仏塔にて
仏塔に到着すると、十名ほどの外国人や地元民の観光客が記念撮影をしていた。彼らから少し離れて、ランチボックスを開ける。
ゴパルがほっとした表情になった。
「良かった。まだ温かいな。風も珍しく弱いですね」
カルパナが穏やかに微笑む。
「それでは、最初にアンナプルナ女神さまに供物を捧げましょうか」
ランチボックスの中には菜種油を使う小さなランプが入っていて、それに火を点ける。弱いとはいえ風が吹いているので、こうしないとランプの火が消えてしまう。
カルパナがランチボックスを両手で持って、眼前に迫る巨大なアンナプルナ主峰の氷雪の壁に掲げた。ゴパルは手鈴を持ってチリンチリンと鳴らす係を担当している。
カルパナがサンスクリット語で女神賛歌を歌い、続いて供物を捧げる喜びを奏上した。カルパナの服装は地味な防寒服なのだが、十分に神聖さを感じるゴパルである。
女神への祭祀はすぐに終わった。菜種油のランプを消して、ランチボックスを地面に置く。
「豊穣の女神さまですから、喜んでくれたと思いますよ。チーズは清浄な食物ですしね」
ゴパルが頭をかいた。
「すいません、不浄な豚肉も混じってます。しかもカビまみれの発酵肉です」
クスクス笑うカルパナだ。
「では、味見してみましょうか」
前回は失敗してしまった青カビを使った発酵ソーセージだが、今回は少なくとも不味くはなかった様子だ。火腿の削りを小タマネギとニンニクとで炒めた料理も、及第点という感想を持つゴパルである。青カビチーズはまだ仕込んで間もないのだが、これも順調そうで安堵する。
「前回、ダナ君と試食した時よりもマシになっています。でも、食堂で出せるような品質ではないですね」
カルパナも素直に同意した。それでもニコニコしながら試食を楽しんでいるが。
「サビちゃんに試食してもらうのは、まだまだ先の話になりそうかな。ですが、火腿だけは売れると思いますよ」
ゴパルが小さなポットを手に取って、マグカップに注いだ。湯気が立っている。
「低温熟成させたリテパニ酪農産の紅茶です。口直しにどうぞ」
脱脂粉乳を使ったミルクティーだったのだが、一口飲んだカルパナがご機嫌な表情になった。
「あ。ジョムソンの紅茶に似ていますね。香りが複雑になって面白いな」
続いて、焼きジャガイモにバターやチーズ、トマト等の野菜のみじん切りを詰めたファストフードに手をつけた。手で持つと熱いので、スプーンでジャガイモと混ぜ合わせて食べる。
カルパナが驚いた表情になった。
「ひゃ。すっごく甘いですよ。チーズも甘い生チーズですね」
ゴパルも垂れ目を細めて、機嫌よく首を振っている。
「元々はトルコ料理のクンピルというそうですが、雪室で氷温保存したジャガイモを使っています」
ジャガイモを低温で貯蔵してある条件を満たした場合、デンプンが自己分解して糖に変化する。品種によって条件が異なるのだが、氷温辺りの温度で湿度調整をすると起きる現象だ。
「熱波の影響でテライ地域や北インドでのサトウキビ栽培が被害を受けています。高温耐性への品種改良が進められているんですが、並行して別の甘味料の生産も模索しているんですよ。このジャガイモもその一環だそうです」
そう言って、ゴパルが軽く肩をすくめた。
「古代酒も同様ですね。酒というよりはシロップと呼んだ方が良い代物です。カルパナさんに試飲してもらいたかったのですが、ほとんど飲まれてしまいまして……残りは首都に輸送してしまいました」
カルパナがクスクス笑った。
「甘いお酒ですか。それじゃあ、すぐに飲まれてしまいますね。次回来た時の楽しみにしておきます」
その代わりと言っては何ですが……とゴパルが別の小さなポットで注いだのは赤ワインだった。これも湯気が立っている。
「干しブドウで仕込んだ赤ワインです。まだ発酵の途中なんですが、これで我慢してください」
マグカップを他に持ってきていなかったので、ミルクティーを飲み終えてから注いでもらう。
試飲したカルパナが再び驚いた表情になった。
「あ。これも甘いですね。干しブドウの風味がして、少しカビ臭さがあるかな。でも気になりませんよ」
ゴパルも自身のマグカップに注いで飲んでいる。
「癖がある風味で、甘口の赤ワインですよね。好き嫌いが分かれると思います。ちなみに凍結ブドウでも仕込んだのですが、解凍に失敗したせいで不味いワインになってしまいました」
解凍に時間がかかり、雑菌が繁殖してしまったらしい。結果として糖が不足して、発酵も不調に終わったという話だった。
カルパナが干しブドウ赤ワインを一口飲んで、ほっと息をついた。寒いので息が白い。
「それも次回に期待ですね。私も西暦太陽暦の年明けからは、忙しくなりそうです」
サビーナが期待しているマッシュルーム栽培や、パン用小麦の収穫がある。ミカン復活事業は四年目になるので、今後は一般農家への普及を視野に入れる事になるそうだ。
「ですので、ゴパル先生。何か言いたい事がありましたら、今のうちですよ」
頭をかいて両目を閉じるゴパルである。
「はい。ここでプロポーズしても構いませんか? 他に良さそうな場所や場面を思いつかないんですよ」
ニッコリと微笑むカルパナだ。
「良いと思いますよ。アンナプルナ女神さまの御前ですし、供物もきちんと捧げましたしね」
そう答えているのだが、内心はドキドキの様子である。マグカップを持つ両手が、明らかに挙動不審な動きを見せている。ゴパルのマグカップも似たような挙動を示しているようだが。
仏塔は民宿ナングロからも見える。そのためラメシュとカルナも、チヤをすすりながらベンチに座ってゴパルとカルパナの二人を見上げていた。
カルナがジト目になりながらも、ピクリと反応する。
「あ。やっと告白したな。ゴパル山羊先生」
ラメシュもチヤをすすりながら同意した。
「そのようですね。ここまでお膳立てしてヘタレたら、さすがに私も怒りますよ」
アルビンも民宿の厨房から顔を出した。
「さて、それでは年明けパーティの準備を始めましょうかね。ついでに年増カップルの誕生祝いも兼ねますか」
間もなくして、ゴパルとカルパナが空になったランチボックスを持って民宿ナングロに戻ってきた。しかし、二人とも目が泳いでいる。
ラメシュが恐る恐る聞いてみた。嫌な予感が頭の中で膨らんでいくのを感じる。
「ど……どうしたんですか。ゴパルさんのプロポーズは済んだんでしょ? まさか、カルパナさんが断ったとか」
カルパナが慌てて否定した。まだ目が泳いでいるので、かなり挙動不審な動きになっているが。
「い、いえ。それについては了承しましたよ。つい先ほど電話がありまして、事件が起きてしまいました」
ゴパルがようやく目の焦点をラメシュに合わせて、彼の肩を叩いた。
「ごめん、ラメシュ君。とっても忙しくなりそうだ」




