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第12話 もう一度、前を向いて②

異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~

作者:阿波根サキ


 カラン――。


 乾いたベルの音が澄んだ空気を震わせ、朝の陽射しとともに、理容室の扉が静かに開いた。外のひんやりした空気が一瞬流れ込み、すぐに店内の温もりと混ざり合う。ほのかに漂うシェービングクリームと整髪料の甘い香りが鼻をくすぐった。


「いらっしゃい。」


 新聞を畳みながら、亮一は顔を上げる。紙の擦れる音が静かな店内に柔らかく響いた。


 店へ入ってきたのは、大柄な中年の男だった。

 

「でか……」


 誰かが小さく呟く。


鍛え抜かれた肩幅。

 長年剣を振るってきたことが分かる節くれ立った手。

 その立ち姿だけで、只者ではないと分かる。


 しかし、その表情はどこか硬く、迷いを抱えているようにも見えた。


 窓から差し込む朝の光が男の輪郭を縁取り、床に長い影を落とす。鏡に反射した光が店内をやわらかく照らし、ハサミやカミソリの金属がきらりと光った。


「どうぞ、こちらへ。」

「……ああ。」


 亮一は柔らかく声をかけ、椅子を引く。革張りの椅子がわずかに軋み、低い音を立てた。


 男が腰を下ろそうとした、その時だった。


「おっ、ギルド長じゃねぇか!」

「おいおい、珍しいな!」

「今日は休みっすか?」

「まさか散髪? 似合わねぇなぁ!」

「はは、言うなって!」


 待合席の常連たちが口々に騒ぎ出す。新聞をめくる音や、椅子に体を預ける衣擦れの音が重なり、店内が一気に賑やかになる。


 店内の視線が一斉に男へ集まった。


 そこで初めて、亮一はこの男が冒険者ギルドの長だと知る。


「ギルド長……か。」


 小さく呟く。

 男――バルトは、気まずそうに肩をすくめると、ゆっくり帽子を脱いだ。

 頭頂部は大きく薄くなり、左右の髪だけが残っている。


「……まぁ、そんなとこだ。」

「……。」


 いつもの豪快さは影を潜め、言葉もどこか歯切れが悪い。

 亮一はその様子に、わずかな違和感を覚えた。


(この人……)

(ただ髪を切りに来た顔じゃないな。)


 長年の接客で培った勘だった。

 鏡子も女性客の髪を整えながら、ちらりとバルトを見やる。ハサミが軽やかに鳴り、細かな髪がふわりと床へ落ちる。


「……。」


 同じことを感じ取ったらしい。


 亮一は椅子をゆっくり回し、鏡の正面へ向けた。回転する椅子の軸が低く唸る。


「今日はどうする?」

「横を整えて、髭も少し短くするか?」

「……。」


 軽く探るように言うが、バルトはすぐには答えない。

 膝の上で握った拳に、じわりと力がこもる。

 何度も口を開きかけては、閉じる。


「……。」


 やがて、大きく息を吸った。胸が上下し、わずかに革の椅子が軋む。


「……頼みがある。」


 低く、腹の底から絞り出すような声だった。

 亮一は穏やかに頷く。


「いいよ。聞かせてくれ。」


 バルトは鏡に映る自分をじっと見つめる。

 震える指先が、無意識に頭頂部へ触れた。


「……。」


 覚悟を決めるように、ゆっくりと口を開く。


「髪を……」


 一度、言葉が途切れる。

 喉がごくりと鳴った。


「髪を、生やせねぇか。」


「……え?」


 誰かが思わず声を漏らす。


 店内が、しんと静まり返る。先ほどまで聞こえていたハサミの音も止まり、空気が張り詰める。


 ――次の瞬間。


「ぶはっ!」

「ギルド長、それはさすがに!」

「無茶言うなって!」

「理容師は魔法使いじゃねぇぞ!」

「ははははは!」


 遠慮のない笑い声が広がった。乾いた笑いが壁に反響し、空気を揺らす。


 バルトは苦笑いを浮かべる。


「……だよな。分かってる。」

「……。」


 自嘲気味に肩を落とす。


 その時だった。


「――だまりなさい!!」


 鋭い声が店内を切り裂いた。


「っ!」


 笑い声がぴたりと止む。


 鏡子はハサミを置き、ゆっくりと店内を見回した。金属が台に触れる小さな音が、やけに大きく響く。


「何がそんなにおかしいの?」

「……。」


 静かな声なのに、空気が張り詰める。

 誰も答えない。


「この人はね、勇気を出して相談してるの。」

「それを笑うくらいなら――帰って。」


「……す、すみません。」


 ぴしゃりと言い切る。


 店内は水を打ったように静まり返った。誰かが息を呑む音さえ聞こえる。


 鏡子はさらに続ける。


「理容師も美容師も、お客様の悩みに向き合う仕事。」

「笑うための仕事じゃないわ。」

「……はい。」


 亮一は思わず小さく息を漏らした。

(ありがとよ。)

(俺も、同じこと言うつもりだった。)


 鏡子と目が合う。

「……。」


 言葉はない。

 それでも、通じていた。


 一方――


 ミリアは俯いていた。


(私……)

 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ、笑いそうになってしまった。


「……。」

 その自分が、ひどく恥ずかしい。


(亮一さんは笑わなかった。)

(鏡子さんも笑わなかった。)

(ちゃんと、お客様の気持ちを見てる。)


 技術だけじゃ足りない。

 心に寄り添うこと。

 それが、本当の美容師。


 ミリアはぎゅっと拳を握る。


(私も……ああなりたい。)


◇ ◇ ◇


「……よし。」


 亮一は静かに立ち上がった。足音が床に軽く響く。


「鏡子。」

「他のお客さん、頼めるか?」

「ええ、任せて。」


 鏡子は短く頷く。


 亮一はバルトの椅子を、店の奥へゆっくりと動かした。キャスターが床を滑る音が静かに続く。


「名前、聞いてもいいか?」

「……バルトだ。」

「俺は亮一。」

「リョーイチ、改めてよろしく。」


 高さを調整しながら、鏡越しに目を合わせる。レバーを引くと、椅子がわずかに上下した。


「じゃあ、ちゃんと聞かせてくれ。」

「どうして、そこまで髪を生やしたい?」


 バルトは少しだけ照れたように笑う。


「……笑うなよ?」

「笑わない。」

「……そうか。」


 そして、ぽつりぽつりと語り始めた。

 亡き妻との約束。

 娘を育てるためだけに生きてきた日々。

 その娘が嫁ぐこと。


 そして――


 初恋の幼馴染、エリナとの再会。


「もう一度……」

「一人の男として、あいつの隣を歩きてぇ。」

「……。」


 亮一は最後まで黙って聞いた。


 鏡子も手を動かしながら、耳を傾けている。再びハサミの軽やかな音が戻り、緊張が少しずつほどけていく。


「……いい話じゃない。」


 誰かが小さく呟く。

 誰一人、茶化さない。

 話が終わると、亮一は静かに腕を組んだ。


(さて……)

(どうする。)


 理容師として。

 一人の職人として。

 この依頼から逃げるわけにはいかない。

「……やるしかないな。」


◇ ◇ ◇


 亮一は腕を組んだまま、しばらく黙り込んでいた。

 鏡に映るバルトの頭頂部へ、じっと視線を落とす。


(……これは、マズイな。)


 これまで数えきれないほどの依頼を受けてきた。

 似合う髪型の提案。

 扱いづらい癖毛。

 進行する薄毛。

 手に負えない剛毛。


 どんな悩みでも、逃げずに向き合ってきた。


 だが――。


(髪を“生やす”だと。)

(それは、俺たちの領分じゃない。)


 亮一はゆっくりと息を吐き、口を開いた。


「……一つずつ、潰していく。」

「だから、少しだけ時間をくれ。」


 バルトは低く、落ち着いた声で応じる。


「……ああ、構わん。」


 亮一は鏡子を呼ぶ。

「鏡子、ちょっと来てくれ。」

「相談だ。」


 二人は少し離れた場所へ移動する。

 亮一が短く切り出す。


「まず、カツラ。」

 鏡子は即座に首を振った。

「論外ね。あの頭頂部を自然に隠せるものはこの店にはないわ。」

「ウィッグ。」

「同じよ。境目が絶対に浮く。」

「黒い粉。」

「地肌に振っても意味ないでしょ。誤魔化しにもならない。」

「サイドを伸ばして持ってくる。」

「時間がかかりすぎるし……何より、お客様の望みとは違う。」


 二人の間に沈黙が落ちる。

 亮一は頭をかき、大きく息を吐いた。


「……参ったな、これは。」


 鏡子も腕を組み、眉を寄せる。

「私も、こんなケース初めてよ。」


 店内に重たい空気が漂う。

 その様子を見て、バルトは肩をすくめ、小さく笑った。


「すまんな。」

「無理を言っているのは承知している。」


 亮一は首を横に振る。


「無理かどうかを決めるのは、最後だ。」

「俺たちは、お客さんの可能性を勝手に切り捨てたりしない。」


 鏡子も力強く頷く。

「ええ。やれることは全部やるわ。」


 その言葉に、バルトはわずかに目を見開いた。

 ここまで真剣に向き合われるとは思っていなかった。


 その時だった。


「あ、あの……!」

 ミリアがおずおずと手を挙げる。


 三人の視線が一斉に集まる。


「これ……どうでしょうか?」

 ミリアが差し出したのは、小さな茶色い瓶だった。

 ラベルには大きく描かれた髪の毛のイラスト。


 そして――


『発毛剤リグロー』

 亮一は瓶を受け取り、思わず目を見開く。

「……おい、これ。」


 鏡子も思わず声を漏らした。

「ちょっと、それ……。」


 地球から一緒に転移してきた毛生え薬だった。

 ミリアは首を傾げる。


「絵を見る限り……。」

「髪が生えてくる薬、ですよね?」


 亮一と鏡子は顔を見合わせる。

(いや……。)

(日本でも、そういう触れ込みだったけど……。)

(実際に効いたなんて話、聞いたことないぞ。)


 亮一は苦笑混じりに言う。

「まぁ……宣伝はそうだったな。」


 鏡子も肩をすくめる。

「私は美容師だから専門外だけど……。」

「正直、期待したことは一度もないわね。」


 沈黙が落ちる。

 亮一は瓶をじっと見つめた。

 店内も静まり返る。

 やがて、ゆっくりとバルトの前へ歩み寄る。


「バルト。」

「……なんだ。」

「正直に言う。」

「これで生える保証はない。」


 バルトは静かに頷く。


「だろうな。」

「だが――?」


 亮一は瓶を強く握りしめる。


「何もしないで終わるのは、俺が嫌なんだ。」

「だから、一度だけ……俺に任せてくれ。」


 バルトはわずかに口元を緩めた。


「……十分だ。」

「そこまで本気で向き合ってくれた。それだけで価値がある。」


 亮一は蓋を開ける。

 独特の薬草の香りがふわりと広がった。

 指先に液を取り、頭頂部へ丁寧に塗り込んでいく。


 優しく。

 頭皮を傷つけないように。

 まるで祈るように。


 一本でも多く、髪が芽吹くことを願いながら。

 すべて塗り終えると、亮一はタオルを差し出した。


「今日はここまでだ。」

「……感謝する。」


 バルトは深々と頭を下げた。

 そして静かに店を後にする。


 閉店後。


 店内には静かな空気が流れていた。

 亮一は椅子に腰掛け、天井を仰ぐ。


「……どう考えても、厳しいな。」


 鏡子も苦笑する。

「明日、謝る準備はしておいた方がいいかもね。」


 二人とも悔しかった。

 もっと何かできたはずだと。

 もっと力になりたかったと。

 そんな思いだけが胸に残る。


 一方、その頃――。


 帰宅したバルトは風呂を済ませ、寝支度を整えていた。


「さて……休むとするか。」


 ベッドへ身を沈める。

 しばらくすると。


「……む?」


 頭頂部がむずむずする。

 痒いような。

 くすぐったいような。


「薬の影響か……。」


 気にしないように目を閉じる。

 それでも、その違和感は夜通し続いていた。


◇ ◇ ◇


 翌朝。

 窓から差し込む朝日が、バルトの顔を照らした。


「……ん。」


 昨夜は頭頂部がむずむずして、何度も目が覚めた。

 まるで何かが芽吹くような、不思議な感覚だった。


「まったく……歳を取ると眠りも浅いな。」


 苦笑しながら洗面所へ向かう。

 いつものように顔を洗い、鏡へ目を向けた。


「……。」


 動きが止まる。

 心臓が一瞬、強く跳ねた。


「……は?」


 鏡の中の自分を見つめる。

 頭頂部。

 そこにあったはずの地肌が見えない。

 代わりに、黒々とした髪が好き放題に伸びていた。

 信じられない光景に、思考が追いつかない。

 指先が震えながら、そっと頭に触れる。

 確かな感触。

 柔らかく、温かい――紛れもない、自分の髪。


「……な。」


 胸の奥から、何かが込み上げてくる。

 長い年月、諦めていたものが、突然戻ってきた現実。

 嬉しさと戸惑いが入り混じり、言葉にならない。


「なんじゃこりゃあああっ!!」


 家中に絶叫が響いた。


◇ ◇ ◇


 理容室。


 開店準備をしていた亮一と鏡子は、勢いよく開いた扉に驚いて振り返る。


「リョーイチ!」

「見てくれ!」


 帽子を脱いだバルトを見て、二人とも固まった。


「……。」

「……。」


 頭頂部いっぱいに生えた髪。

 寝癖で四方八方へ跳ねている。

 亮一は何度も瞬きをした。


「……鏡子。」

「うん。」

「俺、まだ寝てる?」

「残念だけど起きてる。」


 ミリアも目を丸くする。

「ほ、本当に生えてる……。」


 亮一は慌ててリグローの瓶を手に取り、説明書きを読み始めた。

 鏡子も肩越しに覗き込む。


『早い人は翌日から効果を実感できます。』


 二人は顔を見合わせた。


「……。」

「……。」

「んなアホな!!」


 二人の声がぴったり重なった。


 店内は一瞬静まり返り、次の瞬間、思わず笑いがこぼれた。


 しかし亮一はすぐに真顔へ戻る。

 店の中をゆっくり見回した。


 電気。

 水道。

 お湯。

 地球から持ち込んだシャンプー。リンス。整髪料。


 減っても翌日には補充される。

 今まで「不思議だな」で済ませていた現象。

 その点と点が、一つに繋がった。


「……そういうことか。」


 鏡子も頷く。


「地球の商品だけ。」

「説明書どおりの性能になる。」


 二人は同時に息をのむ。

 思いがけない発見だった。


 亮一はバルトの頭を見つめ、ふっと笑う。


「……髪さえあれば。」


 ハサミを手に取る。

「こっちのもんだ。」


 バルトも大きく頷いた。

 胸の奥に、久しく感じていなかった高揚が広がる。

 鏡に映る未来の自分を想像し、自然と口元が緩んだ。


「頼む。」

「人生で一番、かっこよくしてくれ。」


 その言葉には、期待と、ほんの少しの不安が混じっていた。


 亮一は笑った。

「任せろ。」


◇ ◇ ◇


 白いクロスが首元を包む。

 久しぶりに髪を切る音が店内へ響く。


 チョキ……

 チョキ……


 ハサミが軽やかなリズムを刻む。

 切り落とされた髪が肩から舞い落ちる。

 バルトは目を閉じた。


「……この感覚。」


 頭皮に触れる空気、髪が整えられていく感触。

 忘れていたはずの記憶が、鮮やかに蘇る。

 若い頃、何気なく過ごしていた日常。


 それがどれほど尊いものだったのか、今になって痛いほど分かる。

 胸がじんわりと温かくなる。


「何十年ぶりだろうな。」


 亮一も笑う。

「髪を切るって、気持ちいいだろ。」


「ああ。」

「こんなに気持ちいいもんだったんだな。」


 思わず声が弾む。


 ただ髪を切っているだけなのに、心まで軽くなっていくようだった。


 長く伸びた髪を整え、頭の形に合わせて少しずつ立体感を作っていく。

 サイドは短く。

 トップは自然な動きを残す。

 年齢に合った落ち着きと、大人の色気。


 鏡子もその手元を見つめる。


「さすが。」

 思わず呟いた。


◇ ◇ ◇


「次はシャンプー。」


 温かなシャワーが頭皮を包む。


「……ふぅ。」


 自然と力が抜ける。


 頭皮に触れる水の感触が、こんなにも心地よいものだったとは。

 亮一の指先が頭皮を優しく揉みほぐす。

 円を描くように。

 ゆっくり。

 丁寧に。

 泡が立ち、爽やかな香りが広がった。

 その香りに包まれながら、バルトは思わず目を細める。

 まるで長年の疲れが溶けていくようだった。


「……これは。」

「極楽だ。」


 思わず本音が漏れる。

 店内に笑いが起こる。

 コンディショナーを流すと、ほのかな甘い香りが残る。


 バルトは深く息を吸った。

 胸いっぱいに広がる香りに、心まで満たされる。


「いい匂いだ。」


 鏡子が笑う。

「女性はね、そういう所もちゃんと見てるの。」

「そういうもんか。」

「そういうもの。」


◇ ◇ ◇


 蒸しタオル。

 顔全体を包み込む。


「熱っ……いや。」

「気持ちいい。」


 じんわりとした温もりが顔全体に広がる。

 緊張していた表情筋がゆるみ、自然と安らぎが訪れる。

 髭が柔らかくなる。


 亮一はカミソリを静かに滑らせた。


 ジョリ……

 ジョリ……


 余分な髭が消えていく。

 眉。

 耳周り。

 首筋。

 すべて整える。


 自分が少しずつ整えられていく感覚に、どこか誇らしさすら覚える。


 最後に冷たいタオル。


「……生き返る。」


 バルトは思わず笑った。

 心も体も、まるで新しくなったようだった。


◇ ◇ ◇


 ドライヤー。

 ワックス。

 指先だけで自然な毛流れを作る。

 最後に前髪を軽く流した。


 亮一は鏡へ椅子を向ける。


「終わったぞ。」


 バルトはゆっくり目を開く。

 胸が高鳴る。

 期待と緊張が入り混じり、息を呑む。


「……。」


 鏡の中には。


 渋さを残しながらも若々しく生まれ変わった、一人の男がいた。

 頬に整えられた髭。

 清潔感のある髪型。

 自信に満ちた表情。


 それは、かつての自分よりも、ずっと魅力的に見えた。


「……俺か。」


 声が震える。

 信じられないという思いと、込み上げる喜び。

 胸の奥が熱くなり、視界がわずかに滲む。


「もう一度……。」

「髪を切る日が来るなんて思わなかった。」


 長い年月、諦めていた願い。

 それが今、現実になっている。

 その事実が、何よりも嬉しかった。

 目頭が熱くなる。


「ありがとう。」


 亮一は照れくさそうに笑った。

「礼なら、まだ早い。」

「ちゃんと成功してから言え。」


「……え?」


 亮一はニヤリと笑う。

「思い切ってアタックしてこい。」


 バルトは拳を握る。


 胸の奥に、新たな勇気が湧き上がる。

 この姿なら、きっと――。


「……おう!」


 その返事を聞いた瞬間。


「――ちょっと待ちなさい。」


 鏡子の声が店内に響いた。


◇ ◇ ◇


 鏡子の一声で、店内の空気が止まった。

 亮一とバルトは同時に振り返る。


「……何だ?」

 亮一が首を傾げる。


 鏡子は呆れたように額へ手を当て、大きくため息をついた。

「そのまま告白に行く気?」


 鏡子は二人の無防備さに、思わず心配と苛立ちが入り混じった感情を抱いた。

 胸の奥がざわつき、思わず声が強くなるのを自覚していた。


「……。」

「……。」


 二人とも固まる。


「え?」


 バルトが間の抜けた声を漏らした。

 予想外の指摘に、心臓が一瞬跳ね上がる。


「何か問題あるのか?」


 鏡子は肩を落とした。

「はぁ……。」

「ミリア。」

「はい。」


 二人は顔を見合わせる。


「これだから男は。」

「詰めが甘いんですよね。」


 まるで打ち合わせでもしていたかのように息がぴったりだった。


 亮一とバルトは思わず姿勢を正す。

 背筋に冷たいものが走り、自然と緊張が走る。


「花束!」

 鏡子が指を突き付ける。

「ちゃんと持っていきなさい!」


「服!」

 ミリアも負けじと続ける。

「その普段着じゃなくて、もっとちゃんとした服を着てください!」


 鏡子はさらに畳みかける。

「女性は髪だけ見てるんじゃないの。」

「どれだけ大切に思ってくれてるかも見てるの。」


 ミリアも大きく頷く。

「気持ちは、ちゃんと形にしないと伝わりません!」


 亮一とバルトは背筋を伸ばし、

「はい!!」


 と声を揃えた。

 胸の奥に決意が灯り、自然と拳に力が入る。


 二人はようやく事の重大さに気づき、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。


◇ ◇ ◇


 その日の夕方。

 バルトは市場を歩いていた。


「ナラ。」


 花屋の店先で振り向いたナラは、バルトの姿を見るなり目を丸くした。

「ギルド長!?」

「その髪……!」

「色々あってな。」


 照れ臭そうに頭を掻く。

 頬がわずかに熱くなり、視線を逸らしたくなる。


「花束を選んでほしい。」


 ナラはにっこり笑った。

「任せてください。」


 ナラが選んだ花は、淡い青と白の花びらを持つ花だった。

「この花は『ルミエラ』って言います。」

「花言葉は――」

「『愛の再会』」

「そして、**『共に紡ぐ未来』**です。」


 バルトは静かに花束を受け取った。


 その花言葉を聞いた瞬間、胸の奥に長年押し込めていた想いが静かに蘇った。

 指先がわずかに震え、花束を握る手に力がこもる。


「ありがとう。」


◇ ◇ ◇


 約束の場所。

 夕日に染まる広場。

 エリナがやって来る。


「お待たせ……。」


 言葉が止まった。


「……え?」


 目の前に立つ男性を見つめる。

 整えられた髪。

 品よく整えられた髭。

 清潔感のある服装。

 若い頃よりも渋みを増した笑顔。


「どちら様……ですか?」


 エリナは目の前の変化に戸惑いながらも、どこか懐かしさを感じて胸がざわついた。

 心臓が早鐘のように鳴り、視線を逸らせなくなる。


 バルトは苦笑した。

「そんなに変わったか。」


 その声で、エリナは息を呑む。

 胸の奥が一気に熱くなり、記憶が鮮やかに蘇る。


「……バルト?」

「驚かせて悪い。」


 バルトは花束を差し出した。

「これを。」


 エリナはそっと受け取る。

 指先が触れた瞬間、微かな震えが伝わる。

 花の香りが二人を包んだ。


 しばらく沈黙が流れる。


 やがてバルトは、まっすぐエリナを見つめる。

「若い頃、一度も言えなかった。」

「冒険者になる夢ばかり追いかけて。」

「本当に大事なことを伝えられなかった。」


 一度、大きく息を吸う。


 その瞬間、これまでの後悔と決意が胸の中で一つに結ばれた。

 鼓動が強く打ち、逃げ場のない覚悟が全身を満たす。

「ずっと好きだった。」

「そして今も好きだ。」


 エリナの瞳に涙が浮かぶ。

 長い年月を経ても変わらない想いに、胸が締め付けられるようだった。

 視界が滲み、言葉が喉に詰まる。


「これから先の人生。」

「俺と一緒に歩いてくれないか。」


 夕風が二人の間を優しく吹き抜けた。

 エリナは涙を拭いながら、小さく頷く。


「……はい。」

「よろしくお願いします。」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に温かな安堵が広がった。

 肩の力が抜け、自然と笑みがこぼれる。


 その笑顔は、若い頃と少しも変わらなかった。


◇ ◇ ◇


 数日後。


 王都の大通り。


「あ、お父さん!」

 娘が笑顔で手を振る。

 隣には夫。


 その先には、仲良く並んで歩くバルトとエリナの姿。


「お父さん。」

「髪が生えて、本当に素敵になったね。」


 バルトは照れ臭そうに笑う。

 胸の奥がくすぐったくなり、思わず視線を逸らす。


 するとエリナが優しく微笑んだ。

「違うわ。」

「この人は、昔からずっと素敵だった。」


 その言葉に、バルトの胸はくすぐったいような嬉しさで満たされた。

 心臓が跳ね、言葉を失うほどの幸福感が広がる。


 バルトは耳まで真っ赤になる。

「お、おい……。」


 娘は笑いながら父の腕を軽く叩いた。

「でも、お父さん。」

「今の方がもっと素敵だよ。」


 娘夫婦は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。

 胸の奥に温かなものが広がり、思わず目を細める。


 父がこんなに幸せそうに笑う姿を、初めて見た気がした。


 その光景に、娘の胸にも静かな喜びが広がっていった。

 胸がじんわりと温かくなり、涙がこぼれそうになる。


 母との約束を守り続けた父は、ようやく自分の人生を歩き始めた。


 その姿が、娘には何よりもうれしかった。


◇ ◇ ◇


 閉店後。


 理容室。

 亮一は床を掃き、鏡子はタオルを畳んでいた。


「また一人、人生変えちゃったね。」


 鏡子が笑う。

 胸の奥に小さな誇らしさが灯る。


 亮一は箒を動かしたまま首を振る。


「俺は髪を切っただけだ。」

「……そういうところ。」


 鏡子は小さく笑う。

「あんたらしい。」


 掃除を終え、張りつめていた緊張がふっとほどける。

 その静けさの中で、鏡子はどこか満たされた気持ちを感じていた。

 心が穏やかにほどけ、自然と呼吸が深くなる。

 気づけば鏡子は、ほんの少しだけ亮一の肩へ寄りかかっていた。


 亮一は外を見つめたまま、そのことに気付かない。


 鏡子は我に返り、少し照れたように笑う。

 頬がほんのり熱くなり、視線を逸らす。


 店の外では、夕焼けの中を歩くバルトとエリナの姿。


 亮一は静かに微笑んだ。

「……お幸せに。」


 その背中を見送りながら、誰かの人生に関われたことへの静かな誇りを感じていた。

 胸の奥にじんわりとした充足感が広がる。


 理容室の窓からこぼれる明かりは、今日も誰かの人生を優しく照らしていた。


――第1章 完。

カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。

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