首都バラジュ地区
夕方、標高千三百メートルのカトマンズ盆地は、久しぶりの夕焼けに赤く染まっていた。盆地をぐるりと囲む山々の尾根筋には、まだ分厚い雲が立ち込めているのだが、その雲も赤く染まっている。
山々も、十分すぎるほどに雨を吸った木々が、枝葉を存分に伸ばしていて、夕焼けの光を反射していた。枝葉に陰影があるおかげで、立体的に浮き出て見える。
首都の建物も一様に赤く染まっていた。特に、伝統的な赤レンガ造りの建物は、ただでさえ赤いので、真っ赤だ。屋根の無い、四から五階建ての建物が多いので、よく目立っている。
最近では、鉄筋コンクリート造りの三階建ての一軒家や、集合住宅も増えてきているが、まだまだ赤レンガの建物が多い。
長い間、雨模様が続いていたので、早くも洗濯物を干す人が現れていた。
ちなみに、ネパールでは洗濯機の普及率は、かなり低い。断水が多く起きるので、節水しないといけないためだが、サリーやルンギ等は大きな布なので、洗濯機に入りきらないせいもある。欧米製のドラム型洗濯機は、大きすぎて、置く場所に困るのだ。
結局、昔ながらのタライを使った手洗いが、効率的になっているのだった。停電を心配する必要も無い。
そろそろ夕食や、オヤツの準備を各家庭が始める頃だ。最上階から野菜クズや生ゴミ、それに汚水を地面に向けて投げ捨てる風景が、あちらこちらで見受けられている。投げ捨てる先は、空き地や、自宅の庭である。
首都ではゴミ回収車が巡回しているので、投げ捨てなくても構わない。燃料不足による間引き運転や、ゴミ回収業者への賃金不払いによるストライキ等が起きなければの話だが。
加えて、首都のゴミ埋立地が狭いので、ゴミの越境問題が起きている。インドと接するテライ地域へ、ゴミを捨てざるを得ないので、現地住民が怒り狂っている現状だ。
首都ではトイレや下水道、し尿処理場も不十分なので、雨期ともなると、一気に公衆衛生環境が悪化する。ハエ等の不快害虫が大発生して、カトマンズ盆地の中を自在に飛び回る。
上水道も土中のパイプの割れ目から、地下水を吸引してしまうので、水道水も健康上良くない状態になる。各家庭では、フィルターろ過器の常設が必須だ。それでもウイルスは除去できないので、煮沸処理をする必要がある。
水たまりが残る土道を、ゴトゴト揺れながら小型タクシーが走ってきて止まった。軽自動車くらいの車体だが、エンジンは普通車のモノを積んでいる中古車だ。
後部座席のドアが開いて、中から荷物を抱えたゴパルが降りてきた。垂れ気味の黒褐色の瞳に、疲れの色が見えて、黒い短髪頭もペッタリとして張りが乏しくなっている。それでも、運転手に料金を支払って、ねぎらった。
「ご苦労さま。泥道で済まないね」
運転手が軽く肩をすくめた。痩せた中年男で、山岳民族のタマン族だ。この民族は首都周辺に多く住んでいる。
「今時は、どこも似たような泥道だよ。それじゃ」
そのまま、小型タクシーが泥を跳ね上げながら、道を引き返して行った。それを見送ったゴパルが、荷物を抱え上げる。ポカラへ向かう際に持って行ったキャリーバッグの他に、大きな袋がいくつもある。
目の前の二階建て、鉄筋コンクリート造りの一軒家を見上げた。
「久しぶりに、家へ帰ったような気がするなあ……」
家は二メートルほどの垣根で囲まれていて、前庭がある。鉄筋コンクリート造りなので、家はレンガ造りでは無い。白と薄黄色のペンキが塗られた壁には、ステンレス製の窓枠が並んでいる。
屋根は無く、防水加工が施されたコンクリート製の屋上になっている。その屋上には、二立方メートル容量の黒い水タンクが三個と、太陽熱温水パネル、パラボラアンテナと、三十着にも及ぶような洗濯物がズラリと干されていた。
屋上には、使用人の若い女が居て、夕食の下拵えをしている。前庭には、初老の女が座っていて、植木鉢に植えられた花の手入れをしていた。その彼女がゴパルの姿を、生垣の向こう側に見つけた。
「お帰り、ゴパル。雨が続いたせいで、いろんな花に虫がついているんだよ。さっさと荷物を置いて、手伝いなさい」
ゴパルが生垣の扉を開けて、前庭に入った。
「分かったよ、母さん」
ゴパルが住んでいるのは、カトマンズ盆地北部のバラジュ地区である。両親の家で、ゴパルは両親の扶養家族という事になる。
舗装された主要道路沿いには、ネワール族の赤レンガ製の高層住宅が建ち並んでいるのだが、その裏側は一軒家が軒を連ねた住宅地になっている。住宅地は半分ほどが未舗装の土道だ。
ゴパル母が、息子の荷物の量を見て、怪訝な表情になった。農薬を入れたハンドスプレーを地面に置いて、立ち上がってゴパルを見る。
「ずいぶんと荷物が増えたね。どうしたんだい」
ゴパルが苦笑して、両手に抱えた大きな袋を持ち上げた。
「アンナプルナ内院が寒くてね。防寒具と圧力鍋を買ってきたんだ」
そう言って、ゴパルが袋の中身を見せた。五リットル容量の圧力鍋が入った箱と、冬用の大きな寝袋、同じく冬登山用の上下の防寒服等が入っている。アンナキャンプのアルビンが指摘した事を、考えているのだろう。
ゴパル母が、ジト目になって大きな袋の荷物を見つめた。
「給料が低いのに、こんな高価な物を買うなんて。まさか、自腹じゃないでしょうね、ゴパル」
ゴパルも難しい表情になった。
「一応、領収書を作ってもらったよ。だけど、どうかなあ……自腹になるかもね」
ゴパル母の両目がギラリと光ったので、慌てて話題を逸らすゴパルである。
「そ、そうそう。今晩の夕食は、私が作るよ。ポカラで洋食を二品覚えてきたんだ」
今度は、屋上で夕食の下拵えをしていた女の使用人が、ギラリとした視線をゴパルへ投げかけてきた。たじろぐゴパルに、ゴパル母がフフフと笑う。
「そういう事は、前日に言いなさい。ま、どうせゴパルの手料理なんて、大して期待していないわよ。夕食も、いつも通りに食べてもらいますからね」




