ニジマス養殖 その一
ラメシュとカルナが山小屋デートに出かけている間、ゴパルはガンドルンへ来ていた。まず最初に町内の外れにある国立公園の管理事務所に顔を出して、所長に挨拶をする。
「ご無沙汰しております。微生物学研究室のゴパルです。相変わらず忙しそうですね」
バフン階級の所長がフンとため息をつき、ジト目になって軽く首を振った。大きな事務机の上には、大小さまざまな小包が置かれている。
「まあな。それもこれも通信環境が良くなって、ドローンが飛び始めたせいだがね」
そう言って、部下に中国からの視察団とインド商人の訪問予定時刻を知らせた。さらに別の部下に次のドローンの到着予定時刻を知らせる。
知らせを受けた部下達が数名程、バタバタとせわしなく事務所長室から出ていくのを見送るゴパルだ。
「下のバスパークからガンドルンまでの車道もつくり始めておるしな。君達の活躍のせいで、私の仕事が大幅に増えてしまったよ」
そう言う割には、口元と目元が緩んでいるようだが。
ゴパルがあいまいな笑みを浮かべながら、何となく首を振って相づちを打った。このタイプの性格の人は大学にも大勢居るので慣れている様子である。
「どうか体調には気をつけてください。私なんか何度も風邪をひいてしまいまして、迷惑をかけっぱなしなんですよ。今回は、ガンドルン町内のニジマス養殖農家を見ていきます。ありがたい事にKLを使ってくれたそうでして、私に色々と聞きたいそうなんですよ」
所長が鷹揚にうなずいた。
「ああ、あの店かね。私も接待で使うが、蒸し焼きにブールブランソースを添えた料理が人気だな。サビーナさんに礼を言っておいてくれたまえ」
了解したゴパルが合掌して挨拶をし、そそくさと管理事務所を後にした。
事務所の前庭には、ドローン到着を待つ担当者がチヤをすすりながらベンチに座っている。管理事務所は小さな尾根の上に建っているので、三方向は急峻な斜面になっている。
下を見下ろすと落差数百メートルほどあり、耕作放棄された段々畑が斜面に刻まれていた。谷底にはアンナプルナ内院の氷河を源流にしているモディ川が流れているのだが、角度の関係でゴパルの立つ場所からは川面が見えない。ただ、岩を噛む流れの轟音は、弱い上昇気流に乗って聞こえてくるが。
そのモディ川の対岸は森に覆われた急峻な斜面になっていて、下流にはランドルンの集落が見える。
(そう言えば、最近は盗賊団の話を聞かないなあ。彼らも年末休暇に入ったのかな)
そんな事をつらつら考えていると、ドローンが小包を抱えて谷底から飛び上がってきた。完全に自動飛行しているようで、呆気なく管理事務所の前庭に着陸する。
四つあるプロペラローターが完全に停止する。それを待って、チヤが残っているグラスをベンチの下に置いた担当者が立ち上がった。そのままドローンから小包を外し、スマホを使って受領確認したと知らせる。
そのまま事務所内へ小包を運び入れていった。プロペラローターが回転し始めて、フワリとドローンが空中に浮きあがった。そのまま身軽な動きでナヤプルへ向かって帰っていく。
その一部始終を眺めていたゴパルが、軽く背伸びをして、リュックサックを肩に引っ掛けた。
(すっかり慣れた感じだね。さて、ニジマス養殖を見に行くか。専門外だから、私が教える事は少ないと思うけど)
ガンドルン町内のニジマス養殖場は食堂も併設している。食堂はグルン族の農家を改造して造っていて、ゴパルの目から見ても異国情緒を覚える。ちょうど朝食とランチタイムの間だったようで、客は少なかった。
「こんにちは。ゴパルです」
厨房からニジマスの炭火串焼きを何本か皿に乗せて出てきた地元の娘さんが、ゴパルを見つけてニッコリと笑いかけた。丸顔なのだが、笑うとさらに丸くなる。
「あー。野菜クズの先生だ。いらっしゃいませー」
ゴパルが両目を閉じて頭をかいた。
「はい。野菜クズのゴパルです。ニジマスの養殖が上手くいっていると聞きましたよ」
娘さんがケラケラと明るく笑った。
「野菜クズは新鮮なヤツを用意しておくわねっ。おとーさーん、野菜クズの先生が来たよー」
すぐに四十代前半くらいの歳のがっしりした男が、厨房から顔を出した。ゲジゲジ眉を上下させて、ゴパルに手を振る。
「こりゃどうも。ちょいと待っててくださいナ」
食堂には英語で書かれた看板があり、そこにはトラウトレストランと書かれてある。そこの店主のゲジゲジ眉オヤジがゴパルに合掌して挨拶してきた。厨房内は他の料理人に任せたようだ。
「ゴパル先生、久しぶりですね」
ゴパルも合掌して挨拶を返した。
「ハルカさん……でしたよね。ご無沙汰しています。ニジマス養殖でKLを使ってくれたそうですね。ありがとうございます」
そう言ってから、店内を見回した。また二人ほどネパール人客が入ってきている。次第に忙しくなってきているようだ。
「ランチの時間がそろそろ始まりますよね。その前に見せてもらって構いませんか?」
ハルカがニッカリと笑った。
「どうぞ、じっくりと見ていってくださいナ」
ニジマスの養殖池は、耕作放棄された段々畑を掘ったものだった。コンクリートで固めた池で、きれいな水が勢いよく流れている。ため池のような池ではなく、大きな用水路といったような印象だ。
ハルカが一人でゴパルを案内しているのだが、水泳用のゴーグルをゴパルに手渡した。さらにゴム手袋も用意している。
「水中に寄生虫やらバイ菌が居るんですよ。目から侵入される場合があるので、ゴーグルをつけてくださいナ」
素直に了解するゴパルである。早速ゴーグルを装着して、両手にゴム手袋をはめた。
「町の中ですからねえ……こういうのは必要ですよね」
最初にKL培養液を仕込んでいる一トンタンクを見て、ペーハー値を確認する。さらにタンクの内壁を手でこすって汚れがあるかどうか調べた。
手に汚れが付いていなかったので、満足そうにうなずくゴパルだ。
「良い管理状況ですね。さすがです。培養液の活性期間は、ペーハー値が3.5以下になってから一か月以内が最盛期です。その間に使い切って、新たに培養してくださいね」
実は3.7までは許容範囲内なのだが、測定器の誤差問題があるのでこう言っている。
続いて光合成細菌を培養している箱を開けた。緑色のLED電球がズラリと取り付けられていたのでスイッチを消す。ポリタンク内で培養している光合成細菌の色と臭いを確認し、水温も手でタンクの外側を触れて調べる。
「こちらも良い状態ですね。KL培養液はペーハー値が3.5以下に下がるまでは水温三十度、光合成細菌も赤くなるまでは同じくらいの液温を維持してください。発酵が完了したら温めなくても構いませんが、凍らせないようにしてくださいね」
了解するハルカである。
「もう何度か霜が降りてるからナ。用心するよ」
KLと光合成細菌の使い方は、餌に散布するというものだった。ゴパルが素直に同意する。
「それで良いと思います。KLで餌を発酵させてしまうと、餌の糖が分解されてカロリーが下がってしまいますからね。冷たい水で育てる魚ですし、カロリーは高めに維持した方が良いでしょう」
そう言ってから、勢いよく流れている養殖池を見て軽く肩をすくめた。
「こんなに水が流れていますしね。一応の目安としては、水量の五千から一万分の一の量を維持するように加えるのですが……」
ハルカが軽く腕組みをして考え込んだ。
「ふむむ……正確じゃないけどチャイ、流量を測る道具とアプリはあるナ。そいつで測ってみるか」
ゴパルも少し考えて、もう一つ提案した。
「KLや光合成細菌とは相性が悪いのですが、納豆菌も培養してみますか? 餌に混ぜるのですが、水質浄化に役立つと思いますよ」
そう言って、ハルカに納豆菌の培養方法を教えた。聞いてから肯定的に首を振るハルカだ。
「簡単そうだナ。それじゃあKLと光合成細菌をチャイ、点滴して池の水に混ぜるとするかナ。納豆菌も餌に混ぜて使ってみるよ」
実際には水量が多いので、ホースを使って少量を注ぎ続ける形になるが。




