第12話 もう一度、前を向いて②
異世界バーバー ~理容師と美容師の異世界繁盛記~
作者:阿波根サキ
カラン――。
乾いたベルの音が澄んだ空気を震わせ、朝の陽射しとともに、理容室の扉が静かに開いた。外のひんやりした空気が一瞬流れ込み、すぐに店内の温もりと混ざり合う。ほのかに漂うシェービングクリームと整髪料の甘い香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃい。」
新聞を畳みながら、亮一は顔を上げる。紙の擦れる音が静かな店内に柔らかく響いた。
店へ入ってきたのは、大柄な中年の男だった。
「でか……」
誰かが小さく呟く。
鍛え抜かれた肩幅。
長年剣を振るってきたことが分かる節くれ立った手。
その立ち姿だけで、只者ではないと分かる。
しかし、その表情はどこか硬く、迷いを抱えているようにも見えた。
窓から差し込む朝の光が男の輪郭を縁取り、床に長い影を落とす。鏡に反射した光が店内をやわらかく照らし、ハサミやカミソリの金属がきらりと光った。
「どうぞ、こちらへ。」
「……ああ。」
亮一は柔らかく声をかけ、椅子を引く。革張りの椅子がわずかに軋み、低い音を立てた。
男が腰を下ろそうとした、その時だった。
「おっ、ギルド長じゃねぇか!」
「おいおい、珍しいな!」
「今日は休みっすか?」
「まさか散髪? 似合わねぇなぁ!」
「はは、言うなって!」
待合席の常連たちが口々に騒ぎ出す。新聞をめくる音や、椅子に体を預ける衣擦れの音が重なり、店内が一気に賑やかになる。
店内の視線が一斉に男へ集まった。
そこで初めて、亮一はこの男が冒険者ギルドの長だと知る。
「ギルド長……か。」
小さく呟く。
男――バルトは、気まずそうに肩をすくめると、ゆっくり帽子を脱いだ。
頭頂部は大きく薄くなり、左右の髪だけが残っている。
「……まぁ、そんなとこだ。」
「……。」
いつもの豪快さは影を潜め、言葉もどこか歯切れが悪い。
亮一はその様子に、わずかな違和感を覚えた。
(この人……)
(ただ髪を切りに来た顔じゃないな。)
長年の接客で培った勘だった。
鏡子も女性客の髪を整えながら、ちらりとバルトを見やる。ハサミが軽やかに鳴り、細かな髪がふわりと床へ落ちる。
「……。」
同じことを感じ取ったらしい。
亮一は椅子をゆっくり回し、鏡の正面へ向けた。回転する椅子の軸が低く唸る。
「今日はどうする?」
「横を整えて、髭も少し短くするか?」
「……。」
軽く探るように言うが、バルトはすぐには答えない。
膝の上で握った拳に、じわりと力がこもる。
何度も口を開きかけては、閉じる。
「……。」
やがて、大きく息を吸った。胸が上下し、わずかに革の椅子が軋む。
「……頼みがある。」
低く、腹の底から絞り出すような声だった。
亮一は穏やかに頷く。
「いいよ。聞かせてくれ。」
バルトは鏡に映る自分をじっと見つめる。
震える指先が、無意識に頭頂部へ触れた。
「……。」
覚悟を決めるように、ゆっくりと口を開く。
「髪を……」
一度、言葉が途切れる。
喉がごくりと鳴った。
「髪を、生やせねぇか。」
「……え?」
誰かが思わず声を漏らす。
店内が、しんと静まり返る。先ほどまで聞こえていたハサミの音も止まり、空気が張り詰める。
――次の瞬間。
「ぶはっ!」
「ギルド長、それはさすがに!」
「無茶言うなって!」
「理容師は魔法使いじゃねぇぞ!」
「ははははは!」
遠慮のない笑い声が広がった。乾いた笑いが壁に反響し、空気を揺らす。
バルトは苦笑いを浮かべる。
「……だよな。分かってる。」
「……。」
自嘲気味に肩を落とす。
その時だった。
「――だまりなさい!!」
鋭い声が店内を切り裂いた。
「っ!」
笑い声がぴたりと止む。
鏡子はハサミを置き、ゆっくりと店内を見回した。金属が台に触れる小さな音が、やけに大きく響く。
「何がそんなにおかしいの?」
「……。」
静かな声なのに、空気が張り詰める。
誰も答えない。
「この人はね、勇気を出して相談してるの。」
「それを笑うくらいなら――帰って。」
「……す、すみません。」
ぴしゃりと言い切る。
店内は水を打ったように静まり返った。誰かが息を呑む音さえ聞こえる。
鏡子はさらに続ける。
「理容師も美容師も、お客様の悩みに向き合う仕事。」
「笑うための仕事じゃないわ。」
「……はい。」
亮一は思わず小さく息を漏らした。
(ありがとよ。)
(俺も、同じこと言うつもりだった。)
鏡子と目が合う。
「……。」
言葉はない。
それでも、通じていた。
一方――
ミリアは俯いていた。
(私……)
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、笑いそうになってしまった。
「……。」
その自分が、ひどく恥ずかしい。
(亮一さんは笑わなかった。)
(鏡子さんも笑わなかった。)
(ちゃんと、お客様の気持ちを見てる。)
技術だけじゃ足りない。
心に寄り添うこと。
それが、本当の美容師。
ミリアはぎゅっと拳を握る。
(私も……ああなりたい。)
◇ ◇ ◇
「……よし。」
亮一は静かに立ち上がった。足音が床に軽く響く。
「鏡子。」
「他のお客さん、頼めるか?」
「ええ、任せて。」
鏡子は短く頷く。
亮一はバルトの椅子を、店の奥へゆっくりと動かした。キャスターが床を滑る音が静かに続く。
「名前、聞いてもいいか?」
「……バルトだ。」
「俺は亮一。」
「リョーイチ、改めてよろしく。」
高さを調整しながら、鏡越しに目を合わせる。レバーを引くと、椅子がわずかに上下した。
「じゃあ、ちゃんと聞かせてくれ。」
「どうして、そこまで髪を生やしたい?」
バルトは少しだけ照れたように笑う。
「……笑うなよ?」
「笑わない。」
「……そうか。」
そして、ぽつりぽつりと語り始めた。
亡き妻との約束。
娘を育てるためだけに生きてきた日々。
その娘が嫁ぐこと。
そして――
初恋の幼馴染、エリナとの再会。
「もう一度……」
「一人の男として、あいつの隣を歩きてぇ。」
「……。」
亮一は最後まで黙って聞いた。
鏡子も手を動かしながら、耳を傾けている。再びハサミの軽やかな音が戻り、緊張が少しずつほどけていく。
「……いい話じゃない。」
誰かが小さく呟く。
誰一人、茶化さない。
話が終わると、亮一は静かに腕を組んだ。
(さて……)
(どうする。)
理容師として。
一人の職人として。
この依頼から逃げるわけにはいかない。
「……やるしかないな。」
◇ ◇ ◇
亮一は腕を組んだまま、しばらく黙り込んでいた。
鏡に映るバルトの頭頂部へ、じっと視線を落とす。
(……これは、マズイな。)
これまで数えきれないほどの依頼を受けてきた。
似合う髪型の提案。
扱いづらい癖毛。
進行する薄毛。
手に負えない剛毛。
どんな悩みでも、逃げずに向き合ってきた。
だが――。
(髪を“生やす”だと。)
(それは、俺たちの領分じゃない。)
亮一はゆっくりと息を吐き、口を開いた。
「……一つずつ、潰していく。」
「だから、少しだけ時間をくれ。」
バルトは低く、落ち着いた声で応じる。
「……ああ、構わん。」
亮一は鏡子を呼ぶ。
「鏡子、ちょっと来てくれ。」
「相談だ。」
二人は少し離れた場所へ移動する。
亮一が短く切り出す。
「まず、カツラ。」
鏡子は即座に首を振った。
「論外ね。あの頭頂部を自然に隠せるものはこの店にはないわ。」
「ウィッグ。」
「同じよ。境目が絶対に浮く。」
「黒い粉。」
「地肌に振っても意味ないでしょ。誤魔化しにもならない。」
「サイドを伸ばして持ってくる。」
「時間がかかりすぎるし……何より、お客様の望みとは違う。」
二人の間に沈黙が落ちる。
亮一は頭をかき、大きく息を吐いた。
「……参ったな、これは。」
鏡子も腕を組み、眉を寄せる。
「私も、こんなケース初めてよ。」
店内に重たい空気が漂う。
その様子を見て、バルトは肩をすくめ、小さく笑った。
「すまんな。」
「無理を言っているのは承知している。」
亮一は首を横に振る。
「無理かどうかを決めるのは、最後だ。」
「俺たちは、お客さんの可能性を勝手に切り捨てたりしない。」
鏡子も力強く頷く。
「ええ。やれることは全部やるわ。」
その言葉に、バルトはわずかに目を見開いた。
ここまで真剣に向き合われるとは思っていなかった。
その時だった。
「あ、あの……!」
ミリアがおずおずと手を挙げる。
三人の視線が一斉に集まる。
「これ……どうでしょうか?」
ミリアが差し出したのは、小さな茶色い瓶だった。
ラベルには大きく描かれた髪の毛のイラスト。
そして――
『発毛剤リグロー』
亮一は瓶を受け取り、思わず目を見開く。
「……おい、これ。」
鏡子も思わず声を漏らした。
「ちょっと、それ……。」
地球から一緒に転移してきた毛生え薬だった。
ミリアは首を傾げる。
「絵を見る限り……。」
「髪が生えてくる薬、ですよね?」
亮一と鏡子は顔を見合わせる。
(いや……。)
(日本でも、そういう触れ込みだったけど……。)
(実際に効いたなんて話、聞いたことないぞ。)
亮一は苦笑混じりに言う。
「まぁ……宣伝はそうだったな。」
鏡子も肩をすくめる。
「私は美容師だから専門外だけど……。」
「正直、期待したことは一度もないわね。」
沈黙が落ちる。
亮一は瓶をじっと見つめた。
店内も静まり返る。
やがて、ゆっくりとバルトの前へ歩み寄る。
「バルト。」
「……なんだ。」
「正直に言う。」
「これで生える保証はない。」
バルトは静かに頷く。
「だろうな。」
「だが――?」
亮一は瓶を強く握りしめる。
「何もしないで終わるのは、俺が嫌なんだ。」
「だから、一度だけ……俺に任せてくれ。」
バルトはわずかに口元を緩めた。
「……十分だ。」
「そこまで本気で向き合ってくれた。それだけで価値がある。」
亮一は蓋を開ける。
独特の薬草の香りがふわりと広がった。
指先に液を取り、頭頂部へ丁寧に塗り込んでいく。
優しく。
頭皮を傷つけないように。
まるで祈るように。
一本でも多く、髪が芽吹くことを願いながら。
すべて塗り終えると、亮一はタオルを差し出した。
「今日はここまでだ。」
「……感謝する。」
バルトは深々と頭を下げた。
そして静かに店を後にする。
閉店後。
店内には静かな空気が流れていた。
亮一は椅子に腰掛け、天井を仰ぐ。
「……どう考えても、厳しいな。」
鏡子も苦笑する。
「明日、謝る準備はしておいた方がいいかもね。」
二人とも悔しかった。
もっと何かできたはずだと。
もっと力になりたかったと。
そんな思いだけが胸に残る。
一方、その頃――。
帰宅したバルトは風呂を済ませ、寝支度を整えていた。
「さて……休むとするか。」
ベッドへ身を沈める。
しばらくすると。
「……む?」
頭頂部がむずむずする。
痒いような。
くすぐったいような。
「薬の影響か……。」
気にしないように目を閉じる。
それでも、その違和感は夜通し続いていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
窓から差し込む朝日が、バルトの顔を照らした。
「……ん。」
昨夜は頭頂部がむずむずして、何度も目が覚めた。
まるで何かが芽吹くような、不思議な感覚だった。
「まったく……歳を取ると眠りも浅いな。」
苦笑しながら洗面所へ向かう。
いつものように顔を洗い、鏡へ目を向けた。
「……。」
動きが止まる。
心臓が一瞬、強く跳ねた。
「……は?」
鏡の中の自分を見つめる。
頭頂部。
そこにあったはずの地肌が見えない。
代わりに、黒々とした髪が好き放題に伸びていた。
信じられない光景に、思考が追いつかない。
指先が震えながら、そっと頭に触れる。
確かな感触。
柔らかく、温かい――紛れもない、自分の髪。
「……な。」
胸の奥から、何かが込み上げてくる。
長い年月、諦めていたものが、突然戻ってきた現実。
嬉しさと戸惑いが入り混じり、言葉にならない。
「なんじゃこりゃあああっ!!」
家中に絶叫が響いた。
◇ ◇ ◇
理容室。
開店準備をしていた亮一と鏡子は、勢いよく開いた扉に驚いて振り返る。
「リョーイチ!」
「見てくれ!」
帽子を脱いだバルトを見て、二人とも固まった。
「……。」
「……。」
頭頂部いっぱいに生えた髪。
寝癖で四方八方へ跳ねている。
亮一は何度も瞬きをした。
「……鏡子。」
「うん。」
「俺、まだ寝てる?」
「残念だけど起きてる。」
ミリアも目を丸くする。
「ほ、本当に生えてる……。」
亮一は慌ててリグローの瓶を手に取り、説明書きを読み始めた。
鏡子も肩越しに覗き込む。
『早い人は翌日から効果を実感できます。』
二人は顔を見合わせた。
「……。」
「……。」
「んなアホな!!」
二人の声がぴったり重なった。
店内は一瞬静まり返り、次の瞬間、思わず笑いがこぼれた。
しかし亮一はすぐに真顔へ戻る。
店の中をゆっくり見回した。
電気。
水道。
お湯。
地球から持ち込んだシャンプー。リンス。整髪料。
減っても翌日には補充される。
今まで「不思議だな」で済ませていた現象。
その点と点が、一つに繋がった。
「……そういうことか。」
鏡子も頷く。
「地球の商品だけ。」
「説明書どおりの性能になる。」
二人は同時に息をのむ。
思いがけない発見だった。
亮一はバルトの頭を見つめ、ふっと笑う。
「……髪さえあれば。」
ハサミを手に取る。
「こっちのもんだ。」
バルトも大きく頷いた。
胸の奥に、久しく感じていなかった高揚が広がる。
鏡に映る未来の自分を想像し、自然と口元が緩んだ。
「頼む。」
「人生で一番、かっこよくしてくれ。」
その言葉には、期待と、ほんの少しの不安が混じっていた。
亮一は笑った。
「任せろ。」
◇ ◇ ◇
白いクロスが首元を包む。
久しぶりに髪を切る音が店内へ響く。
チョキ……
チョキ……
ハサミが軽やかなリズムを刻む。
切り落とされた髪が肩から舞い落ちる。
バルトは目を閉じた。
「……この感覚。」
頭皮に触れる空気、髪が整えられていく感触。
忘れていたはずの記憶が、鮮やかに蘇る。
若い頃、何気なく過ごしていた日常。
それがどれほど尊いものだったのか、今になって痛いほど分かる。
胸がじんわりと温かくなる。
「何十年ぶりだろうな。」
亮一も笑う。
「髪を切るって、気持ちいいだろ。」
「ああ。」
「こんなに気持ちいいもんだったんだな。」
思わず声が弾む。
ただ髪を切っているだけなのに、心まで軽くなっていくようだった。
長く伸びた髪を整え、頭の形に合わせて少しずつ立体感を作っていく。
サイドは短く。
トップは自然な動きを残す。
年齢に合った落ち着きと、大人の色気。
鏡子もその手元を見つめる。
「さすが。」
思わず呟いた。
◇ ◇ ◇
「次はシャンプー。」
温かなシャワーが頭皮を包む。
「……ふぅ。」
自然と力が抜ける。
頭皮に触れる水の感触が、こんなにも心地よいものだったとは。
亮一の指先が頭皮を優しく揉みほぐす。
円を描くように。
ゆっくり。
丁寧に。
泡が立ち、爽やかな香りが広がった。
その香りに包まれながら、バルトは思わず目を細める。
まるで長年の疲れが溶けていくようだった。
「……これは。」
「極楽だ。」
思わず本音が漏れる。
店内に笑いが起こる。
コンディショナーを流すと、ほのかな甘い香りが残る。
バルトは深く息を吸った。
胸いっぱいに広がる香りに、心まで満たされる。
「いい匂いだ。」
鏡子が笑う。
「女性はね、そういう所もちゃんと見てるの。」
「そういうもんか。」
「そういうもの。」
◇ ◇ ◇
蒸しタオル。
顔全体を包み込む。
「熱っ……いや。」
「気持ちいい。」
じんわりとした温もりが顔全体に広がる。
緊張していた表情筋がゆるみ、自然と安らぎが訪れる。
髭が柔らかくなる。
亮一はカミソリを静かに滑らせた。
ジョリ……
ジョリ……
余分な髭が消えていく。
眉。
耳周り。
首筋。
すべて整える。
自分が少しずつ整えられていく感覚に、どこか誇らしさすら覚える。
最後に冷たいタオル。
「……生き返る。」
バルトは思わず笑った。
心も体も、まるで新しくなったようだった。
◇ ◇ ◇
ドライヤー。
ワックス。
指先だけで自然な毛流れを作る。
最後に前髪を軽く流した。
亮一は鏡へ椅子を向ける。
「終わったぞ。」
バルトはゆっくり目を開く。
胸が高鳴る。
期待と緊張が入り混じり、息を呑む。
「……。」
鏡の中には。
渋さを残しながらも若々しく生まれ変わった、一人の男がいた。
頬に整えられた髭。
清潔感のある髪型。
自信に満ちた表情。
それは、かつての自分よりも、ずっと魅力的に見えた。
「……俺か。」
声が震える。
信じられないという思いと、込み上げる喜び。
胸の奥が熱くなり、視界がわずかに滲む。
「もう一度……。」
「髪を切る日が来るなんて思わなかった。」
長い年月、諦めていた願い。
それが今、現実になっている。
その事実が、何よりも嬉しかった。
目頭が熱くなる。
「ありがとう。」
亮一は照れくさそうに笑った。
「礼なら、まだ早い。」
「ちゃんと成功してから言え。」
「……え?」
亮一はニヤリと笑う。
「思い切ってアタックしてこい。」
バルトは拳を握る。
胸の奥に、新たな勇気が湧き上がる。
この姿なら、きっと――。
「……おう!」
その返事を聞いた瞬間。
「――ちょっと待ちなさい。」
鏡子の声が店内に響いた。
◇ ◇ ◇
鏡子の一声で、店内の空気が止まった。
亮一とバルトは同時に振り返る。
「……何だ?」
亮一が首を傾げる。
鏡子は呆れたように額へ手を当て、大きくため息をついた。
「そのまま告白に行く気?」
鏡子は二人の無防備さに、思わず心配と苛立ちが入り混じった感情を抱いた。
胸の奥がざわつき、思わず声が強くなるのを自覚していた。
「……。」
「……。」
二人とも固まる。
「え?」
バルトが間の抜けた声を漏らした。
予想外の指摘に、心臓が一瞬跳ね上がる。
「何か問題あるのか?」
鏡子は肩を落とした。
「はぁ……。」
「ミリア。」
「はい。」
二人は顔を見合わせる。
「これだから男は。」
「詰めが甘いんですよね。」
まるで打ち合わせでもしていたかのように息がぴったりだった。
亮一とバルトは思わず姿勢を正す。
背筋に冷たいものが走り、自然と緊張が走る。
「花束!」
鏡子が指を突き付ける。
「ちゃんと持っていきなさい!」
「服!」
ミリアも負けじと続ける。
「その普段着じゃなくて、もっとちゃんとした服を着てください!」
鏡子はさらに畳みかける。
「女性は髪だけ見てるんじゃないの。」
「どれだけ大切に思ってくれてるかも見てるの。」
ミリアも大きく頷く。
「気持ちは、ちゃんと形にしないと伝わりません!」
亮一とバルトは背筋を伸ばし、
「はい!!」
と声を揃えた。
胸の奥に決意が灯り、自然と拳に力が入る。
二人はようやく事の重大さに気づき、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
バルトは市場を歩いていた。
「ナラ。」
花屋の店先で振り向いたナラは、バルトの姿を見るなり目を丸くした。
「ギルド長!?」
「その髪……!」
「色々あってな。」
照れ臭そうに頭を掻く。
頬がわずかに熱くなり、視線を逸らしたくなる。
「花束を選んでほしい。」
ナラはにっこり笑った。
「任せてください。」
ナラが選んだ花は、淡い青と白の花びらを持つ花だった。
「この花は『ルミエラ』って言います。」
「花言葉は――」
「『愛の再会』」
「そして、**『共に紡ぐ未来』**です。」
バルトは静かに花束を受け取った。
その花言葉を聞いた瞬間、胸の奥に長年押し込めていた想いが静かに蘇った。
指先がわずかに震え、花束を握る手に力がこもる。
「ありがとう。」
◇ ◇ ◇
約束の場所。
夕日に染まる広場。
エリナがやって来る。
「お待たせ……。」
言葉が止まった。
「……え?」
目の前に立つ男性を見つめる。
整えられた髪。
品よく整えられた髭。
清潔感のある服装。
若い頃よりも渋みを増した笑顔。
「どちら様……ですか?」
エリナは目の前の変化に戸惑いながらも、どこか懐かしさを感じて胸がざわついた。
心臓が早鐘のように鳴り、視線を逸らせなくなる。
バルトは苦笑した。
「そんなに変わったか。」
その声で、エリナは息を呑む。
胸の奥が一気に熱くなり、記憶が鮮やかに蘇る。
「……バルト?」
「驚かせて悪い。」
バルトは花束を差し出した。
「これを。」
エリナはそっと受け取る。
指先が触れた瞬間、微かな震えが伝わる。
花の香りが二人を包んだ。
しばらく沈黙が流れる。
やがてバルトは、まっすぐエリナを見つめる。
「若い頃、一度も言えなかった。」
「冒険者になる夢ばかり追いかけて。」
「本当に大事なことを伝えられなかった。」
一度、大きく息を吸う。
その瞬間、これまでの後悔と決意が胸の中で一つに結ばれた。
鼓動が強く打ち、逃げ場のない覚悟が全身を満たす。
「ずっと好きだった。」
「そして今も好きだ。」
エリナの瞳に涙が浮かぶ。
長い年月を経ても変わらない想いに、胸が締め付けられるようだった。
視界が滲み、言葉が喉に詰まる。
「これから先の人生。」
「俺と一緒に歩いてくれないか。」
夕風が二人の間を優しく吹き抜けた。
エリナは涙を拭いながら、小さく頷く。
「……はい。」
「よろしくお願いします。」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に温かな安堵が広がった。
肩の力が抜け、自然と笑みがこぼれる。
その笑顔は、若い頃と少しも変わらなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
王都の大通り。
「あ、お父さん!」
娘が笑顔で手を振る。
隣には夫。
その先には、仲良く並んで歩くバルトとエリナの姿。
「お父さん。」
「髪が生えて、本当に素敵になったね。」
バルトは照れ臭そうに笑う。
胸の奥がくすぐったくなり、思わず視線を逸らす。
するとエリナが優しく微笑んだ。
「違うわ。」
「この人は、昔からずっと素敵だった。」
その言葉に、バルトの胸はくすぐったいような嬉しさで満たされた。
心臓が跳ね、言葉を失うほどの幸福感が広がる。
バルトは耳まで真っ赤になる。
「お、おい……。」
娘は笑いながら父の腕を軽く叩いた。
「でも、お父さん。」
「今の方がもっと素敵だよ。」
娘夫婦は顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。
胸の奥に温かなものが広がり、思わず目を細める。
父がこんなに幸せそうに笑う姿を、初めて見た気がした。
その光景に、娘の胸にも静かな喜びが広がっていった。
胸がじんわりと温かくなり、涙がこぼれそうになる。
母との約束を守り続けた父は、ようやく自分の人生を歩き始めた。
その姿が、娘には何よりもうれしかった。
◇ ◇ ◇
閉店後。
理容室。
亮一は床を掃き、鏡子はタオルを畳んでいた。
「また一人、人生変えちゃったね。」
鏡子が笑う。
胸の奥に小さな誇らしさが灯る。
亮一は箒を動かしたまま首を振る。
「俺は髪を切っただけだ。」
「……そういうところ。」
鏡子は小さく笑う。
「あんたらしい。」
掃除を終え、張りつめていた緊張がふっとほどける。
その静けさの中で、鏡子はどこか満たされた気持ちを感じていた。
心が穏やかにほどけ、自然と呼吸が深くなる。
気づけば鏡子は、ほんの少しだけ亮一の肩へ寄りかかっていた。
亮一は外を見つめたまま、そのことに気付かない。
鏡子は我に返り、少し照れたように笑う。
頬がほんのり熱くなり、視線を逸らす。
店の外では、夕焼けの中を歩くバルトとエリナの姿。
亮一は静かに微笑んだ。
「……お幸せに。」
その背中を見送りながら、誰かの人生に関われたことへの静かな誇りを感じていた。
胸の奥にじんわりとした充足感が広がる。
理容室の窓からこぼれる明かりは、今日も誰かの人生を優しく照らしていた。
――第1章 完。
カクヨムでも掲載してます。よろしくお願いします。




