ニジマス養殖 その二
この養殖池だが、基本的には深さ1.5メートルで、水深は1.2メートルほどを維持している。水面から池の上端までは三十センチほど余裕があるのだが、それでも時々ニジマスが跳ねて池から飛び出てしまう。そのため、カーボン製の網を池の上に張っていた。
流水の池なので、子供や放牧山羊が誤って落ちないようにする目的もある様子だ。池の入水部と排水部には同じ網が差し込まれているので、ニジマスも池から流れ出ていかない。
養殖池は水の流れが淀まないように、細長い長方形の形になっている。そのため、ゴパルが用水路だと思うのも無理はない。ニジマスを収穫する際には、水を止めて水深を五十センチ程度にまで下げる。
排水された水は別の養殖池には使わずに、そのままモディ川へ流れ去っていく。ハルカの話では、一部の排水はコイやテラピア、ナマズの養殖池で使われるそうだが。
作業中や収穫する際には、ゴーグルとゴム手袋、マスクをつけ、それに防水性のツナギ服を着る決まりだそうだ。今回ゴパルはゴーグルとゴム手袋だけをして、使い捨てのマスクをつけている。
「ツナギ服って暑いんですよね……ガンドルンのような涼しい場所でないと大変です」
ハルカもゴーグルとゴム手袋をして、マスクを口にかけた。口調が砕けた感じになっている。
「本当はテライ地域の養殖場でも必要なんですがね。病原菌や寄生虫の被害がここよりも深刻ですし」
ニジマス養殖での最適水温は十三から十八度の間だ。二十度以上に上がると衰弱して死に始める。ちなみに産卵時と稚魚生産の段階では九度から十四度の間と、さらに冷たい水温が要求される。
ハルカが困ったような表情でゴパルに訴えた。
「稚魚はトリスリから買ってるんですがねチャイ、ここまで運ぶ間に二割も死んでしまうんですよ。何とかなりませんかね?」
トリスリは首都の北にある渓谷の町だ。ランタン連峰から流れるトリスリ川の水を利用しての水産業が盛んである。ゴパルの親戚が投資しているカブレの北にあるニジマス養殖場でも、ここの稚魚を買っている。
ゴパルが降参の仕草をして答えた。
「KLや光合成細菌では死亡率の改善は無理でしょうね、すいません。むしろ、ドローン輸送を工夫した方が死亡率を下げる事ができるかも」
ニジマスは年中産卵する訳ではない。西暦太陽暦の十二月から翌二月までの間に産卵する。そのため、稚魚の死亡率の改善は重要らしい。
卵から孵化して稚魚になっても、ハルカのような養殖農家へ出荷できる大きさになるまで育てないといけない。ハルカやゴパルの親戚が購入しているのは、孵化してから十週間ほど経過し三グラム台になった稚魚だ。
これを養殖農家で育てて、十四ヶ月間ほどかけて二百から三百グラムの出荷サイズにする。ハルカの話によると、これ以上大きく育てると餌代がかかりすぎて儲けが少なくなるようだ。
ハルカが難しい表情で呻いた。
「……そうなりますか。こう言っちゃ何ですがチャイ、強力隊やロバ隊で運ぶと稚魚の死亡率が跳ね上がるんですよ。ドローンに期待しておきますかナ」
ゴパルがスマホを取り出して地図表示してみた。
「トリスリからガンドルンまでは、現状ではドローン輸送で直行便を行き来させるのは無理かな」
地図に指で線を引いて、その飛行ルートで演算を試みる。演算結果を見て、ゴパルの表情が和らいだ。
「でもまあ、途中で燃料補給や充電をすれば何とかなる距離ですね。峠越えもポカラ盆地の入り口とナウダンダだけですし。ポカラ工業大学のスルヤ教授に聞いておきますよ」
トリスリからガンドルンまでドローンで飛ぶと、直行便の場合では五時間ほどかかる見積もりだった。輸送中に水が酸欠になるので、小型の酸素ボンベを付けておく必要がある。
ニジマスの場合では、水中の溶存酸素濃度を七PPM以上に維持しないといけないため、空気ボンベでは足りない。
ゴパルが早速スルヤ教授にメールしてから、軽く考え込んだ。
(確かツクチェでもニジマス養殖をしているって話だったな。養殖はやはり大変だなあ。水産用のKLを開発すべきかも知れないな)
今のKL構成菌はほぼ全てが土壌や作物、食物から採取したモノばかりだ。
せっかくなので、養殖池の構造についてもう少し詳しくハルカに聞いてみるゴパルだ。スルヤ教授やディーパク助手を相手にするには、こういった構造情報を知らせた方が都合よい。
ハルカもうろ覚えだったようで、自身のスマホを取り出して設計図を探し出した。
「……ええと。ああ、これだ」
養殖池の傾斜は一から三%の間にしているという話だった。これによって、ニジマスの糞や餌の食べ残し等を迅速に洗い流している。ニジマスの収穫量一トン当たり、少なくとも五百立米の新鮮な流水を毎日流す設計だ。
ハルカがニッコリと笑った。
「五百立米の水だナ。KLや光合成細菌の量は一万分の一なんでチャイ、それぞれ五十リットルだナ」
ゴパルが素直にうなずく。
「そうなりますね。光合成細菌は週に一回の割合で良いと思います。KL培養液だけを毎日五十リットル流すという形になりますね」
納豆菌は蒸した大豆を使っているので、餌に直接混ぜる事になる。
実際には、この養殖場でのニジマス収穫量は一トンもない。稚魚の運び入れ問題があるためだ。強力隊やロバ隊に頼るので、どうしても少なくなる。不足分はナマズやコイ、テラピア等で補っているという事だった。
稚魚は当初三グラム台なので、専用の餌を二時間おきに与えると話すハルカだ。稚魚が五グラムに育ったら、普通の餌に切り替えるらしい。
「餌の量が少ないとチャイ、すぐに共食いを始めるんですよ。ですんで、慎重に観察しないといけませんナ」
養殖池には最終的に、二十尾が一立米の池に残るように分けると言う。納得するゴパルだ。
「なるほど。それで池の数が多いんですね。共食い防止のためですか」
ハルカがレストランの方を見た。客の人数が増えてきていて、今はテーブルの半数に達している印象だ。
「そろそろ年末ですからナ。今が客のピークなんですよ。これ以降は減っていくナ」
わざわざネパールで年越しをする外国人観光客は少ない。
ニジマスは育っていくので、今後は首都やポカラへ出荷する量が増えるという話だった。キロ当たり350円ほどで売っているようだ。首都向けでは鮮魚のままだと痛んでしまうので、燻製にして加工するという。
「燻製にした方が三割くらい高く売れるんですよ。サビーナさんが冷燻の方法を教えてくれたのでチャイ、大助かりだナ」
煙の温度が三十度を超えるとニジマスの身が熱で劣化してしまう。そのため、それ以下の温度でじっくりと時間をかけて燻製にしている。涼しいガンドルンだからこそできる燻製方法だ。
ゴパルが養殖池を見渡して、垂れ目を細めた。
「ニジマス養殖って儲かると、私の親戚も言っています。KLや光合成細菌、納豆菌が役立つ事を祈っていますね」
ハルカが申し訳なさそうに頭をかいた。
「そうでもないナ。ここでは稚魚の死亡率がシャレにならん。トリスリに近い首都圏なら儲かると思うけどナ」
この養殖場の総面積は1500平米なのだが、純利益は年間五十万円くらいらしい。トラウトレストランの儲けの方がはるかに大きい状況だ。
ドローンが谷底から飛んできて、ガンドルンの町へ降下していった。町医者が薬を注文したのだろう、と話すハルカだ。
「稚魚を運ぶためには、もっと大きなドローンが必要になりそうだナ」
素直に同意するゴパルだ。
「そうなりますね。スルヤ教授は『空飛ぶ車』を最終的に飛ばしたいそうですから、そういう大型のドローンになりそうですよ」




