第31話 軽口は、記録に残る
大式典は、無事に閉じた。
来賓の多くは、美しい式典だったと口にしながら馬車寄せへ向かっている。大舞踏会場の灯火は少しずつ落ち、譜面台が片づけられ、給仕たちは温かい茶器を下げ始めていた。
表向きは何も起きなかった。
だから、東翼の小広間に戻った金羽会の若手たちは、最初だけ強く息を吐いた。
「結局、何もなかったな」
誰かがそう言った。
声は、笑いに戻ろうとしていた。大式典の緊張から解放された若者たちの、いつもの軽さに戻ろうとする声。だが、すぐには笑いにならなかった。
少し揺らせば誰かが慌てるはずだった会場は、揺れかけた瞬間に別のものが入ってきて、何も起きなかった。
茶器が来た。
楽団の音が切れなかった。
近衛は前に出なかった。
案内役は確定順を手にしていた。
オスカー・ベイルは、窓際で手袋の指を整えていた。胸元には、金の羽根をかたどった飾り針が光っている。
「つまらない式典だったな」
低く言うと、隣の若手が曖昧に笑った。
「無事に終わったなら、よかったんじゃないか」
「無事に終わるのは当然だろう。王宮の大式典なんだから」
オスカーは肩をすくめた。
「少し空気が動いたくらいで、あんなに構えるから面白くなくなる」
言葉は軽かった。軽いまま、部屋に落ちた。
しかし、今度は誰も拾わなかった。式典中、茶器を受け取るために足を止めさせられた者もいる。廊下へ出ようとして、給仕の盆と楽団の音に口を塞がれた者もいる。
自分たちが見物する側にいるはずだったのに、いつの間にか見られる側へ回っていた。その違和感が、笑い声を少し遅らせていた。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
若い職員が一礼して立っている。
「オスカー・ベイル様。王宮儀典局・保安部より、式典後の記録照合にご同席をお願いしたいとのことです」
部屋の空気が、止まった。
オスカーは眉を上げる。
「記録照合?」
「はい。式典運営に関する口頭伝言の確認です」
職員の手元には小さな控えがあり、そこには呼び出し先、時刻、用件、立会者の名が書かれていた。
「私が?」
「はい。ベイル様のお名前が、複数の確認記録にございます」
軽い言葉が、急に軽くなくなった。
オスカーは笑おうとした。
「王宮では、雑談まで呼び出しの理由になるのか」
職員は、返事に迷わなかった。
「雑談かどうかを、記録照合で確認するようです」
その答えは、冗談を受け取る余地を持っていなかった。
オスカーは手袋の指先を整え直し、胸元の金の羽根に一度だけ触れた。
「すぐに済ませよう」
そう言って立ち上がったが、後ろに続く者はいなかった。
金羽会と呼ばれていた集まりは、正式な会ではない。主宰者もいない。だからこそ、誰もオスカーと一緒に責任を取りに行く理由を持っていなかった。
扉を出る直前、オスカーは振り返った。
誰も目を合わせなかった。
照合が行われたのは、大舞踏会場から少し離れた小会議室だった。
装飾は少ない。長机の中央には、式典中に使われた確認表と、伝言控え、案内役の聞き取り、給仕側の報告、侍女側の記録が並べられている。
イザークが記録帳の前に座っていた。セドリックは案内順の控えを持ち、ベアトリスは現場職員の聞き取りをまとめた紙を手元に置いている。カイルは近衛側の通行記録を開き、ルシアンは長机の端に立っていた。
エレナもいた。
ただし、中心の席ではない。壁際に近い椅子に座り、自分の前に置かれた確認表だけを見ている。オスカーへ向ける怒りもなかった。
それが、かえってオスカーの足を止めた。
見物されるはずだった令嬢は、彼を見ていない。記録を見ていた。
「ベイル卿」
イザークが顔を上げた。
「本照合は、大式典中および準備段階で現場へ入った口頭伝言について、発生源、受領者、時刻、内容を確認するものです」
「私は正式な指示など出していない」
オスカーは、椅子に座る前に言った。
イザークは頷いた。
「はい。ベイル卿には、式典運営に関する指示権はありません」
その返事に、オスカーの目が少し細くなる。
「なら、問題はないだろう」
「指示権のない方の言葉が、指示のような形で現場へ降りたため、確認しています」
イザークの声は平坦だった。
「ご着席ください」
命じる声ではない。だが、立ったまま軽口で流すことはできない声だった。
オスカーは椅子に腰を下ろした。
最初は、東翼小広間の聞き取りだった。
セドリックが紙を開く。
「大式典前日、東翼小広間において、第五控室の割り当てが変わるかもしれない、案内役に尋ねれば迷うかもしれない、という趣旨の会話がありました」
オスカーは小さく笑った。
「それが何か。若い者の雑談だ」
「同日昼過ぎ、案内役見習いが第五控室の札を取り分けようとしています」
セドリックは、別の紙を重ねた。
「本人の記録では、東翼小広間で聞いた話を若い職員から伝え聞き、念のために確認しようとした、とありますぞ」
「念のためだろう。動かしていない」
「はい。動かす前に止まりました」
セドリックは、そこで言葉を強めなかった。
「止まった理由は、臨時運用により、控室札は確認欄に記載のある変更票以外では動かさないと伝達されていたためです」
オスカーの笑みが、少し薄くなった。
「それなら、王宮側の手順が機能したというだけだ」
「はい」
イザークが、記録帳へ一行を足した。
「王宮側の手順が機能したため、ベイル卿周辺から出た言葉による控室札の移動は未然に止まりました」
ペン先が紙をこする音がした。
軽口が、文章になった。
次に、ベアトリスが給仕側の報告を前へ出した。
「給仕見習いが、ハルトレイ家周辺の茶器順を変えるべきか確認を求めました」
オスカーは、今度はすぐに笑わなかった。
「私が給仕に何か言ったと?」
「給仕本人は、ベイル卿から直接聞いたとは申しておりません」
ベアトリスは落ち着いていた。
「ただ、金羽会に近い若手貴族の方から、『ハルトレイ家の席が少し動くかもしれない。ベイル卿がそのように笑っていた』と聞いた、と記録しています」
「笑っていた、だと?」
「はい」
ベアトリスの指が、紙の欄を押さえる。
「伝言者、受領者、時刻、内容。すべて記録済みです。給仕見習いは、変更票がないため茶器順を動かしていません」
「なら、やはり何も起きていない」
「何も起きないように止められました」
ベアトリスの声は柔らかい。だからこそ、逃げ道がなかった。
「使用人は、貴族の冗談を冗談と放置できません。冗談だと決めつければ、不敬になる場合があります。ですから、聞こえた言葉を確認に上げました」
オスカーは、そこで初めて口を閉じた。
王宮の使用人は、貴族の軽口を笑って済ませることができない。聞こえなかったことにもできない。まして、大式典の席順や控室に関わる言葉なら、なおさらだった。
そのために、事前挨拶式のあとで決まった欄がある。
伝言者。
受領者。
日時。
内容。
軽く落としたつもりの言葉は、その欄へ入った瞬間、軽さを失う。
カイルが、近衛側の通行記録を開いた。
「式典中、金羽会に近い若手貴族二名が、姫殿下の退場導線に近い位置へ予定外に移動しかけています」
「空気を吸いに立っただけだろう」
オスカーはすぐに返した。
「そう記録されています」
カイルは認めた。
「ただし、その直前、同じ卓で『退場の礼順は、国内貴族が先に見せた方が映える』という発言がありました。発言者は別の方ですが、照合では、前日の小広間でベイル卿が同趣旨の話をしていたと証言が出ています」
「映える、と言っただけだ。礼順を変えろとは言っていない」
「はい」
カイルは短く頷く。
「そのため、近衛隊は意図的な妨害としてではなく、式典導線への不適切な接近として記録しています」
意図的な妨害ではない。
その言葉に、オスカーの表情が一瞬だけ戻りかけた。
ルシアンが口を開いた。
「ただし、意図的な妨害でなければ問題がない、ということではありません」
部屋の空気が静かに変わった。
「姫殿下の婚約発表と、レイゼル使節団本隊の正式歓迎が重なった大式典です。礼順、控室、席順、退場導線に触れる言葉は、現場を動かします。指示権のない来賓が、それを知りながら軽く扱った」
ルシアンは、オスカーをまっすぐ見た。
「それが今回の問題です」
オスカーは、初めて視線を逸らした。
「知りながら、というのは言いすぎだ」
それでも、オスカーは言った。
「私は、式典を壊すつもりなどなかった」
「その点は、現時点では断定していません」
イザークが答える。
「式典の混乱を目的とした陰謀としては扱いません」
オスカーの肩が少し下がった。
その直後、イザークは別の紙を置いた。
「ですが、ベイル卿が、出所不明の伝言が現場を迷わせていることを前日までに知っていた事実は記録されています」
紙には、東翼小広間での会話が時刻順に並んでいた。
事前挨拶式で近衛が半歩出たこと。
控室札が口頭伝言で動きかけたこと。
第五控室の割り当てを尋ねれば案内役が迷うかもしれないこと。
本当に動いたなら聞いた側の問題だ、と笑ったこと。
オスカーの指が、机の端で止まる。
「誰がそんなことを」
「複数名です」
イザークは、名を出さなかった。
「同席者には、別室で確認を終えています。証言は完全には一致しません。ですが、ベイル卿が式典手順に触れる話を軽口として繰り返した点は一致しています」
金羽会は、正式な会ではない。
だから、守るべき会則も、仲間を庇う義務もない。
誰かが主宰者ではないと笑っていた集まりは、責任を取る段になると、誰も中心に立たなかった。残ったのは、最もよく喋っていた者の名だけだった。
オスカーの胸元で、金の羽根が小さく光った。
その輝きが、急に薄い金属片のように見えた。
照合は、まだ終わっていない。だが、オスカーの軽口は、もう雑談の顔をしていなかった。
記録帳の上で、用意されていた逃げ道が、細くなっていった。




