第3話 明日、という言葉だけが少し重い
公園から駅前へ戻った僕たちは、通りに面したカフェに入った。
駅前のカフェは、窓際の席だけが妙に人気だった。
外がよく見えるからか。
それとも、外から自分がよく見えるからか。
どちらにせよ、僕は壁際の席を選んだ。
「相沢さんは、壁を背にしたいタイプですか?」
向かいに座った月島さんが、メニューを開きながら言った。
「急に戦場みたいになりましたね」
「安全確認です」
「カフェで必要ですか」
「恋愛ミステリーを読む人は、背後に気をつけそうなので」
「本棚の前の偏見がまだ続いています」
「偏見ではなく、観察です」
彼女はカフェオレを頼んだ。
僕はホットコーヒーにした。
「ブラックですか?」
「今日は飲めます」
「大人ぶりたい日」
「そういう日もあります」
「無理したら微糖警察が来ますよ」
「管轄が狭いですね」
注文を終えると、月島さんは鞄から小さな手帳を出した。
表紙の端が少し擦れていて、使い込まれているのがわかる。
「予定確認ですか」
「はい。人間は予定を忘れるので」
「真理ですね」
「相沢さんも記録する派ですか?」
「必要なことは」
「必要じゃないことは?」
「忘れても困らないなら、まあ」
言ってから、自分で少し引っかかった。
忘れても困らない。
忘れたことに気づけないなら、困ることもできない。
先生の言葉が、頭の隅で小さく動いた。
月島さんは手帳を閉じた。
「明日、空いてますか」
「明日」
「はい。美術館に行きませんか」
「急ですね」
「計画性のある急です」
「矛盾しています」
「美術館って、わからない顔をしたら負けな気がするので、相沢さんを連れていきたいんです」
「僕は負け要員ですか」
「初心者代表です」
「名誉がない」
「でも、一緒にわからない顔をしてくれそうなので」
彼女は軽く言った。
その言い方が、冗談だけではないように聞こえた。
「わからない顔なら得意です」
「心強いです」
「得意でいいものかは微妙ですが」
「明日、十時。駅前でどうですか」
明日。
その言葉を、彼女は少しだけ大事そうに言った。
僕はスマホを出し、予定表を開いた。
明日の欄は空いている。
いや、空いているはずだった。
画面の下の方に、薄い通知が残っていた。
明日十時 駅前
僕は指を止めた。
自分で入れた覚えはない。
でも、予定表には確かに入っている。
「相沢さん?」
月島さんが覗き込もうとして、すぐにやめた。
「いえ」
僕は画面を伏せる。
「十時、空いてます」
「よかった」
「月島さん」
「はい」
「僕、これから自分で予定を入れます」
「はい?」
「自分で入れたことを覚えておきたいので」
月島さんは、一瞬だけ黙った。
その沈黙は短かった。
でも、コーヒーの湯気が揺れるのを見るには十分だった。
「じゃあ、ちゃんと入れてください」
「月島さん、美術館」
僕は予定表に文字を打つ。
月島さん、美術館。
それだけの文字が、画面の中で妙に強く見えた。
「これで明日は逃げられません」
「逃げる予定だったんですか」
「逃げ道の確認です」
「確認したうえで来てください」
月島さんは笑った。
僕も少し笑った。
けれど、さっきの予定が頭から離れなかった。
明日十時 駅前。
僕が入れた覚えのない予定。
それは小さな違和感だった。
でも、小さな違和感ほど、あとから大きくなることがある。
「念のため、連絡先も交換しておきますか」
僕が言うと、月島さんは目を丸くした。
「相沢さん、急に現代人になりましたね」
「今まで何だったんですか」
「文庫棚に住む人」
「住所が狭すぎます」
軽口を言いながら、僕たちはスマホを出した。
連絡先の交換は、拍子抜けするほど簡単に終わった。
画面に「月島澪」と表示される。
予定表に入れた名前よりも、少しだけ近い場所に彼女が来た気がした。
カフェを出る頃には、夕方の色が濃くなっていた。
「また明日」
月島さんが言った。
「はい。また明日」
僕は返した。
彼女はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑い損ねた。
また明日。
たった四文字の約束が、彼女には少し重すぎるように見えた。




