夜行バスの旅 その二
無事に絶壁を下り終えると、なだらかな坂道になった。
運転手がいったんバスを停車して、車体を再確認する。同時に、トイレ休憩も挟んでいるので、いったん、乗客の大半がバスから降りた。
そのまま、そこら辺の草むらで用を足して戻ってくる。ゴパルもその内の一人なのは言うまでもない。
草むらといっても、水田のそばなので、カエルの合唱が至近距離でよく聞こえる。
「あんまり草むらの中へ入ると、水田に落ちるから注意しないとね。それと、毒蛇もいるし」
ネパールでは、インドに接するテライ地域でコブラ等の毒蛇が生息しているのだが、山間地にも緑色の毒蛇が居る。
俗に青ハブと呼ばれ、マイナーな毒蛇なので、血清治療に使う医薬品が不足気味だ。この他にも毒蛇が生息していて、年間数名が咬まれて死亡している。
なお、インドではさらに強力な毒蛇が、有名どころだけでもコブラを含めて四種類居るので、注意が必要だ。
運転手と少年の車掌も用を足して戻ってきて、エンジンをかけ直した。今回も一発で点火できて、エンジン音が車内に響く。
ここまで来ると、道端には大きな建物は見られなくなった。田舎の商店街や集落、それに点在するバフンやチェトリ階級の農家と水田といった、のどかな風景が闇夜に広がる。
日中であれば、稲穂が垂れているのが見えたのだろうなあ、と想像するゴパル。田舎は消灯時間が早いので、もう閉店している店もあった。
今、開店しているのは食堂や茶店だ。やはり、地元民がたむろしてチヤを飲んだり、軽食をつまんだりしている姿が見える。居酒屋もあり、そこで酔っぱらっているのはネワール族とタマン族のオッサン達だ。
夜行バスが走り始めてしばらくすると、再び停車した。今度はトリスリ川沿いに設けられた、高速道路の料金所だ。
といっても、料金徴収の門がある訳では無い。道端に支払い所があるので、そこへ少年車掌が歩いて行って、料金を支払う。
再び乗客の数名がバスから降りて、周辺を散歩し始めた。ゴパルもその一人である。チヤ屋台があるので、迷わずに一杯飲む。
道路から川を見下ろすと、雨期明け後なのでかなり増水していた。川の水の色までは分からないが、恐らくは土色の濁流だろう。
このトリスリ川は、首都の真北にあるランタン連峰を源流としているので、水温は結構低い。
そんな河川敷には、数名乗りのゴムボートが三つ置かれてあった。数名の男達が機材を持ち込んで、濁流を睨んでいるのが見える。
ゴパルの垂れ目が、ややジト目になった。
「いやいやいや……この濁流では、ラフティングは無謀でしょ」
ラフティングというのは、数名乗りのゴムボートに乗って、川下りをするスポーツである。
トリスリ川の場合では、ここから川下りを開始し、二日ほどかけて下流のムグリン町まで行くのが定番だ。参加者は欧米や中国、日本からの観光客がほとんどで、救命胴衣とヘルメットを支給される。
注意点は飲み水だろう。川の水をそのまま使う主催者が居るので、飲み水は各自で用意した方が胃腸に優しい。
また、川で泳がない方が良いだろう。どうしても泳ぎたい人は、水中メガネを使う事を強く勧める。
川面を睨んでいた男達は、ギャーギャー騒ぎながら居酒屋へ入っていった。今日はキャンセルになった様子なので、ほっとするゴパルである。
「うん、その判断は正しいと思うよ。さて、そろそろバスへ戻るかな」
夜行バスが走りだした。少年の車掌が、インド映画音楽を大音量で流し始める。今年の映画では無く、去年の映画の音楽だ。
車内に取り付けられている発光ダイオードが一斉に灯り、まるで場末のディスコのような印象に変わった。
乗客は完全に慣れている様子で、文句も言わずに寝始めた。隣の席の初老の男も眠り始めたので、ゴパルもスマホの無料チェスゲームで遊ぶのを止めた。スマホを胸ポケットに押し込んで、耳栓とアイマスクをする。
「袋麺は、後で食べるとするかな」
袋麺を細かく砕いて、そのまま食べるのが、よくある食べ方だ。夜行バスの間食として、愛用する人が多い。なお、麺に直接味付けされている商品が人気なのは、書くまでもないだろう。
高速道路は川沿いに削って引いた道なので、多少のカーブはあるものの、真っ直ぐで非常に走りやすい。
ただ所々、土砂崩れの跡が生々しく残っていた。土砂の排除が不十分なので、道路が土砂に覆われたままでデコボコしている。当然、夜行バスは減速せずにそのまま突っ込んでいく。
激しいバウンドで、座席から跳び上がる乗客が続出した。ゴパルは革紐で自作したシートベルトを腰に巻いていたので、頭を天井にぶつけずに済んでいたようだ。
隣の初老の男は、網棚に頭をぶつけてしまい、運転手に怒鳴っている。
道端には、土砂の他に、地元民が設けている素朴な物販屋台があった。このトリスリ川の両岸には集落が多く、野菜栽培も盛んだ。今は夜中なので閉店している。
「産地だけあって、野菜の評判が良いんだよね。魚も新鮮だし。ケダル兄さんの車で、今度買い物に来てみようかな」




