでは分からん。」
「だが、もう王都へ戻ってくることはないだろう。」
「……そうか。」
亮一は静かに頷いた。
それ以上、二人は何も言わなかった。
バルトは背中のノエルを抱え直す。
「行くぞ。」
「はい。」
「おやすみなさい!」
三人は夜の王都へ歩き出す。
亮一はその背中が見えなくなるまで静かに見送り、ゆっくりと店の扉を閉めた。
店内には、テーブルに突っ伏して眠る鏡子と、穏やかな静けさだけが残っていた。
「まったく……」
亮一は苦笑しながら歩み寄る。
「飲み過ぎだよ」
声をかけても、鏡子は「ん~……」と小さく唸るだけで起きない。
亮一はしゃがみ込み、その身体を抱き上げた。
「失礼」
思ったより軽い身体が腕に収まり、鏡子はそのまま胸に顔を預ける。
寝室へ向かう廊下に、足音だけが響いた。
「……亮一」
「起きてたのか?」
「えへへ……」
目を閉じたまま、鏡子は微かに笑う。
「ねぇ、亮一」
「ん?」
「いつもありがと」
亮一は少しだけ言葉に詰まり、肩をすくめた。
「何言ってんだよ。俺だって同じだ」
「鏡子がいたから、ここまでやってこれたんだ」
鏡子は小さく頷く。
「……よかった」
「何が?」
「一緒に来たのが、亮一で」
それだけ言うと、鏡子はすぐに寝息を立て始めた。
亮一はベッドに寝かせ、布団を肩までかける。前髪を整え、小さく笑った。
「おやすみ」
灯りを消し、静かに扉を閉める。
◇ ◇ ◇
店内へ戻ると、先ほどまでの賑わいが嘘のように消えていた。
空になった皿と並ぶグラス。その光景には、今にも笑い声が蘇りそうな余韻が残っている。
亮一は自然と口元を緩めた。
異世界に来たばかりの頃、こんな日々が訪れるとは思いもしなかった。
理容師と美容師。戦う力も特別な魔法も持たない二人にとって、頼れるのは日本で培った技術だけだった。
本当にやっていけるのか――そんな不安は、いつも胸の奥にあった。
それでも、一人ひとりの客と向き合い続ける中で、少しずつ信頼を積み重ねてきた。
気づけば、この店には自然と笑顔が集まるようになっていた。
今日もまた、一人の女性が新しい一歩を踏み出した。
髪を切るだけで人生が変わるわけではない。だが、前へ進もうとする背中を、ほんの少し押すことはできる。
その積み重ねこそが、自分たちの仕事なのだろう。
亮一は照明を一つずつ消していく。最後の灯りが落ちると、店内は月明かりに包まれた。
異世界での暮らしは決して楽ではない。それでも、隣には鏡子がいる。
二人だからこそ乗り越えられたことが、これまで何度もあった。
そしてきっと、これからも。
明日もまた、この店の扉を開ける。
目の前の客のために。そして理容師と美容師として、この世界で生きていくために。
亮一は静かに鍵を閉めた。
夜空には満月が輝き、ハサミ理容室の看板をやさしく照らしていた。
明日もまた、この店には誰かの人生を変える一日が待っている。
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




