青カビ採集
ゴパルが低温蔵に戻って仕事をしていると、スマホに電話がかかってきた。作業を中断して軽く背伸びをし、ポケットからスマホを取り出して電話に出る。ラメシュからだった。
「やあ、ラメシュ君。そろそろABCへ到着する頃かい? 仕事が山のようになって待ってるよ」
ダナがゴパルの隣で菌のサンプルを保管するための準備をしながら同意した。これは今日の朝に、ナヤプルからドローン輸送で届いたものだ。
「早く来てくれラメシュ。博士課程の研究に支障が出てしまうよ」
電話の向こう側のラメシュにもダナの訴えが聞こえたようである。申し訳ないような口調になった。
「ごめんよ、ダナ。仕事の山にさらに山を一つ追加する事になった。セヌワの青カビをこれから採集して持っていくから、受け入れ準備を頼むよ。あ。ゴパルさんにもついでに頼みます」
ゴパルは『ついで』らしい。天井を仰いで何事か呻いているダナに代わって、ゴパルが答えた。
「了解。今回は低温蔵で実験する事になったから、菌が腐る心配はないはずだよ」
前回は首都の微生物学研究室まで運んだのだが、停電が発生してしまいダメになってしまった。その反省で今回があるのだが、ゴパルの負担が大きくなるのは避けられない。それでも明るい声のゴパルだ。
「青カビチーズがちょっと不評だからね。この新しい菌に期待してるよ」
ホテルセヌワの食堂から電話をかけていたラメシュが電話を終えて、スマホをポケットに突っ込んだ。
食堂のテーブルの上には、既にタッパ容器の中に一斤の青カビまみれの食パンが入っていた。近くの森の中にある小屋から回収したばかりのモノだ。
ラメシュが隣に居るカルナとニッキに礼を述べた。
「青カビチーズは苦手な人が多いんですよね。忙しい中、手伝ってくださって、ありがとうございました。良い毛玉状態ですよ」
カルナとニッキは微妙な表情だ。
「前回の時も思ったけど……本当に、そんなカビだらけのパンをチャイ、チーズづくりに使うんですかい? 多分、それを今食ったら病院送りですぜ」
ニッキに激しく同意するカルナだ。
「確か、二ヶ月間もカビを生やしっぱなしだったのよね。捨てるのかと思ってたけど、本当に回収してチーズづくりで使うんだ。ひええ……」
ラメシュがタッパ容器をリュックサックに入れた。容器のフタを閉じているせいか、扱いがかなり雑である。
「目的の青カビ以外は除去していますよ。黒カビには有毒な種類がありますし」
確かにそういう危険な黒カビもある。風呂場や台所の掃除をする際には、吸い込まないように用心した方が良いだろう。
ニッキとカルナがドン引きしたままなので、ラメシュが話題を変える事にしたようだ。
「ブトワルから無事に戻ってこれて良かったですね、カルナさん。今朝のニュースでは、霧に閉ざされて交通がマヒしていると聞きました。場合によっては、私がブトワルまでバイクで迎えに行こうかと考えていたんですよ」
カルナが耳の先を赤くしながら、少し残念そうな表情になった。
「えええ……そうだったの。だったらブトワルで待ってた方が良かったか」
ニッキがニヤニヤ笑い始めた。
「バイクだったらブトワルからポカラまで二、三日ってところかナ。惜しかったなカルナ。三日間の二人きりデートができなくて」
無言でニッキの肩を叩き始めるカルナである。への字口の角度が急こう配になっている。
ラメシュもニッキに指摘されて、ようやくどういう事になりかけたか理解したようだ。メガネを外してレンズを無意味にゴシゴシ拭き始めた。
ちなみに冬季の濃霧は、ブトワルではそれほど強烈ではない。山に近いせいだ。
一方、河川沿いや湿地帯が近くにある街では日中でも日が差さなくなる。最低気温も七度に下がるため厚着する人が増える。
何より困るのは、視界が二キロ以下にまで悪化する事だろう。おかげで飛行場は閉鎖されて、バスは間引き運転になる。
ラメシュがカルナの肩を抱き寄せた。
「では行ってきます、カルナさん。低温蔵へいつでも遊びにきてくださいね」
「ひゃ、ひゃい」
目をグルグル回して顔を赤くしているカルナである。ニッキはニッキで、スマホで写真を撮ってニヤニヤしている。
ラメシュがカルナとニッキに手を振ってABC方面への登山道を上っていった。ぽー……とした表情で見送るカルナの背中を、肘で小突くニッキだ。
「セヌワの宿の仕事は俺に任せておけ。いつでも彼氏のラメシュに会いにいって構わんぞ」
グルン語でニヤニヤしながら言うニッキの腹を、肘で小突き返すカルナである。
「うるさいなーもー。でも、ありがとね」




