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第15話「さよなら、長い髪。」②

異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~

作者:阿波根サキ

あの日から数日が過ぎた。


 デートの日に来られなかったのも、きっと急な依頼だった。

 翌日、カール本人も「そんなところだ」と言っていた。


 だから、もう気にしない。


 そう決めたはずだった。

 それでも胸の奥に残る小さな違和感だけは、どうしても消えなかった。


◇ ◇ ◇


 仕事を終えた夕方。


 ノエルは夕食の材料を買うため、市場へ向かっていた。

 王都の通りは、多くの人で賑わっている。

 焼きたてのパンの香りが風に乗って漂い、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

 肉を焼く煙が立ち上り、油の弾ける音が耳に届く。

 果物を並べる店主の掛け声、値段交渉をする客の声、笑い合う家族の姿。

 子どもたちは走り回り、母親に叱られてはまた笑う。

 恋人同士が肩を寄せ合い、同じ串焼きを分け合っている。

 老夫婦がゆっくりと歩きながら、穏やかに言葉を交わしている。

 友人同士が今日の出来事を楽しそうに語り合い、声を弾ませている。


 人々の体温と熱気が混ざり合い、夕暮れの空気はどこか温かかった。

 誰もが誰かと繋がり、当たり前のように隣に誰かがいる。


 その中で、ノエルだけがぽつりと浮いているようだった。

 笑い声が耳に届くたび、自分だけがその輪の外にいることを突きつけられる。

 温かな光景が広がるほどに、自分の周囲だけが冷え切っているように感じる。

 手にした買い物袋の重みだけが、現実を繋ぎ止めている。


 いつもと変わらない、平和な夕暮れだった。


 その時だった。


「カール、次はどこ行く?」


 聞き慣れた名前に、ノエルの足が止まる。

 心臓が一瞬だけ強く跳ね、次の鼓動が来ないような錯覚に陥る。


 周囲の喧騒が遠のいたように感じる。


 耳鳴りのような音がじわりと広がり、呼吸が浅くなる。

 ゆっくりと振り返る。

 そこにいたのは――。


 カールだった。


 隣には、一人の若い女性。

 腕を組み、楽しそうに笑っている。

 二人は恋人同士そのものだった。


 ノエルの呼吸が止まる。


 喉がひりつき、空気がうまく入ってこない。

(……え?)


 頭が真っ白になる。

 思考が途切れ途切れになり、言葉にならない断片だけが浮かんでは消える。


 何かの見間違いだと思いたかった。

 依頼の仲間かもしれない。

 妹かもしれない。

 そう思おうとした。


 だが。


 女性は自然な仕草でカールの腕へ体を寄せる。

 カールも嫌がる様子はない。

 むしろ、当然のように受け入れていた。

 その表情には、ためらいも罪悪感も見えなかった。


 胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

 鈍い衝撃が内側から広がり、胃のあたりがきゅっと縮む。


 気付けば、足が勝手に動いていた。


 膝がわずかに震え、地面を踏みしめる感覚が頼りない。


「……カールさん。」

 二人が振り向く。


 カールは一瞬だけ目を見開く。

 だが、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。

 その一瞬の視線すら、冷たく感じられた。


「ああ……。」

「見られたか。」


 まるでどうでもいいことのような口調だった。

 ノエルは震える声で尋ねる。


 唇が乾き、言葉を出すたびにひび割れるような痛みが走る。


「この前……。」

「デートに来られなかったのは……。」


 カールは露骨に面倒そうに息を吐く。


「悪かった。」

「でも、もういいだろ。」


 ノエルは首を横に振る。

 視界が揺れ、焦点が定まらない。


「違うんです。」

「私は怒ってるんじゃなくて……。」

「何か理由があったんじゃないかって……。」

「ずっとそう思って……。」


 言葉の途中で声が震える。

 胸の奥が締め付けられ、息を吸うたびに痛む。

 カールはわずかに眉をひそめるが、それもすぐに消える。


「理由?」

「そんなの決まってるだろ。」


 隣の女性の肩を引き寄せる。


「こっちと一緒にいた。」


 あまりにもあっさりとした言い方だった。

 世界から音が消えた。

 さっきまで耳に満ちていた呼び声も笑い声も、すべて遠くへ押しやられる。


 ノエルの耳には、自分の鼓動だけが響いている。


 どくん、どくん、と不規則に打ちつける音が頭の中で反響する。


 嘘だ。

 そう言ってほしかった。

 冗談だと笑ってほしかった。


 しかし、カールは何の感情も浮かべていない。


「私……。」

「待ってたんです。」

「夕方まで……。」

「ずっと……。」


 その言葉を口にするたび、胸の奥がえぐられるように痛む。

 あの時間、あの場所、ひとりで立っていた自分の姿が脳裏に浮かぶ。


 冷えていく空気、沈んでいく太陽、誰も来ない足音。


 カールは視線を外したまま、どうでもよさそうに肩をすくめた。


「そうか。」

「でも、もう終わりにしよう。」


 ノエルは言葉を失う。


 頭の中で何かがぷつりと切れる音がした気がした。


「……え?」

「だから別れようって言ってる。」


 その声には、迷いも躊躇もなかった。

 ただ事実を告げるだけの、冷たい響き。

 何年も積み重ねてきた想いが。

 たった一言で、何の重みもなく切り捨てられた。


 胸の奥が空洞になったように軽くなり、同時に底のない穴へ落ちていく感覚に襲われる。


「私……。」

「何か悪いところがありましたか……?」


 震える声で尋ねる。

 自分の声が自分のものではないように遠く聞こえる。


 カールは少しだけ考える素振りを見せるが、すぐに答える。


「そうだな。」

「真面目すぎる。」

「重いんだよ。」


 まるで評価を下すような口調だった。

 その言葉は、刃物よりも鋭かった。

 胸の奥に突き刺さり、じわじわと広がる痛みが呼吸を奪う。


 ノエルは息を呑む。


 肺がうまく膨らまず、浅い呼吸を繰り返すしかない。

 長い髪が風に揺れる。

 鏡子が綺麗に整えてくれた髪。

 カールが好きだと言ってくれた長い髪。


 その髪に一瞥もくれることなく、カールは背を向けた。


「行くぞ。」

「あ、うん。」


 女性は嬉しそうに笑い、カールの腕へ寄り添う。

 二人の背中が少しずつ遠ざかっていく。

 振り返ることもなく、足を止めることもなく。

 その背中が小さくなるほどに、胸の奥の空洞が広がっていく。


 周囲では誰かが笑い、誰かが呼び止め、誰かが手を取り合っている。


 それでも、そのどれもがノエルには届かない。

 音はあるのに、意味がない。

 世界から切り離されたような感覚。


 ノエルは追いかけることも、呼び止めることもできなかった。

 足が地面に縫い付けられたように動かない。

 ただ、その場に立ち尽くす。

 人の流れが彼女を避けるように流れていく。

 肩がぶつかっても気づかないほど、感覚が鈍っていた。


 視界が滲む。


 一滴。

 また一滴。


 頬を伝う温かさだけが、まだ自分がここにいる証のようだった。


 石畳へ涙が落ちていった。


◇ ◇ ◇


どれくらい、その場に立ち尽くいていたのだろう。


 夕焼けに染まっていた空は、いつの間にか茜色から群青色へと変わり始めていた。


 市場の賑わいも少しずつ落ち着き、露店を片付ける音が聞こえてくる。


 それでもノエルは動けなかった。


 胸の奥がぎゅっと締め付けられる。痛い。息が浅い。吸えない。喉が詰まる。ひゅう、とかすかな音が漏れる。


 頬を流れる涙を拭うことすら忘れ、ただ俯いていた。


(終わった……。)

 その一言だけが、何度も頭の中を巡る。


(どうして……どうして、こんなことに……)


 今まで信じてきたもの。

 支えてきたもの。

 夢見ていた未来。

 全部、なくなった。


 胸の奥にぽっかりと穴が空いたようで、何も感じないはずなのに、鋭い痛みだけが残る。


 膝から力が抜ける。踏ん張る。だが足先の感覚が遠い。崩れそうだ。


 視界が滲む。歪む。

 ふと、長い髪が肩から滑り落ちる。

 鏡子が綺麗に整えてくれた髪。


 ――カールさんが長い髪が好きだから。


 その理由だけで何年も伸ばし続けた髪だった。

(全部……全部、あの人のためだったのに……)


 指先でそっと掴む。

 遠い。感触が遠い。

 涙が止まらない。

 喉の奥が熱い。嗚咽が込み上げる。押し殺す。必死に。


「……もう。」

 震える声が漏れる。


 声を出した瞬間、胸の奥の痛みがさらに強くなる。

「もう、嫌……。」


 その瞬間。

 頭に浮かんだのは、一軒の店だった。

 木の扉。

 温かな灯り。

 優しく迎えてくれる人たち。


『ハサミ理容室』


(あそこなら……あそこなら、少しは……)

 自然と足が動き出す。

 行く当てもない。

 けれど、今はあそこしか思い浮かばなかった。


◇ ◇ ◇


 カラン。


 扉のベルが静かに鳴る。


「いらっしゃいませ!」


 ミリアがいつものように元気よく振り返った。

 だが、言葉は途中で止まる。


「……ノエルさん?」


 俯いたまま立ち尽くすノエル。


 肩が震える。呼吸が乱れる。吸えない。長い前髪の隙間から、ぽたりと涙が床へ落ちた。


 鏡子も異変に気付き、慌てて駆け寄る。

「ノエルさん!?」


 顔を覗き込んだ瞬間、鏡子は息を呑んだ。

 目は真っ赤に腫れ、頬には涙の跡。

 唇は震え、今にも崩れ落ちそうだった。


「どうしたの……?」


 その声は優しいのに、どこか震えていた。胸の奥に嫌な予感が広がっていく。


 ノエルの様子に、ただならぬものを感じ取っていたからだ。

 その一言が、最後の糸を切った。

 胸の奥で押さえ込んでいたものが、一気に溢れる。

 ノエルは鏡子へしがみつく。


「うっ……。」

 息ができない。喉が詰まる。言葉にならない。


「うぁぁぁぁぁっ……!」


 店中に響く嗚咽。

 胸が痛い。苦しい。それでも止まらない。


 鏡子は一瞬だけ言葉を探すように口を開きかけ――しかし、何も言わなかった。今は言葉よりも、受け止めることだと直感した。


 ただ、震える背中をそっと抱き締める。


「大丈夫……」

 小さく、確かめるように。

「大丈夫だから……」


 繰り返すたびに、その声は少しずつ強くなる。

 ミリアも心配そうに立ち尽くしていた。

 奥で仕事をしていた亮一は、静かに手を止める。


 耳に入ってくる泣き声に、わずかに眉をひそめた。何かが起きたことを察する。


 店内には、ノエルの泣き声だけが響いていた。


 やがて、嗚咽が少しずつ落ち着いてくると、ノエルは途切れ途切れに事情を語り始めた。言葉にするたびに胸の奥がえぐられる。息が詰まる。声が震える。何度も言葉を詰まらせる。


 鏡子は何度か口を開きかける。


 怒りが込み上げる。言いたい。叫びたい。だが――ぐっと唇を噛み、堪える。

 ただ静かに頷きながら、最後まで聞き続ける。


 そして。


 話を聞き終えた瞬間。

 鏡子の表情が、はっきりと変わった。

 優しさが消える。代わりに怒りが燃える。


「……許せない。」


 低く、押し殺した声。だが、その奥で感情が煮えたぎっている。


「そんなの……そんなの、絶対に許せない! あのヤロー……トラ刈りにしてやる!」


 声が跳ね上がる。抑えていたものが一気に溢れ出す。

 次の瞬間、鏡子は勢いよく立ち上がった。

 椅子が大きな音を立てて揺れる。


「どこ行く気だ」


 低い声が、背後から落ちた。空気が一瞬で冷える。

 振り返る間もなく、鏡子は店の外へ飛び出そうとする。


「ちょっと待て!」

 亮一が素早く動く。背後から羽交い締めにする。


「離して!」

 鏡子はもがく。力を込める。怒りで視界が狭くなる。


「あんなやつ、今すぐ――!」

「落ち着け」


 短い。鋭い。その一言が、空気を切り裂く。

 一瞬、時間が止まったように感じる。

 だが鏡子は止まらない。


「落ち着いてられるわけないでしょ! あんなことされて――!」


 声が震える。怒りと悔しさが混ざり合う。

「だからって何する気だ」

 低い声。重い。逃げ場を塞ぐように。


 鏡子の動きが一瞬止まる。言葉が喉に引っかかる。

「……殴り込みでもかけるのか?」


 静かな問い。だが、その裏にある現実は冷たい。

 鏡子の呼吸が荒くなる。


「それで何が変わる」

 追い打ちのような一言。


 言葉が出ない。胸の中で何かがぶつかり合う。

「でも……!」


 絞り出すような声。

「客のプライベートに首を突っ込むな」


 ぴしゃり。


 迷いはない。断ち切るように。

 鏡子の肩が震える。


「俺たちは理容師だ」

 ゆっくりと、言い聞かせるように。

「できることは限られてる」


 静かに、重く。

 鏡子は歯を食いしばる。

 悔しい。怒り。涙が滲む。どうにもできない現実が突きつけられる。


「……でも、放っておけないよ……」


 かすれた声。感情が零れ落ちる。


 亮一は一瞬だけ目を伏せる。その言葉の重さを受け止めるように。

 そして、わずかに力を緩めた。


「放っておけとは言ってない」

 低く、少し柔らかく。


「やり方を間違えるなって言ってるだけだ」


 鏡子ははっとする。怒りの中に、別の道があることに気づく。

 呼吸が落ち着く。

 やがて、力が抜けた。

 亮一もゆっくりと腕を離す。

 鏡子はその場に立ち尽くし、拳を握りしめたまま俯いた。


 店内に、重たい沈黙が落ちる。


 その中で、ノエルはゆっくりと顔を上げる。

 涙で濡れた頬を袖で拭う。呼吸を整える。まだ痛い。それでも、少しずつ息が通る。

 そして、小さく、けれど確かな声で言った。


「……私、変わりたいんです。」


◇ ◇ ◇


店内に、重たい沈黙が落ちる。

 ノエルはゆっくりと、自分の長い髪へ手を伸ばした。


 指先に絡まる栗色の髪。

 何年も、大切に伸ばしてきた髪。

 ――カールさんが長い髪が好きだから。


 その一言だけを信じて。

 その一言だけのために。

 毎日、時間をかけて手入れをしてきた。


 切りたいと思った日があっても、我慢した。

 全部。

 全部、あの人のためだった。


 ぽたり、と涙が髪へ落ちる。


「……もう。」

 小さく首を振る。

 涙を拭っても、また溢れてくる。


「私……。」

 震える声で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「こんな自分が……嫌なんです。」

「オドオドして……。」

「言いたいことも言えなくて……。」

「嫌われるのが怖くて……。」

「本当は嫌だって思っても、笑って我慢して……。」


 一つ言葉を口にするたび、自分自身の心を見つめ直すようだった。

「でも……。」

「カールさんが、そんな私を好きでいてくれるって思ってたから……。」

「だから、このままでいいんだって……自分に言い聞かせてきました。」


 長い髪を胸の前でぎゅっと握り締める。

「でも、違いました。」


 涙で濡れた瞳が、まっすぐ鏡子を見つめる。

 そこには悲しみだけではない。

 何かを終わらせようとする覚悟が宿っていた。


「もう、人に合わせるだけの自分は嫌なんです。」

「誰かに好かれるためじゃなくて……。」

「今度は、自分のために生きたい。」


 一度だけ大きく息を吸う。

 そして、はっきりと言った。


「だから……私、変わりたいんです。」


◇ ◇ ◇


その一言に、鏡子は息を呑んだ。


 涙で濡れた瞳。

 震える声。


 それでも、ノエルの視線はまっすぐだった。

 さっきまでの、不安に押し潰されそうな目ではない。

 悲しみを抱えながらも、自分の足で前へ進もうとする人の目だった。


(この子……。)

(ちゃんと前を向こうとしてる。)


 鏡子の脳裏に、初めてノエルと出会った日のことがよぎる。あのときの彼女は、誰かに見捨てられることを恐れて、言葉を選びながら必死に笑っていた。自分の本音を押し殺して、ただ「いい子」でいようとしていた姿。


(あの頃のあなたなら、こんなふうに言えなかったはず。)


 それでも今、ノエルは震えながらも、自分の意思で言葉を紡いでいる。


(怖いはずなのに……それでも進もうとしてる。)


 鏡子の胸の奥が、じんわりと熱くなる。守ってあげたいという気持ちと同時に、彼女の強さを信じたいという思いが芽生えていた。


 鏡子はゆっくりとノエルの手を包み込む。

 その手は冷たく、小さく震えていた。

 触れた瞬間、ノエルの指先がわずかに強く握り返してくる。その力の弱さと必死さに、鏡子は胸を締めつけられる。


(こんなに怖いのに、それでも離さないんだね。)


 優しく微笑み、小さく頷く。

 ――言葉を発するまでの、ほんのわずかな沈黙。

 呼吸が浅くなるのを感じながら、鏡子は一度だけ目を閉じる。


 この一言が、彼女の未来を変えるかもしれない。

 その重みを、確かに受け止めながら。

 ゆっくりと、息を吐く。


「……分かった。任せなさい。」


 静かに落とされたその声は、空気を震わせるほどではないのに、不思議と強く響いた。


 短い一言だった。

 けれど、その一言には、


『もう大丈夫。』

『私があなたを支える。』


 そんな想いが込められていた。

 ノエルはもう一度だけ涙を流す。 

その涙は、さっきまでとは少しだけ違っていた。

 胸の奥に溜まっていた恐怖や後悔が、少しずつほどけていくような感覚。幼い頃、ひとりで泣いても誰も気づいてくれなかった夜の記憶がふと蘇る。それでも今は違う、とノエルは思う。


(ひとりじゃない。)


 鏡子の手の温もりが、確かにそこにある。

(怖いけど……でも、進める。)


 涙はまだ止まらない。それでも、その奥にほんのわずかな安堵と決意が混じっていた。

カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。

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