ホームズと歯
前頁で書きましたが、ホームズは殴られた際に犬歯を折っていて、そのためホームズは歯槽膿漏だったのではないかと言われています。
犬歯は頑丈なので殴られたくらいでは折れませんが、歯槽膿漏だった場合は歯が弱っているということなので犬歯が折れるのもあり得るのです。
歯周病が最も進行してしまった状態が歯槽膿漏です。
本頁ではホームズが歯槽膿漏になっていたと仮定した上で、歯槽膿漏になった原因などについて考えたいと思います。
【喫煙】
歯周病の最大の原因としては喫煙が挙げられます。十九カ国の七十の横断的研究、八カ国の十四の症例対照研究では、喫煙者の歯周病は非喫煙者に比べて進行していたようです。
また、六カ国の二十一の前向き研究では、(研究を除いて)時間経過に伴って喫煙者は歯周炎が悪化していくことが示唆されています。
なお、前向き研究とは将来生じる現象を調査するものであり、この二十一からなる前向き研究の観察期間平均は九年八ヶ月にも及びました。
喫煙者は禁煙することで歯肉の炎症の兆候が改善され、歯周組織の状態が早期に回復することが示されています。
ホームズは愛煙家なので、非喫煙者や禁煙者に比べて歯周病が進行していたことは確かでしょう。
なので喫煙は、ホームズが歯槽膿漏になった原因の一つとして考えられます。
【歯磨き】
歯周病の原因は喫煙以外にも、プラークというものがあります。プラークとは歯垢とも言い、口の中の(主に)歯に付着した細菌の塊です。
このプラークは口を濯いだだけでは取り除けません。それはプラークがバイオフィルム、つまり排水溝のヌメリのような状態で歯に付着しているからです。
このプラークを取り除くためには、歯間ブラシや歯ブラシなどによって物理的に剥がすことが必要になります。
ホームズが歯槽膿漏になっていたなら、喫煙だけでなく歯磨きもしていなかった可能性は高いはずです。
しかし当時の世界に、そもそも歯ブラシはあったのでしょうか。
調べてみると、歯ブラシの起源は古代インドにまで遡るようです。
仏教の開祖である釈迦が、弟子達の口が臭いので仏前に詣でる前に歯木で歯を清掃するのをすすめました。
仏教のお経では歯木を噛んで歯を磨き、舌の上をこそぎ、口を濯いで口内を清めなければならないと説かれています。
それ以前の人間は、木の枝の一端を噛んで潰して繊維状にしたものや、自分の指などを使って歯を磨いていたと思われます。
この歯を磨く行為が仏教伝来とともにインドから中国に伝わりました。しかし中国ではニームの木がないため楊柳の小枝を歯木に使うようになります。
そのため、楊枝という名前が付けられています。
その後の中国の遼や宋の時代(十世紀から十三世紀辺り)に、牛の角や動物の骨で作った柄に馬毛を植えた歯ブラシの元祖が考案されました。
世界最古の歯ブラシは、959年頃の中国の古墳からの出土品です。柄は象牙だとわかりますが、毛は腐敗して抜けていたので何の毛かは不明。
宋の時代に牛の角の柄に馬毛を植えた歯ブラシが使われていた史料が確認されています。
そして中国で考案された歯ブラシはシルクロードを経て西洋に伝わり、十七世紀頃の西洋では獣骨の柄に馬毛を植えた歯ブラシが使用されていました。
フランスには、アントニオ・ペレッソにより1590年に歯ブラシが伝わります。
こう聞くとホームズの時代である十九世紀から二十世紀には歯ブラシがあるので、ホームズが歯槽膿漏になったのは歯磨きをサボっていたと思われてしまうかもしれません。
しかし当時の庶民はあまり歯磨きも歯の手入れもしないのが当たり前であり、虫歯や口臭が酷かったようです。
というのも十八世紀頃の歯ブラシは毛束が密に植えられていて通気性が悪く、そのため不潔なものとされていたようです。
1953年にアメリカのデュポン社がナイロンを開発し、そのナイロンを歯ブラシに使ったことで世界中に広まりました。
ホームズの誕生年は諸説あるのではっきりとは言えませんが、1953年にホームズが生きていたとしても百歳くらいになっています。
つまり、ホームズの時代にはまだ歯を磨く行為は定着していませんでした。
ホームズが歯槽膿漏になったのは、当時としては自然なことだったのです。
【麻薬】
ホームズは刺激を求めてコカインを常用していました。これも歯を悪くする原因になったかというと、私の調べた限りでは関係ないでしょう。
千葉県警察や警視庁のサイトの薬物乱用防止についてのページを読んでみたところ、コカインの副作用で歯を悪くするようなことがあるとは書かれていませんでした。
歯が溶けてボロボロになったりする麻薬としては、シンナーなどが該当するようです。
【歯の治療法】
当時は、主に抜歯によって歯を治療していました。
麻酔が発見されるまでは、患者に痛みや傷をくわえてでも短時間で歯を抜くのが重要でした。そのため、西洋では、様々な抜歯器具が考案されています。
また、抜歯は大衆にはショーとして扱われています。太鼓を打ち鳴らしたりトランペットを吹いて人が集められ、見物人からお金を貰って営業をしていたそうです。
この抜歯風景は、西洋の版画に多く残されています。
なお、楽器の音は患者が抜歯の痛みで上げた悲鳴を掻き消す目的もあったようです。
1884年にアメリカの歯科医師ウエルズが笑気麻酔(亜酸化窒素)を抜歯の際に使いました。1846年にはアメリカの歯科医師モートンが、エーテルによる全身麻酔に成功します。
【入れ歯】
歯の治療法が抜歯だった時代は、ほとんどの人が入れ歯を使っていたことでしょう。
そんな入れ歯ですが、十七世紀から十八世紀の西洋の入れ歯は象牙やセイウチ、カバの歯、動物の骨などを彫刻して作りました。
1790年頃にフランスで陶材を焼いて入れ歯を作るという発明がされ、イギリスの陶磁器メーカーであるウェッジウッド社などは1804年までに1万2000個の陶製の入れ歯を作りました。
陶製の入れ歯は焼き上げる時に変形して顎に形が合わないため、食事の時には外していたようです。
ホームズもこのような入れ歯を使用していたのでしょうか。
本頁を書く際に参考にした、歯関係のサイトのURLを貼っておきます。
歯の博物館
https://www.dent-kng.or.jp/museum/ja/
日本歯科医師会
https://www.jda.or.jp/
日本歯周病学会
https://www.perio.jp/
全日本ブラシ工業協同組合
http://www.ajbia.or.jp/index.html