アッドアトール・リゾートホテル
ホテルに到着後チェックインを済ませて部屋に荷物を置き、軽く汗を流して着替えてからロビーに下りた。
受付けカウンターの男がすぐに連絡を入れると、支配人が顔を出す。
「KL事業の噂は聞いていますよ。ラマナヤカ氏が色々と自慢してますね。いずれは、ここアッド市でも導入してみたいものです」
ゴパルが頭をかいて両目を閉じた。
「KL構成菌の中にはアルコールを生産する菌が混じっているんですよ……そのまま導入するのは無理だと思います。代わりに、光合成細菌や納豆菌から導入して実験するのが手っ取り早いはずですよ」
イスラム教では酒は不浄扱いだ。支配人もその情報は知っている様子で、深いシワが刻まれた肌黒い顔をほころばせた。顔の黒さはラマナヤカと同じくらいである。
「なるほど、検討してみましょう。今回は、開明冷凍システムの点検でしたね。ご案内します。故障も軽微で役に立っていますよ」
開明冷凍システムでは、冷凍や解凍しても食品の細胞が壊れないようになっている。ただ、食品の種類や大きさ、形に応じて最適条件が異なるため、各地で試験運用してデータ収集をしている段階だ。
本来はポカラ工業大学のスルヤ教授かディーパク助手達が担当すべきなのだが、新規事業が多すぎて手が回っていない。
そんな事情なので、スリランカへ行くゴパルについでにモルディブに立ち寄って点検してきてくれ、とスルヤ教授から頼まれたという経緯である。
(クシュ教授も安請け合いしすぎだよなあ……私も低温蔵の仕事があるんだけど)
データそれ自体は、自動で定期的に送信されている。インドの準天頂衛星群がネパールとモルディブ全域をカバーしているおかげだ。
そのため、ゴパルの仕事は故障の有無と、補修用の部品リストの確認、実際に使っている人から使用上の不満を聞き出す事になる。
支配人の話によると、モルディブは島国なので農地がほとんどない。穀類や野菜を含めた食料品のほとんどを輸入に頼っている現状だ。
しかし、インド洋の中央に国が位置するので外洋の荒波がきつい。船が航行できなくなる時期があるため、食料品の安全な保存は生活に直結する重大関心事になる。
その冷凍保存の一助として、開明冷凍システムの試験導入が始まっていた。幸い、宇宙エレベータからの電力供給が既に開始されているので、停電の心配はない。
ゴパルが真面目にせっせと点検をして聞き取り調査を進めていく。
潮風が直接当たる地形なので、金属の腐食問題が大半を占めた。続いて、電子基盤に虫やネズミが触れてショートしてしまう問題も挙げられていく。
支配人が事情を話してくれた。アッド市での宇宙エレベータ建設事業が本格化するにつれて、インドやパキスタン、バングラデシュからの出稼ぎ労働者が激増している。
同じイスラム教徒なので食事や礼拝等の問題はないのだが、船と一緒にネズミが島内に侵入してくるという事だった。
腕組みをして呻くゴパルである。
「うむむ……ネズミは厄介ですよね。ポカラでKLで処理した生ゴミを肥料として使ってみたのですが、野ネズミや野犬の餌になってしまいました。トマト等の作物も荒らしていくので、問題になりましたね」
現在は、生ゴミボカシを多少食べられても作物への被害が生じないように、栽培暦を調節したりもしている。
支配人が深くうなずいた。
「山国でも問題になっているんですねえ」
サンゴ礁では魚等が多数生息しているのだが、餌となるプランクトンの栄養源は海鳥の糞だという事だった。
「その海鳥をネズミが襲うんですよ。海鳥が逃げて居なくなった島では、急激に魚が減っていきます。魚は我々の重要な食料ですからね、減ると困ります」
なるほど、と納得するゴパルである。
「KLを使って生ゴミを肥料化する事ができるのですが、同時にネズミの餌にもなるんですよ。慎重に進めた方が良いでしょうね。KLを使ってネズミが増えたら大変です」
ネズミ駆除には猫という案もあったのだが、実際にはそれほどネズミを狩ってくれないらしい。さらにネズミ並みに海鳥の巣を襲うので、案は採用されなかったそうだ。
支配人が苦笑した。
「地道に駆除していくしかありませんね、ははは」
その後はホテルを出て、商店街で軽く食事を摂ってから、アッド環礁の中央にそびえ立っている宇宙エレベータの地上駅へ向かった。まだ建設中なので、作業船に乗せてもらう。
ゴパルが船上から穏やかな環礁湖を見下ろして、垂れ目をキラキラさせている。
「赤道直下なので紫外線がきついのですが、夜間であれば微生物の採取ができそうですね。ネパールに戻ってから、微生物の採取許可を得るように交渉してみますよ。もしかすると、海洋向けのKLができるかもしれません」
穏やかにうなずく支配人である。
「環礁湖は環境基準がかなり厳しく設定されているんですよ。街の汚水は雨水を含めて一切流れ込みませんし、漁港の排水にも厳格な基準が課せられています。おかげで赤潮も発生しません。有害な菌は少ないと思いますよ」
街や漁港の排水は雨水も含めてインド洋の深海に放流しているという話だった。ネパールでも多くの街には下水処理場がない。どこも同じなんだなあ、と思うゴパルだ。
海洋の菌については、陸上よりも研究が進んでいない。そのため、今から採取を開始してもKLとして商品化するまでには長い年月がかかる。それまでの間は、培養液を仕込む際に現地の海水を使ってみるしかない。その場合、汚れた海水を使う事は避けるべきだろう。
作業船には多くの外国人の出稼ぎ労働者が乗船していた。言葉は分からないのだが、支配人によるとこの船にはバングラデシュ人が多いようだ。
顔見知りの人も多いようで、何人かとイスラム式の挨拶を交わす支配人である。
「宇宙エレベータの建設が進むにつれて、淡水が多く得られるようになりましてね。おかげで礼拝所でもふんだんに水を使えるようになりました」
イスラム教徒は毎日礼拝を欠かさないのだが、礼拝前に手足等を洗って清める。そこで使う淡水の事を指しているのだろう。興味深く聞くゴパルだ。
「確かに、島では淡水は貴重ですよね。まさに天からの贈り物ですか」
今になって気がついたのだが、環礁湖の上空には雨雲が発生し続けていた。雨雲は気流に流されていて、晴れたり曇ったりを繰り返しているのだが、今はパラパラと小雨が降っている。
支配人が深くうなずいた。
「そうですね。元々アッド環礁では淡水の地下水が多いのですが、この宇宙エレベータが建設されて以降は雨がよく降るようになりました」
そう言ってから、流れていく雲をゴパルと一緒に見送った。
「本格稼働するようになると、一年中雨が降るようになるそうですよ。環礁の島々が熱帯雨林で覆われるようになるでしょうね」
私って雨に縁があるのかなあ……と内心で苦笑するゴパルだ。




