遅ればせながら
ゴパルがリンゴを食べ終えた後で、ヤマが石を連れてやって来た。小皿に神戸牛のサイコロステーキが二つほど乗っていて、それをゴパルに手渡してくれた。
恐縮してバーコード頭をかいている。
「ゴパル先生、すいませんでした。わざわざ湖畔の火消しを手伝ってくださったそうですね。どうぞ、少ないですが召し上がってください」
小皿を受け取ったゴパルが明るく笑った。
「火消しは大事ですからね。私も作業後、フェワ湖の夜風に当たって寛いでいましたので、お気遣いなく」
そう言いながら、パクリとサイコロステーキを口にした。すぐに満足な表情に変わるゴパルだ。
「……神戸牛って、やっぱり美味しいですね。肉というよりは、フォワグラに似ているかな」
ほっとした表情になるヤマである。
「初回は悲惨な事になりましたからね。今回も楽しんでくれたようで安堵しました」
石もニコニコしている。料理で大忙しだったらしく、和風のコックコートのエプロンが汚れていた。
「サビーナさんも手伝ってくれましたので、厨房の機材を効率的に使えました。神戸牛の脂は溶けやすいので注意が必要なんですよ」
手の平に乗せただけで脂が溶け出てくるほど融点が低い。その分だけ脂くどくないので、食べやすい牛肉だ。ただし、脂の量が多いのは変わらないので、大量に食べる事はカロリーを考えるとお勧めできないが。
さらに今回の牛肉は三ヶ月間以上も熟成させているので、肉の自己分解もある程度進んでいる。そのため値段の方は、百グラム当たり一万四千円くらいという事だった。
あっという間に食べ終えて、値段に怯えるゴパルである。
「ひええ……とんでもない値段ですね。サビーナさんのレストランでメニューに出たら、警戒する事にします。さすがに破産しかねません」
サビーナがいつの間にかやって来ていて、石の背中越しに顔をのぞかせた。もちろんジト目になっている。
「ゴパル君の収入は把握済みだから安心しなさい。支払えない客に料理は出さないわよ」
シュンと背中を丸めるゴパルだ。
「ご厚意に感謝しますです」
とりあえず話題を変えようとロビー内を見回したゴパルが、小首をかしげた。
「……あれ? 水牛君が居ませんよ。もう帰ったのかな?」
石とヤマが苦笑しながら顔を見合わせて、ヤマがゴパルに教えてくれた。
「若い人達ですからね。食べ足りなかったので、居酒屋かどこかへ行ったのでしょう」
石も降参気味に両手を上げて笑っている。
「鶏のから揚げも用意したのですが、足りなかったようです。食べ尽されてしまいました、ははは」
サビーナも愉快そうに微笑んで、ゴパルの肩をバンバン叩いた。肩なので何とか咳き込まずに済んでいるゴパルだ。
「ゴパル君も飲みに行っていいわよ。ヤマっちと石さんが日本酒や焼酎を持ち込んでて、バーに置いてる」
ゴパルの垂れ目がキラリと輝いた。
「それは良いですね。ぜひ飲んでみましょう」
ヤマが申し訳なさそうに謝った。
「私も同行したいのですが……水道事業の関連企業の人達と一緒に、これからレイクサイドのバーへ行く予定なんですよ。ゴパルさんは無理ですよね?」
両目を閉じて頭をかくゴパルだ。
「……ですね。誰かに見られたら、またからかわれてしまいますし。私はルネサンスホテルのバーで日本酒と焼酎を楽しむ事にします」
サビーナがジト目のままで告げた。口元はかなり緩んでいるようだが。
「あまり飲み過ぎない事ね。明日は朝から掃除なんでしょ。さっさと寝てしまいなさい」
「ハワス、サビーナさん」
石もヤマと同じような表情でゴパルに謝った。
「私も、これから厨房でサビーナさんを手伝います。ツマミに鶏のから揚げを出しますので、それで許してください」
サビーナが石と連れ立って厨房へ戻っていくのを見送ったゴパルが、軽く腕組みをした。
「もうすっかり彼氏彼女になってますね。レカさんに続いてサビーナさんもかあ……」
ヤマと水道事業の関係者を見送った協会長が、ゴパルの肩をポンと叩いた。
「次はゴパル先生の順番かも知れませんね」
耳の先を赤くしたゴパルが、腕組みを続けたままでうなずいた。
「そうですね……給料も上がりましたし、良い機会ではありますね。考えてみます」
ホテルのバーで鶏のから揚げをツマミにしながら日本酒と焼酎を楽しんだゴパルが、カルパナへの告白セリフをあれこれ考えていたのだが……酔いが回ってしまったようである。
「から揚げ美味いー」
通りかかった協会長が、少し呆れながらゴパルの肩を叩いた。
「今日はお疲れさまでした。明日も早いのですから、そろそろ部屋へ戻ってはいかがですか?」
素直にうなずくゴパルである。
「ハイ、協会長。そうしますです。あ。その前に、この鶏のから揚げの作り方を石さんに聞いておきますです」
協会長がポケットから紙を一枚取り出して、ゴパルに手渡した。
「そうなるだろうと思いまして、作り方を聞いておきました」
ゴパルが嬉しそうな顔になって感謝した。
「うわあ。ありがとうございます。実家へ戻った時に作ってみますねっ」
しかし……その作り方には、みりんや焼酎、日本酒が使われていた。そのため、結局ゴパル母に反対されて、から揚げは作れなかったのであった。
酒飲み階級ではあるのだが、さすがに酒を使い過ぎると思われたのだろう。油で揚げるのでアルコールはかなり飛ぶのだが。
ちなみに作り方は以下のようなものだ。
鶏はもも肉の塊を用意して、食べやすい大きさに切っておく。これにニンニクとショウガのすりおろしを塗り、しょう油とみりん、日本酒を六四一の割合で混ぜた漬け液に浸す。
三十分ほど経過すると、もも肉から水分が染み出てくる。そのままでは漬け液が薄まるので、新たに足して濃度を維持する。
好みの漬け具合になったら漬け液から取り出して、衣をつける。この衣は、小麦粉と片栗粉を一対一で配合している。もも肉に衣をつけたら焼酎をスプレーする。
石の作り方ではソバ焼酎を使っていたが、ネパールでは入手が難しい。そのためゴパルは、ネワール族が仕込んでいる度数の高い米のロキシーか、国産のウォッカで代用するつもりだたようだが。
後は、百八十度の油でしっかりと火を通して揚げて完成だ。もも肉が大きい場合は、二度揚げするなりして工夫すると良いだろう。
さて、翌朝は二日酔いせずに、無事にフェワ湖の掃除に参加する事ができたゴパルであった。協会長と湖畔で話していたが、カルパナを見かけて手を振って挨拶する。
「おはようございます、カルパナさん。今朝も晴れて良い天気ですね」
カルパナが心配な表情で駆け寄ってきた。
「お、おはようございます。ゴパル先生はお腹を壊していない様子ですね。良かったー」
「へ?」
目を点にしてキョトンとしているゴパルを見て、カルパナが軽いジト目を協会長へ向けた。協会長も掃除に参加していたが、ふいっと視線をカルパナから逸らして足早に遠ざかっていく。
「もう、ラビン協会長さんってば。ゴパル先生に伝えていなかったんですね」
カルパナがゴパルに知らせた。
「昨日、集団食中毒が起きたんですよ」
「えっ」
思わず腹を押さえるゴパルである。しかし、特に異常は感じなかった様子だ。冷や汗をかきながらも否定的に首を振る。
「……別に痛くないですよ。違和感も感じません。ちょっと飲み過ぎって感じは残っていますが」
ほっとした表情になりながらも、少し呆れているカルパナである。
「ヤマさんと石さんが持ち込んだ日本のお酒ですね。飲むのは、ほどほどに留めた方が良いですよ」
ゴパルが頭をかいた。
「美味しかったので、つい……私が酔って寝ている間に、そんな事件が起きていたんですね。ですが、ホテルのロビーはいつも通りでしたよ。どこか他の店で起きたのでしょうか」
カルパナが深刻そうな表情に戻って、否定的に首を振った。
「店ではなくて、農業開発局の裏庭ですね。そこで援助隊員が豚の丸焼きをして酒宴を開いたそうなんです。その豚が悪かったみたいですね」
水牛君がヤマや石、農業開発局長に相談せず勝手に企画したらしい。精肉屋や屠殺屋も、豚一頭をそのまま売る事はしないので、違法な入手をしたのだろうという。
それだけでも十分にアウトなのだが、生焼け肉を食べたせいで、細菌性の下痢にかかってしまった。
「アバヤ先生の病院に入院しています。呆れて怒っていましたよ、アバヤ先生」
「……でしょうね」
幸い、深刻な病状ではないという事で、明日には退院できるというアバヤ医師の見立てだ。ゴパルが肩を落としながらコメントした。
「ヤマさんも、大変ですね」
素直に同意するカルパナだ。
「ですよね……」




