第14話「さよなら、長い髪。」①
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
王都アルトは、朝から歓声に包まれていた。
「帰ってきたぞ!」
「鉄鱗竜討伐隊だ!」
街の大通りを、一団の冒険者たちが歩いてくる。
先頭を歩くのは、長剣を肩に担いだ青年
――カール。
その後ろには、弓を背負ったエルフの射手レインをはじめ、討伐隊の仲間たちが続いていた。
荷馬車には巨大な魔物の亡骸が積まれている。
全身を黒い鉄のような鱗で覆われた巨体。
鋭い爪と牙を持つその姿に、沿道の人々は息を呑んだ。
「すげぇ……。」
「あれが鉄鱗竜か。」
「本当に討伐したんだ!」
歓声が沸き起こる。
子どもたちは目を輝かせ、大人たちも惜しみない拍手を送った。
鉄鱗竜。
強靭な鱗は並の剣では傷一つ付かず、その巨体から繰り出される突進は城門さえ砕くと言われる危険な魔物だ。
何度も討伐隊が組まれ、そのたびに苦戦を強いられてきた。
そんな強敵を討ち倒したのだから、王都が沸くのも当然だった。
カールは歓声を浴びながら満足そうに口元を吊り上げる。
「……悪くねぇ景色だ。」
酒場を兼ねたギルドの広間が、一瞬だけ静まり返る。
重い扉を押し開け、悠然と姿を現したのは銀級冒険者カール。
冒険者たちが一斉に入口へ視線を向ける。
周囲から向けられる羨望の視線を浴びながら、彼は口元に薄い笑みを浮かべる。その表情は、賞賛されることに慣れきった者の余裕そのものだった。
そして勝ち誇った笑み。
だが、その視線の中には、純粋な称賛だけではないものも混じっていた。歓声に紛れて、わずかに眉をひそめる者や、視線を逸らす者もいる。
「やっぱり最後は俺の一撃だったな!」
ギルドへ入るなり、大きな声が響く。
わざとらしく肩を回しながら、他の冒険者たちを見下ろすように視線を流す。
「鉄鱗竜の首を叩き割った時の顔、見せてやりたかったぜ!」
周囲では何人かが苦笑した。
その笑みはどこか引きつっており、隣同士で目を合わせては小さく肩をすくめる者もいる。
誰も拍手をしない。
むしろ、近くにいた数人はさりげなく距離を取るように一歩下がっていた。
だが、カールは気付かない。
いや、気付いていても気にしていない。
(どうせ実力の差に黙ってるだけだろ)
そんなふうに内心で鼻で笑っていた。
「おい、聞いてるか?」
わざとらしく耳に手を当て、反応の薄い周囲を挑発するように見回す。
その仕草に、露骨に顔をしかめる者もいたが、誰も口には出さない。
「俺がいなかったら全滅だったぞ?」
その言葉に、一人の男が静かにため息をついた。
整えられた金髪が印象的なエルフの男。
レインだった。
今回だけ臨時でパーティーを組んだ射手である。
彼は騒ぎ立てる様子とは対照的に、背筋を伸ばしたまま静かに立っていた。周囲の冒険者たちの中には、その落ち着いた佇まいに自然と視線を向ける者もいる。
カールから少し距離を置くように、無意識にレインの近くへと寄る者もいた。
「全滅、ね。」
レインは荷物を机へ置くと、無駄のない動作で手袋を外し、淡々と口を開いた。
「目を射抜いたのは俺。」
「前脚を止めたのは盾役。」
「隙を作ったのは前衛全員。」
「あんたが放ったのは最後の一撃だけだ。」
声は低く、感情をほとんど乗せていない。それでも、その言葉には揺るぎない事実だけが並べられていた。
広間が静まり返る。
何人かの冒険者が小さくうなずき、レインの言葉に同意するような視線を交わす。
中には腕を組んで深くうなずく者や、「その通りだ」と口の中で呟く者もいた。
カールは肩をすくめて笑った。
その仕草には、相手の言葉をまともに受け取る気などないという露骨な軽視が滲んでいる。
その笑みに、近くにいた若い冒険者が思わず顔をしかめ、視線を逸らした。
「最後に倒した奴が英雄なんだよ。」
わざとゆっくりと言い切り、レインを見下ろすように視線を落とす。
「結果がすべてだろ?」
(過程なんて弱いやつの言い訳だ)
内心でそう切り捨てながら、口元を歪めた。
その言葉に、周囲の空気がさらに冷え込む。
誰かが小さく舌打ちし、別の者は露骨に背を向けて会話を再開した。
カールの声を聞かないふりをするように、わざとらしく酒を注文する者もいる。
レインは小さく首を振る。その動きもまた、無駄がなく静かだった。
「……そうか。」
「なら、俺はもうあんたとは組まない。」
その一言に、周囲の冒険者たちも小さくうなずいた。
中には「やっぱりな」と小声で呟く者もいる。
「当然だろ」と低く同意する声も混じった。
彼は踵を返す。
「今回限りだ。」
「仲間を信じられないヤツとは、一緒に戦えない。」
言葉は短いが、はっきりとした拒絶だった。
その言葉に、何人かが安堵したように息を吐く。
まるで自分たちも同じことを言いたかったかのように。
そう言い残し、レインはギルドを後にした。
その背中は騒ぎに振り返ることもなく、ただ静かに扉の向こうへ消えていく。
それでもカールは笑っていた。
去っていく背中を一瞥し、鼻で笑う。
「はっ、好きにしろ。」
腕を組み、わざとらしくため息をつく。
「俺一人で十分だからな。」
(どうせ代わりなんていくらでもいる)
そう思いながら、周囲の冒険者たちを値踏みするように見回した。
だが、その視線を受けた者たちは、露骨に目を逸らした。
中には背を向けてその場を離れる者や、仲間同士で小声で何かを囁き合いながら距離を取る者もいる。
誰一人として、カールの視線に応えようとはしなかった。
その様子を見ていた冒険者たちは、誰一人として近寄ろうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
カウンターの向こうでは、一人の女性が柔らかな笑みを浮かべて待っていた。
栗色の髪を後ろでまとめたギルド受付嬢――ノエル。
「お帰りなさい、カールさん。皆さんも、討伐お疲れ様でした。」
その笑顔に、討伐隊の面々も自然と表情を緩める。
「依頼達成を確認しました。こちらが鉄鱗竜討伐の報酬です。」
ノエルは革袋を両手で差し出した。
ずしり、と音が鳴る。
中には金貨がぎっしりと詰まっている。
「今回の報酬は金貨百五十枚。それと、鉄鱗竜の素材売却分は査定後に追加でお渡しします。」
「百五十枚か。悪くねぇな。」
カールは革袋を片手で受け取ると、中身を軽く確かめて満足そうに笑った。
「さすがカールさんですね。」
ノエルが素直に微笑む。
「鉄鱗竜を討伐できたのは、カールさんたちだからですよ。」
「当然だ。」
カールは肩をすくめる。
「俺がいるパーティーに、不可能なんてねぇ。」
自信に満ちたその言葉に、周囲の冒険者たちから感心したような声が上がる。
そんな様子を見つめながら、ノエルはどこか誇らしげに目を細めた。
「それと……。」
ノエルは受付の引き出しから、もう一つ小さな革袋を取り出した。
「これも受け取ってください。」
「何だ?」
「鎧の整備代です。」
カールは眉を上げる。
「鉄鱗竜との戦いで、かなり傷が付いていましたよね。次の依頼までに直しておいてください。」
「ギルドの金か?」
「いえ、私のお給料からです。」
少し照れながら答えるノエルに、カールは革袋を受け取り、中身を覗いた。
「……悪いな。」
「いいんです。」
ノエルは嬉しそうに微笑む。
「カールさんには、いつも無事に帰ってきてほしいですから。」
カールは革袋を腰にしまうと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういや、明後日だったな。」
「あ……。」
ノエルの頬がぱっと赤く染まる。
「はい。お休みをいただけたので。」
「待ち合わせは、噴水広場だったか。」
「はい! 楽しみにしています。」
弾むような声で答えるノエル。
その笑顔を見たカールは軽く手を挙げると、受付を後にした。
その様子を少し離れた場所から見つめていたバルトは、静かに腕を組む。
(また金を渡したのか……。)
デートの約束をして嬉しそうに笑うノエル。
その姿を見れば、誰もが幸せな恋人同士だと思うだろう。
だが、長年多くの冒険者を見てきたバルトには、カールが向ける笑顔の薄さが気になって仕方なかった。
「ノエルが泣くようなことにならなければいいが……。」
その呟きは、誰の耳にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
翌日の午後。
王都で評判になり始めている『ハサミ理容室』。
木の扉を開けると、澄んだベルの音が店内に響く。
「いらっしゃいませ!」
元気よく迎えたのはミリアだった。
午後は鏡子の弟子として美容室を手伝っている。
扉の前に立っていたのは、一人の女性だった。
栗色の長い髪を揺らし、どこか緊張した様子で店内を見回している。
ノエルである。
(ここが……なりたい自分になれるお店……)
胸の奥が、きゅっと締めつけられるように高鳴る。指先がわずかに冷たくなり、無意識にスカートの裾を握りしめていた。
カールと初めてまともに言葉を交わした日のことが、ふと脳裏に浮かんだ。
あの日、森の奥で魔物に囲まれたとき、足がすくんで動けなくなった自分の前に、彼は迷いなく踏み出してきた。剣を振るうたびに風が唸り、血の匂いと土の匂いが混ざる中で、振り返った彼の目だけがやけに鮮明だった。
「下がってろ」
短く吐き捨てるような声だったのに、不思議と安心してしまった。あのとき、胸の奥で何かが強く跳ねた感覚を、今でもはっきり覚えている。
(あの時……本当に、かっこよかったな……)
思い出すだけで頬が熱くなる。耳の奥までじんわりと熱が広がり、心臓の鼓動が少し速くなるのがわかる。
強引なところもあるし、少し怖いと思う瞬間もある。
実際、仲間に対してきつい言葉を投げる場面を見たこともあった。そのとき、胸の奥がひやりと冷えたのも事実だ。
それでも、あの自信に満ちた態度や、迷いなく前に進む姿に、どうしようもなく惹かれてしまったのだ。
(でも……私なんかで、本当にいいのかな……)
胸の奥に、小さな不安が芽を出す。さっきまで温かかったはずの胸が、今度はじわりと重く沈む。
彼の隣に立つには、自分はあまりにも普通で、地味で――
以前、酒場で彼の周りにいた女性たちの姿がよぎる。華やかで、堂々としていて、笑い声も明るくて。自分とはまるで違う存在に思えた。
その記憶がよみがえった瞬間、喉の奥が少しだけ詰まるような感覚がした。
(もし……並んだときに、がっかりされたら……)
そんな想像が浮かび、思わず息を浅く吸い込む。
だからこそ、せめて見た目だけでも変わりたいと思った。
少しでも、彼の目に映る自分が特別であってほしいと願って。
その願いにすがるように、ここまで来たのだ。
「あっ、初めてのお客様ですね!」
ミリアが明るく声をかけると、ノエルは少し慌てて頭を下げた。
「は、はい……あの、ここがハサミ理容室で合ってますか?」
「はい! そうですよ!」
その声に、鏡子も奥から顔を出す。
「いらっしゃいませ!」
ノエルは鏡子を見ると、少し安心したように微笑んだ。張りつめていた肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「今日は、お願いがあって来ました。」
鏡子は笑顔で椅子を勧める。
「もちろん!」
「どうぞ、こちらへ!」
ノエルは椅子に座りながら、少しだけ頬を赤くした。座った瞬間、膝の上で組んだ手がわずかに震えていることに気づき、そっと指を絡めて落ち着かせる。
(明日……カールさんと二人きり……)
胸が高鳴る一方で、同じくらい不安も膨らんでいく。鼓動が速くなりすぎて、耳の奥で自分の心音が響いているように感じる。
会話はうまくできるだろうか。
変に思われたりしないだろうか。
沈黙が続いたらどうしよう。何を話せばいいのか、頭の中で何度も言葉を並べては消していく。
それでも――
(ちゃんと、可愛いって思ってもらいたい)
その一心で、ここまで来たのだ。
怖い。でも、それ以上に、期待してしまっている自分がいる。
もし、ほんの少しでも優しく笑ってくれたら――
そんな想像が浮かぶたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
◇ ◇ ◇
ノエルは椅子に座りながら、少しだけ頬を赤くした。
(明日……カールさんと二人きり……)
胸が高鳴る。
森で魔物に囲まれたあの日。
迷いなく鉄剣を振るう姿は誰よりも頼もしかった。
あの日から、カールは特別な存在になった。
(明日は……もっと私のことを見てくれるかな。)
そんな期待を胸に、ノエルはそっと微笑む。
「実は……明日、デートなんです。」
鏡子の目が一気に輝いた。
「えぇーーっ! 本当に!?」
店内に明るい声が響き、ノエルはさらに顔を赤くする。
「お相手はどんな人なの?」
「それで……その人が、カールさんっていう冒険者なんですけど……」
ノエルは少し照れながら、小さな革袋から一枚の転写板を取り出した。
「転写魔法で撮ってもらったものなんです。」
鏡子は興味津々で受け取る。
「へぇ~。」
「……って、この人!」
「結構イケメンじゃない!」
ミリアも横から覗き込む。
「わぁ、本当ですね!」
「強そう!」
「その人に、似合う髪型にしたくて……」
鏡子はぐっと身を乗り出した。
「なるほど!」
「好きな人のために可愛くなりたいってことね!」
ノエルは小さくうなずく。
「はい……その人、強くてかっこよくて……」
「だから、少しでも可愛いって思ってもらえたらって……」
(もし……少しでも、私のことを見てくれたら……)
そんな淡い期待が、胸の奥でそっと灯る。
同時に、もし期待外れだったらどうしようという怖さも消えない。胸の奥で、温かさと冷たさが交互に押し寄せるようだった。
それでも――
(後悔だけは、したくない)
鏡子はにっこりと笑った。
「では、この私に任せちゃいなさい!」
奥で理容の仕事をしていた亮一も、女子たちの騒ぎに苦笑しながら顔を上げる。
「鏡子。」
「そんなに騒いだら、他のお客さんに迷惑だろ。」
「あっ、ごめんごめん!」
鏡子は舌を出して笑う。
改めて転写板を見つめる。
「じゃあ、この人が思わず惚れ直しちゃうくらい可愛くしてあげる。」
ノエルは驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「よろしくお願いします。」
鏡子は腕まくりをすると、にやりと笑う。
「美容師の腕の見せどころね!」
◇ ◇ ◇
鏡子はノエルの後ろへ回ると、長い髪を優しく手に取った。
「すごく綺麗な髪。ちゃんとお手入れしてるんだね。」
指先を滑らせながら感心したように微笑むと、ノエルは少し照れたように笑った。
「毎日、頑張ってます。カールさんが……長い髪が好きなので。」
その言葉に、鏡子は一瞬だけ手を止める。ほんのわずかに、鏡の中のノエルの表情が揺らいだように見えた。だがすぐに柔らかな笑顔へ戻り、ブラシを動かしながら続けた。
「そっか。じゃあ、その長所をもっと引き立ててあげなきゃね。」
ノエルは嬉しそうに頷く。鏡越しに見えるその表情は、恋をする女性そのものだった――けれど、どこか焦りのような影が一瞬だけよぎった気がした。
「明日はどこへ行くの?」
「王都の噴水広場で待ち合わせをして、それから食事をする予定なんです。」
「いいなぁ。初デート?」
からかうような声音に、ノエルは真っ赤になった。
「は、はい……ちゃんと二人きりで出掛けるのは初めてです。」
「じゃあ緊張するね。」
「はい……。」
胸の前で手を握りしめながら、ノエルはぽつりぽつりと続ける。
「昨日から眠れなくて、服も何度も着替えて……変じゃないかなって何回も鏡を見て……。」
その健気な様子に、鏡子は思わず笑みをこぼしたが、鏡の奥でノエルの視線が一瞬だけ自分ではないどこかを見ているように感じ、わずかに眉をひそめる。
「恋する女の子って、みんなそうなんだよ。好きな人の前では、少しでも可愛く見られたい。それって、すごく自然なこと。」
その会話を聞いていたミリアも、嬉しそうに口を開いた。
「ノエルさん、大丈夫です!鏡子さんにカットしてもらったら、絶対可愛くなります!」
ノエルは安心したように微笑む。
「ミリアちゃん……。ありがとうございます。」
鏡子は髪全体のバランスを確認し、前髪を整え始めた。
「長さは変えないけど、前髪と毛先を少し調整するね。あと、顔周りに少し動きをつける。それだけで印象はかなり変わるから。」
「お願いします。」
店内には、規則正しいハサミの音が響く。
チョキ、チョキ。
窓から差し込む午後の陽射しが、栗色の髪をやわらかく照らしていた。だがその光は、どこか冷たく感じられ、鏡の中の影をわずかに濃くしているようにも見えた。
亮一は隣の理容スペースで仕事をしながら、その音に耳を傾ける。鏡子が楽しそうに仕事をしている様子に、小さく笑みを浮かべたが、ふとハサミのリズムが一瞬だけ乱れたことに気づき、首をかしげる。
やがて鏡子は最後にブラシで髪を整え、軽く巻きを加える。
「よし、完成!」
ノエルは恐る恐る鏡を見た。
「……えっ。」
思わず息を呑む。
そこに映っていたのは、いつもの自分だった。けれど、どこか違う。長い髪はそのままなのに、表情まで明るく見える。柔らかな毛流れが顔立ちを優しく包み込み、少し大人びた雰囲気を引き出していた。
「すごい……私じゃないみたい。」
鏡子は首を横に振る。
「ううん。これは、ノエルさんがもともと持っていた魅力だよ。私は、それを少し引き出しただけ。」
ノエルの瞳に、じんわりと涙が浮かぶ。
「ありがとうございます……。」
鏡子は照れくさそうに笑ったが、その涙の奥にある何かを見極めようとするように、ほんのわずかに視線を細めた。
「明日は楽しんできて。きっと素敵な一日になるよ。」
その言葉に、ノエルは力強く頷く。
「はい!」
笑顔で店を後にするノエル。扉のベルが軽やかに鳴り、午後の陽射しの中へ消えていく。その背中は明るい光に包まれていたが、なぜか影だけがわずかに遅れてついていくように見えた。
その背中を見送りながら、鏡子は満足そうに息をついた。
「うまくいくといいね。」
亮一も静かに頷く。
「ああ。幸せそうな笑顔だった。」
だが亮一は、扉が閉まったあとも、しばらくその方向から目を離せなかった。
◇ ◇ ◇
翌日。
王都は雲ひとつない青空だった。
窓から差し込む朝日を浴びながら、ノエルは鏡の前で何度も深呼吸を繰り返していた。
胸の奥が、落ち着かない。
息を吸うたびに、期待が膨らんで、吐くたびに少しだけ不安が混じる。
鏡子に整えてもらった髪。
昨夜は崩さないよう、いつも以上に気を付けて眠った。
寝返りを打つたびに目が覚めて、そのたびに髪に触れて確かめていたことを思い出す。
お気に入りの白いワンピースに袖を通し、小さな耳飾りを身につける。
指先が少し震えて、留め具を何度か落としそうになった。
鏡の中には、少しだけ大人びた自分が映っていた。
(大丈夫……。)
(ちゃんと、笑えてる。)
頬に手を当てると、ほんのりと熱を帯びているのが分かる。
胸の鼓動が、いつもより速い。
(今日は、きっと素敵な一日になる。)
そう思いたい気持ちと、もし違ったらどうしようという小さな影が、胸の奥で揺れていた。
それでも、ノエルはその影を押し込めるように、小さく微笑み、家を出た。
◇ ◇ ◇
王都中央広場。
噴水から涼しげな水音が響き、多くの人々が行き交っている。
ノエルは待ち合わせ場所へ着くと、時計塔を見上げた。
「まだ少し早かったかな。」
約束の時間までは十分ほどある。
朝の空気はまだひんやりとしていて、頬に触れる風が心地よい。
胸の奥にあった緊張が、ほんの少しだけ緩む。
けれど同時に、待つ時間が始まるのだと思うと、指先が落ち着かなくなる。
スカートの裾をそっと握りしめて、また離す。
足先で石畳を軽く叩きながら、何度も時計塔を見上げる。
やがて鐘が鳴る。
約束の時間。
ノエルは人混みの向こうを何度も見つめた。
(もうすぐ来るよね。)
胸が高鳴る。
視線が自然と入口へ吸い寄せられる。
人影が動くたびに、心臓が跳ねる。
しかし、カールの姿は見えない。
十分。
最初の十分は、まだ余裕があった。
風が少し暖かくなり、広場のざわめきも増えていく。
ノエルは背筋を伸ばし、何度も髪を整え直す。
足の裏に感じる石畳の硬さも、まだ気にならない。
二十分。
陽が少し高くなり、日差しがじわりと強くなる。
額にうっすらと汗が滲み、首筋に張り付く髪が気になり始める。
視線を向ける回数が増え、首を動かすたびに肩がこわばっていく。
胸の鼓動はまだ速いが、その中にわずかな違和感が混じり始める。
三十分。
足の裏がじんわりと痛み始める。
同じ場所に立ち続けているせいで、ふくらはぎが重くなる。
喉が少し乾いていることに気付くが、離れるのが怖くて動けない。
胸の鼓動は高鳴りから、じわじわと重たいものへと変わっていく。
人通りは変わる。
待ち合わせをしていた恋人たちは笑顔で去っていく。
その笑顔が、少しだけ眩しくて、目を逸らしたくなる。
家族連れが噴水の前で転写魔法の記録を残している。
楽しそうな声が耳に入るたびに、自分だけが取り残されているような感覚が胸に広がる。
少し移動してみるが、すぐに元の位置に戻ってしまう。
離れた瞬間に来てしまうのではないかという不安が、体を縛りつけていた。
(依頼が長引いてるのかな。)
(カールさんだもん。きっと急な仕事なんだ。)
そう考えるたびに、少しだけ安心する。
けれど、その安心は長く続かない。
すぐに別の考えが浮かぶ。
(もしかして、忘れてる……?)
その考えを振り払うように、首を小さく振る。
自分に言い聞かせるように、小さく笑う。
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
一時間。
鐘の音が遠くに響いた気がした。
時間の感覚が曖昧になり、ただ立っているだけなのに体が重い。
足の裏の痛みは鈍く広がり、膝がわずかに震える。
胸の奥がじわじわと締め付けられ、呼吸が浅くなる。
昼を過ぎる。
屋台から漂う香ばしい匂いに気付いても、食欲は湧かなかった。
お腹は空いているはずなのに、喉の奥が詰まったようで、何も入る気がしない。
噴水の縁に腰掛けると、石の冷たさがじんわりと伝わる。
その冷たさが、逆に体の熱を際立たせた。
何度も広場の入口へ視線を向ける。
座っても落ち着かず、すぐに立ち上がり、また座る。
見間違いをしては肩を落とし、
また期待しては首を伸ばす。
そのたびに、胸がきゅっと締め付けられる。
その繰り返しだった。
五時間。
周囲の音が遠く感じられる。
笑い声も、水音も、どこか膜を隔てたようにぼやけていた。
自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
指先が冷たくなり、無意識に胸元を押さえる。
西へ傾いた陽が、広場を橙色に染め始める。
噴水の水面が夕焼け色に輝いていた。
その光景が、どこか遠くのもののように感じられる。
ノエルは小さく息を吐く。
吐き出した息が、思っていたよりも重くて、自分でも驚いた。
「……今日は、来られなかっただけ。」
「きっと、そう。」
誰に聞かせるでもない言葉だった。
言葉にしないと、心が崩れてしまいそうだった。
寂しさを押し隠すように笑顔を作る。
頬の筋肉がうまく動かず、少しだけ引きつる。
その笑顔は少しだけ震えていた。
ゆっくりと立ち上がる。
足が少しだけ重い。
長く立ち続けたせいで、感覚が鈍くなっている。
帰り道。
行き交う恋人たちの笑い声が、いつもより少しだけ遠く感じた。
耳に届いているはずなのに、どこか別の世界の音のようだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
冒険者ギルド。
受付へ向かう途中、カールの姿を見つけたノエルは、ぱっと表情を明るくした。
胸の奥に残っていた重さが、一瞬で軽くなる。
「カールさん!」
カールは振り返る。
「あ?」
視線だけを向けるような、気のない反応だった。
ノエルは安心したように笑う。
「昨日は大丈夫でしたか?」
「急な依頼だったんですよね?」
カールは頭をかきながら、面倒そうに答える。
「ああ。」
「まあ、そんなとこだ。」
それだけだった。
理由も説明しない。
謝罪らしい謝罪でもない。
むしろ、どうでもいいことを聞かれているような声音だった。
その言葉の軽さに、胸の奥がほんの少しだけざわつく。
けれど、そのざわつきを認めるのが怖くて、すぐに押し込める。
それでもノエルは首を横に振る。
「無事なら、それで良かったです。」
そう言って微笑む。
その笑顔は、昨日よりも少しだけ力が入っていた。
その笑顔を見たバルトは、少しだけ眉をひそめた。
カールはそれにも気付かず、あるいは気付いても興味がないのか、そのまま視線を外す。
「じゃあな。」
短く言い捨てるようにして、カールはギルドを出ていく。
振り返ることもなかった。
ノエルはその背中を見送りながら、小さく胸をなで下ろした。
指先が、無意識に胸元を押さえている。
(良かった。)
(本当に何かあっただけだったんだ。)
そう信じようとしていた。
胸の奥に残る小さな違和感に、気付かないふりをしながら。
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




