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第21話 あなたの判断を、儀典局の判断にします

姫殿下の孤児院支援報告会の翌朝、王宮では小規模な事前挨拶式が行われた。


来賓は多くない。使う控室も、第一、第二、第三の三つ。前日までの手順では、三組の来賓がそれぞれの控室で待ち、案内係の合図で順に式典室へ入ることになっていた。


エレナは第二控室の扉の前で足を止めた。


扉には、閉鎖表示の札が掛かっている。


札そのものは規定のもの。だが、端の確認欄は空白のまま。


「本日は第二控室を使わないそうです」


案内係は、そう決まっているものとして言った。


「どなたのご指示ですか」


エレナが尋ねると、案内係は少し考えた。前夜の片づけのあと、控室順を確認していた者からそう聞いたのだという。


その者の名は、控えにない。伝言を受けた時刻も、残っていない。


けれど現場は、もう第二控室を使わないものとして動いている。


第二控室の花台は運ばれていなかった。茶器は二組だけ。外套掛けも、二部屋分しか廊下側へ出されていない。第一控室と第三控室だけを使うなら、それで足りる。


だが今日の来賓は、三組。


第二控室を使わなければ、一組の従者は廊下で待つことになる。しかも、その廊下の角は、向かい側の控室から出る一行と近づく場所だった。


「閉鎖表示の札は、まだ外さないでください」


エレナは、すぐには札に触れなかった。


外せば、第二控室は間に合うかもしれない。茶器と外套掛けを足せば、その場は整う。


けれど、確認欄が白いままでは、閉鎖の理由も、部屋の安全が確かめられたのかも分からない。そのまま来賓を通すわけにはいかない。今ここで何事もなかったように整えてしまえば、第二控室がなぜ閉じたものとして扱われたのか、その起点も見えにくくなる。


エレナは、白いままの確認欄をイザークへ示した。セドリックには、案内係が伝言を受けた相手と時刻を、もう一度たどってもらう。ベアトリスは茶器と外套掛けを一組ずつ追加し、廊下側の花台を角から半歩だけ内へ寄せた。


カイルは、近衛側の通行位置を確認していた。


その途中で、補助役の若い声が廊下に通った。


「こちらでお待ちください」


言葉は間違っていない。


待つべき者を待たせるための案内。けれど、待たせた場所が悪かった。


第二控室を使えないと思っている従者は、廊下の角に残っていた。そこは、向かい側の控室から出る一行が通る場所でもある。


補助役の声で従者がその場に足を止めたため、角の通り道が細くなった。


向かい側の護衛が、それに気づいて視線を上げる。廊下に残った従者の護衛も、同じ角を見た。


二組の護衛が、同じ場所で相手の動きを見る形になる。


近衛の一名が、間に入るように半歩出た。剣に手をかけたわけではない。けれど来賓には、近衛が何かを警戒して前へ出たように見えた。


閉じている控室。

角に止まった従者。

通り抜けようとする一行。

互いを見る二組の護衛。

その間へ出た近衛。


小さなずれが、一つに重なった。


エレナは、補助役にその場で言い直させなかった。ここで声を重ねれば、案内のずれが来賓にも護衛にも伝わる。角の詰まりは、ただの待機場所の問題ではなくなる。


「お茶の準備を先に整えてください。控室は確認中です」


そう言って、茶器を角の手前へ入れた。


従者は茶器を受け取るために足を止めた。その一拍で、向かい側の一行が角を抜ける。ベアトリスが外套掛けを廊下の内側へ戻し、カイルの低い合図で近衛は警戒を残したまま半歩下がった。


第二控室は、確認後に使われた。


案内の遅れは問題にならない程度だった。来賓は茶を受け取り、式典室へ進んだ。近衛の半歩は来賓の目に入った。だが、そこで生じた小さな傷は広がらなかった。


式典そのものは、滞りなく進んだ。ただし、何が起きかけたのかは、記録に残す必要があった。


閉鎖表示の確認欄は白いまま。

最初の伝言者は不明。

茶器と外套掛けは、二組分だけ。

近衛が半歩動いたのは、導線が詰まりかけたからだった。



午後、臨時会議が開かれた。


場所は、保安部の隣にある会議室。長机の中央には、朝の記録を置くための空きが作られている。


イザークの前には記録帳。セドリックの前には規定の写し。ベアトリスの手元には、現場証言をまとめた紙がある。カイルは、近衛側の図面を丸めた筒に手を添えていた。


出席者は、ルシアン、セドリック、ベアトリス、イザーク、カイル、そしてエレナ。


マティアスの席だけが空いている。


開始時刻を少し過ぎてから、扉が開く。マティアスは短く会釈だけして席に着いた。椅子を引く音が、長机の端で小さく止まる。


「本会議の議題は、事前挨拶式で起きた三つの不備の確認です」


ルシアンが最初に言った。


「一つ目は、第二控室の閉鎖表示。二つ目は、記録にない口頭伝言。三つ目は、それによって生じた護衛導線の交錯です」


そこで一度、全員の顔を見た。


「個人の断罪ではありません。再発防止のため、原因と対策を確認します」


マティアスは腕を組んだ。納得しきった様子ではなかったが、口は挟まなかった。


会議は、その沈黙の上で始まった。



イザークが記録帳を開いた。


「記録上、問題は空白の形で残っています」


彼は、長机の中央へ三枚の写しを置いた。


一枚目は、第二控室の閉鎖表示。

二枚目は、案内係への聞き取り。

三枚目は、茶器、外套掛け、近衛の通行位置をまとめた現場記録。


「閉鎖表示の確認欄は空白です。案内係は口頭伝言を受けていますが、伝言者名と時刻は残っていません。現場準備は、第二控室を使わない前提で進んでいました」


イザークは、閉鎖表示の空欄へ指を置いた。


「つまり、誰かの一言で控室が閉じた形になり、最初にそう言った人物が記録に残っていません」


セドリックが、規定の写しを一枚前へ出した。


「案内係を責めるのは不適切と考えます。現行の規定では、口頭伝言を受けた際、出所を確認する義務はありません。案内係は、正式な変更だと思って従っただけです」


声は硬い。


自分たちの手順に穴があると、会議の場で認める声だった。


ベアトリスは、現場メモを開いた。


「使用人と侍女も、第二控室を使わない前提で準備していました。茶器は二組、外套掛けも二部屋分。第二控室の花台は運ばれていません」


「現場全体が、同じ伝言に従っていたのですね」


セドリックが確認すると、ベアトリスは頷いた。


「ええ。ですが、『最初に第二控室を使わないと言ったのは誰か』と聞いても、誰も答えられません」


カイルが図面を広げた。折り目のついた角を押さえ、会議室側からも見える向きに直す。


「第二控室を使わない場合、従者はこの角で待つことになります。そこへ向かい側の控室から一行が出る。補助役の声で従者が角に止まり、通り道が塞がりかけました。二組の護衛が互いの動きを見て、近衛一名が来賓の視界へ半歩出ました」


カイルは、その角を指したまま続けた。


「半歩だけです。ですが、来賓から見れば、異常を察知して近衛が動いたように映る」


剣は抜かれなかった。それでも、来賓の視線はそこへ集まった。


「その場で声を重ねず、茶器で流れを切った。大事にせず収めたのは、グランベル嬢です」


マティアスは、腕を組んだまま机の紙を見ていた。


 白い確認欄。

 出所のない伝言。

 廊下の角で出た近衛の半歩。


どれも、前例だけでは片づけられない紙だった。



「口頭伝言で現場を調整することは、認められている運用の一つだ」


それでも、マティアスは言った。


「紙を待っていては間に合わない場合がある。認められている運用を、今回だけ危険として扱うのは大げさではないか」


「そうした運用が認められていることは事実です」


イザークが答えた。


「ただし、認められていることと、対策が不要であることは同じではありません」


マティアスの視線が、エレナからイザークへ移る。近衛隊の保安判断が、儀典局の手順へ踏み込む。彼が警戒しているのは、そこだった。


エレナは、手元の紙を一枚、長机の中央へ出した。


「現場判断の余地は重要です。軽んじるつもりはありません」


声は、会議室の中で思ったよりまっすぐ届いた。


「現場で口頭伝言が必要になることはあります。しかし、今日のように記録が残らなければ、正しい伝言と、出所のない伝言を分けられません」


紙には、四つの項目が書かれていた。


一。式典運営に関わる口頭伝言は、伝言者、受領者、日時、内容を記録すること。


二。控室札および閉鎖表示の変更は、理由と時間を記録すること。


三。案内順または導線の変更は、儀典局と近衛隊の双方へ共有すること。


四。侍女、給仕、案内役からの違和感報告を、保安部の確認事項として受け付けること。


マティアスは、紙を見下ろしたまま動かなかった。


「これは、儀典局の正式手順を直ちに改定するものではありません」


エレナは続けた。


「当面の式典運営に限り、保安部と近衛隊の共同確認事項として臨時運用します。結果は記録します。正式手順にするかどうかは、その記録を見て別議題とします」


セドリックが、規定の写しを指先で押さえた。


「臨時運用なら、上席承認を待たずに始められます。対象も、控室、伝言、導線に限られますな」


ベアトリスも、現場メモの端をそろえながら言った。


「違和感を上げる先があるだけで、使用人や侍女は動きやすくなります。誰かの責任にするためではなく、手順のずれが大きくなる前に止めるための報告として出せますから」


イザークは、罫線の入った雛形を机の端に置いた。


「記録形式は用意しています」


 伝言者。

 受領者。

 日時。

 内容。


白いままだった欄は、次から、誰が何を受けたのかを書き込む場所になる。


マティアスは、雛形と四項目の紙を見比べた。


警戒は消えていない。権限の境目への不快感も残っている。だが、朝の閉鎖表示の白い欄も、二組分しかなかった茶器も、近衛図面の角も、机の上からは消えなかった。


「……今回に限り、反対しない」


低い声だった。


「ただし、臨時運用の結果は記録すること。問題があれば、即座に見直す」


「承知しました」


エレナは、深く頷いた。



ルシアンが立ち上がった。


「では、本会議の結論をまとめます」


イザークのペン先が、記録帳の上で止まる。


「儀典局・保安部と近衛隊の共同確認事項として臨時運用する。当面継続し、結果を記録する」


そこで、ルシアンはエレナを見た。


「あなたの提案を、個人の判断ではなく、儀典局の判断として扱います」


エレナは、すぐに返事ができなかった。


机の上には、朝の記録がある。白い確認欄があり、出所のない伝言があり、近衛の図面があり、自分が置いた四項目の紙がある。


これまで彼女は、違和感を一度胸の内で整えてから差し出していた。それは、エレナ個人の目だった。婚約破棄の夜からずっと、誰かが気づく少し先を見てきた目だった。


その判断が、いま記録帳の前に置かれている。


ルシアンは、言葉を足した。


「まずは、保安部の臨時運用として」


重さの置き場所が、そこで定まった。正式な採用ではなく、儀典局全体の手順改定でもない。それでも、もう彼女一人の勘ではない。


「承知しました。ありがとうございます」


エレナの声は静かだった。言い終えてから、紙を押さえていた指先の力が少しだけ抜けていることに気づいた。


胸の奥に、遅れて温かいものが届く。


仕事として、周囲から認められたのだと思った。



会議が終わると、出席者たちはそれぞれの紙をまとめ始めた。


セドリックが、規定の写しを揃えながら言う。


「次の式典準備は分担しましょう。午前の確認は私が持ちます」


ベアトリスが、現場メモを抱え直した。


「現場側は私が見ます。侍女と給仕にも、違和感を上げてよいと伝えます」


イザークは、記録帳を閉じて頷いた。


「空欄は作りません」


カイルが近衛図面を丸め、短く笑う。


「近衛隊としても、先に分かる方が助かります」


どれも、ねぎらい言葉ではなかった。それぞれの持ち場を、ただ自分の手元に引き寄せる言葉だった。


マティアスは何も言わずに立ち上がった。扉へ向かい、取っ手に手をかける前、一瞬だけ足を止める。


振り返りはしなかった。




夕方。


エレナは保安部で、会議記録を確認表へ移していた。


新しい確認表には、朝にはなかった欄がある。


 伝言者。

 受領者。

 日時。

 内容。


羽ペンの先で一つずつ埋めていると、受付の職員が声をかけた。


「グランベル嬢。面会の方がいらしています」


「どなたですか」


「ハルトレイ家の、ディオン・ハルトレイ様です」


羽ペンの先が、紙に触れたまま止まった。




止まった時間は、一呼吸だった。


「ディオン殿のご用件は」


「個人的なお話とのことです」


個人的な話。


その言葉だけが、確認表の上に落ちたように見えた。


エレナは、羽ペンをいったん置いた。


「申し訳ありません」


声は乱れなかった。


「現在、臨時確認会議後の記録整理と、次の式典に向けた準備に入っています。本日の面会は難しいとお伝えください。必要であれば、後日あらためて正式にお申し込みを」


受付の職員は頷き、戻っていった。


ディオン。


その名は、一瞬だけ胸の奥を通った。


けれど、机の上にはまだ空欄のある確認表がある。白いままにしておけば、今日と同じことがまた起きる。


エレナは羽ペンを取り直し、次の欄へ視線を戻した。


今ここにある、やるべき事の順番は、崩さない。



王宮の受付で、ディオンは返答を聞いた。


「グランベル嬢は重要業務のため、本日の面会は難しいとのことです」


「業務……」


「はい。臨時会議後の記録整理と、次の式典に向けた準備に入っているそうです。ご用件は後日あらためて正式にお申し込みください、とのことです」


ディオンは、受付の向こうの廊下を見た。


その先に、保安部がある。


そこに、エレナはいる。


以前なら、ディオンの用件はエレナの用件になった。何かを頼めば、彼女は整えた。会いたいと言えば、時間を作った。ハルトレイ家の都合が、エレナの都合より先に置かれていた。


今は違う。ディオンの用件は受付で止まり、後日の手続きに回された。


当然だった。

その当然のことが、今になって胸に届いた。


「分かりました。後日、正式に申し込みます」


ディオンは受付に頭を下げた。


王宮を出ると、夕方の空に塔が立っていた。あの塔の下で、エレナは書類を見ている。


自分のためではない書類を。


ディオンはしばらく塔を見上げ、やがて馬車の方へ歩き出した。


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