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番外 虐めてはダメよ


ファリティナのところにパトリシアが訪ねてきた。

セリオンの許嫁となったパトリシアは、頻繁にグランキエースの屋敷を訪れる。その目的のほとんどはファリティナだ。

二人は共通の趣味ができ、仲良く出かけている。


その日、セリオンは予定より早く屋敷に帰宅した。

この時間ならファリティナと夕食を取れるかもしれない。そう思うと、自然に唇が綻んだ。


このところ忙しくて、屋敷にいる時間がない。家督を継いでから、予想はしていたがますます忙しくなり、ファリティナの顔を見る時間も減った。気にはなっていたが、相変わらずファリティナは大人しく過ごしているようだった。


姉様と共に夕食を、と誘いをかけると、パトリシアと出かけていると家令に告げられた。

驚いてどこへ行ったか聞くと、パトリシア=パレルト伯爵令嬢と観劇に出かけたという。しかも最近、頻繁に出かけていて今月はもう三回目。

どうやら、二人に共通の贔屓の役者がいるらしい。今夜はその役者の出番で、しかもファンサービスの日らしく、閉幕の後、少しだけ役者が時間をとってファンと話しをしてくれるのだと嬉しそうに出かけていったとか。


外出着を脱がせられながら、セリオンは小さく息をついた。

とても残念だ。

だが、ファリティナが外に出かけられるほど回復してくれて嬉しい。


自分の楽しみのために、何かに夢中になって喜んでいると聞いて、張り詰めたものが少しだけ解けた。

パトリシア=パレルトなら大丈夫だろう。

政略で選んだ自分の婚約者だが、ファリティナはとても気に入っている様子。パトリシア自身もファリティナを慕っている。

セリオンの前では、緊張したような表情を崩さないが、ファリティナといると時々、その強ばった顔が崩れる。

ファリティナのあののんびりとした雰囲気がそうさせるのだろう。


かつての大派閥であったパレルトは、グランキエースに取り込まれ、婚約の契約時に告げた、ファリティナを第一とするグランキエースの方針に恭順を示している。

今のところは、姉様の友人として合格でいい、とセリオンは思った。


だが。


時計は夜の九時を回った。

日はもうとっくに落ちて、外は真っ暗だ。 


いくら護衛をつけているからといって、令嬢が二人で出かけるにはちょっと遅い。

いや、随分遅い。


窓の外を睨むセリオンの目がだんだんと座ってきた頃、侍従がファリティナの帰宅を告げた。

慌てて部屋から出ると、ファリティナはまだ馬車の中だったらしく、玄関にいない。

セリオンは玄関から出て、馬車留めまで降りた。


着いたのは、パレルト伯爵家の馬車。

セリオンの形良い眉が片方上がった。


こんな小さな馬車でグランキエースの姫を送迎するとは。

しかもこんな遅い時間まで連れ回して。

ファリティナは深窓の姫だ。今まで公式な夜会以外で夜に出歩くなどしたことがない。

身分ある男性のエスコートもなしに、劇場など有象無象の輩がいる場所に、こんな長時間の滞在は許せない。


考えるとだんだんのセリオンの眼光が強くなってきた。


馬車に踏み台が置かれ、ドアが開いた。

セリオンは前に進み出て、フットマンの代わりに手を差し出した。


ファリティナは心底驚いたようにセリオンを見て、一度差し出した手を引っ込めた。

逃さないように、セリオンは手を掴んだ。


「ま、まぁ、セリオン」

「おかえりなさい、姉様。劇は楽しかったですか?」

セリオンがにっこり微笑みかけると、ファリティナの頬にさっと朱が差した。そして少しばつが悪そうに微笑んだ。

「ええ、すごく楽しかったわ」

「それは良かった。パトリシア嬢も楽しめたなら良かった。少し遅いですが、お茶をいただいて帰ってください」


セリオンが馬車の中を覗き込み、パトリシアに柔らかく言った。


サロンでお茶を用意させ、観劇の話を聞いた。

贔屓の役者がいるのはほんとらしい。

ファリティナが頬を染めてキラキラしながら、役者を褒め称えているのを見て、セリオンはかわいらしいと思った。

王子様好きのファリティナらしい。

ファリティナの周りには本物の王子や世間では王子様と呼ばれる貴公子しかいないが、そちらには扇の下に隠したツンとした表情しか見せない。

政情が絡まなければ、これほど可愛らしい表情を見せるのになんとももったいないことだ、とセリオンは苦笑した。


だけど、これでいい。可愛らしい姉様はグランキエースの屋敷の中だけでいい。


だから注意は少しだけにした。

「楽しいのはわかりますが、あまり遅い時間まで出歩くのはいけませんよ。それにもう少し護衛をつけないと」

「言うと思ったわ、セリオン」

ファリティナはうるさそうにため息を吐いた。

「あなたが心配なんです」

「グランキエースの紋章付きの馬車で劇場なんか行ったら、ゼット様にお近づきになれないじゃない。劇場のオーナーのお相手なんかしたくないわ」

不満そうにファリティナは言った。

そういうことか、セリオンは思った。

「またお忍びなんかして。そんなことしても、あなたが貴婦人なのはバレバレなのに」

そう笑うと、そんなことないわよ、とファリティナは言い返した。

よく見ると、確かに今日の装いは公爵令嬢の格より落ちる。ファリティナなりの身をやつした恰好らしい。全く足りてないが。


「そうそう。セリオン、ねえ、サマーパーティに出なくてはダメ?」

ファリティナが言い出した。

今年、セリオンは執行部の役員を務めている。ファリティナも同じ学年に所属しているが、執行部には入らず、これまでと同じように過ごしている。学院への登校もそれほどしていない。大きな事件があった後なので、周囲にも配慮され、ファリティナはのんびりと過ごせている。

おそらくセリオンの成績では今年が最後の学院生活になり、ファリティナは後一年、在学し卒業資格を得ることになるはずだった。


「どうしてですか⁈」

セリオンは少し楽しみにしていた。

ファリティナが参加する夜会は国の行事に関わる厳粛なものが多いため、自由度は低い。学院のパーティーは若者の集まりで、楽しませる仕掛けは用意してあった。

年相応の楽しみをあまり知らないファリティナにも楽しんでもらえると思っていたのに。

「今の劇の千秋楽がサマーパーティの日なの。どうしてもゼット様にお花を差し上げたいの」

 夢見るようにファリティナが言った。


 虚をつかれたようにセリオンは瞬いた。

 そして、すう、と目を細めた。


 パトリシアのほうを向くと、パトリシアの肩が上がった。


「いけません、姉様」

 柔らかく言ったが、中に潜んだ不機嫌な重低音には気づいたらしい。

 ファリティナは、ふう、と息をついた。

「そうよね、言ってみただけ。いいわ、次の公演の時に最後のお花をお渡しするわ」

 さほどの落胆もみせず、ファリティナはふわりと立ち上がった。

「ちょっとだけお待ちになってね。パトリシア。さっきお約束した本を取りに行ってくるわ」


そう告げると、さらりとサロンから出て行った。


 サロンにはセリオンとパトリシアだけ残された。

 セリオンは少し冷め気味になったお茶で唇を湿らせた。


「パトリシア」

「は、はい!」

「姉様が夢中になっている役者、あなたが紹介してくれたそうだね」

「はい。ファリティナ様がとてもお気に召されて。申し訳ございません、どうしても公爵家の馬車は目立つと言われるものですから…」

「そう。だけどうちにも紋を外した馬車はある。あとはうちの護衛を外さないように。姉様はああいう方だから、どうしても自分の身を軽く考えがちだ。護衛を軽くして、もし下賤なものたちに触れられれでもしてみろ」

セリオンの声がだんだんと不穏になってきた。


「…パレルトの人脈などすでに掌握済みだ。家ごと縁が切れても私は惜しくない」


パトリシアの全身が震え上がり、膝の上にあった両手が、ぎゅっと握られた。

「…も、申し訳ありませんでした」

「気をつけてくれればそれで良いよ」

 無機質にそういうと、もう一度お茶に口をつけた。

 

「それと、その役者」

「…はい」

「最近売り出したばかりの者か?」

「あ、はい。今回の劇が当たり役で」

セリオンの冷たい空気にパトリシアはしどろもどろと答えた。婚約してからこれほど剣呑な空気をぶつけられたのは初めてだった。


ああ、やっぱり。

パトリシアは冷や汗を背中で感じながら思った。

ファリティナは特別だ。自分は決してファリティナにはなれない。

まさかサマーパーティを欠席するなんて言い出すとは思わなかった。しかも実質セリオンが主となって企画しているパーティーだというのに。一瞬で変わったセリオンの顔色をものともせず、上手く躱していくこの手腕はだれにも真似できない。

だけど、そこが良い。たまらなく良い。


ふうん、とセリオンは考えるように俯いた。

室内を照らすオレンジの灯りで、セリオンの白金の髪が橙に光り、顔に深い陰影が落ちる。

「会ってみよう」

少しの間をおいて、セリオンが言った。

パトリシアは理解が追いつかず、セリオンを見た。彫像のように整った顔貌に見返され、言葉に詰まった。

「姉様があれほど楽しそうに過ごすことができるものを見つけてくれて感謝する。パトリシア。千秋楽に行けないのは残念だけど仕方がない。その代わり、そのゼットとかいう役者と食事の席でも設けよう。そうしたらわざわざこんな遅い時間まで出歩かなくても会えるだろう?」

予想外の提案にパトリシアは瞬いた。

「お、お喜びになると思います!ファリティナ様は!」

「そんなに夢中なんだねぇ」

苦笑とも嘲笑ともみえる様子でセリオンが笑った。


「次、新しい劇を紹介するときは私にも教えてほしい。姉様の好みを知っておきたいからね。それにしても、役者に夢中になるなんて思いもしなかったな」


同じ部屋にいた侍従たちには、ろくでもないもの紹介しやがって、というセリオンの心の声が聞こえた。

セリオンの執事も、侍従のエイデンも背筋が伸びた。

これはやばいかもしれない。セリオンが会って何をするつもりかわからないが、その役者、この先も興行できればいいがと祈った。


薄寒い空気がサロンに流れた時、ファリティナが戻ってきた。

ファリティナはサロンを興味深そうに見回すと、流れるようにセリオンたちの元に戻ってきた。


「お待たせしてごめんなさいね、パトリシア。こんなに遅くまで付き合わせてごめんなさい。お屋敷の方達も心配されてるわね」

そう言って、パトリシアの手を取って本を渡した。

そしてにっこり笑ってセリオンの方を向いた。


「虐めてはダメよ、セリオン。パトリシアは私の大事なお友達なの。私、パトリシアのことは妹のように思ってるのよ」

「虐めてなどいませんよ。姉様が夢中になるものを紹介してくれてお礼を言っただけです」

セリオンは優雅に微笑んで、ファリティナから目を逸らした。


セリオン、とファリティナが嗜めるように呼んだ。

「あなた、私に嘘をつくときは目線を左に逸らすのよ」


セリオンは目を逸らしたまま、瞠目して固まった。


「遅くなってしまったわ。パトリシア。玄関までお送りするわ」

ファリティナはパトリシアを促して、サロンを出て行った。


セリオンの侍従たちは、固まったまま動かないセリオンを、気まずい空気の中見ていた。


セリオンにそんな癖があるなんて思わなかった。セリオンは世界で唯一と信望するファリティナ相手であってでも、いざという時は容赦なく謀る冷徹さがあった。ファリティナも普段はふわふわしている、頼りなさげな様子だった。


あの傲岸不遜なセリオンの癖を見抜いて、見逃していたなんて。セリオンのプライドが傷つけられた瞬間を目の当たりにして、ここからどうすればいいのか全員の思考が止まった。



不意に、セリオンが顔を覆った。


「……姉様の愛を感じた」

セリオンはそういうと、耳を赤くして長椅子の背もたれに崩れた。




「……ちょっとよくわからないが、病だ、これは」

セリオンの執事が呟いた。

そして、エイデンの方を向いて言った。

「放っておこう。そのうちいつものセリオン様に戻る。とりあえずこれ以上、魔王の冷気に当てられないだけよしとして、見なかったことにしよう」

そう言って、エイデンの背を押してサロンから静かに出て行った。

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― 新着の感想 ―
ストライク過ぎて何度も読んでます。ファリティナとセリオンのこの先も読んでみたいなぁ〜。いつも有難うございます。
どうかどうか、元サヤになりませんように…弟も認めるような(できれば皇国の)男性と想い合って結ばれて、主人公が幸福になりますように…できればそこまで見たかった…王子はない、絶対に無い、あり得ない。
セリオンとファリティナが末長く幸せに暮らしていけそうで本当に良かったです。パトリシアさんは忠臣として堂々と生きていってくれることを願います笑。長編お疲れ様でした。とても面白かったです。ギデオンはファリ…
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