ブロッコリー、小麦、タマネギ
ナウダンダから段々畑を巡りながらパメへ向けて下りていくゴパルとスバシュだ。ゴパルは手ぶらなのでかなり気楽な表情をしている。
段々畑を見回しながら、スバシュに話しかけた。
「肥料問題が解決したのって大きいんですね。耕作放棄された段々畑が、前回よりも少なくなっている気がします」
スバシュが軽やかな足取りで畦道を下りながら、ゴパルに振り返った。
「目の前にポカラという大きな街がありますからね。肥料問題さえ解決できれば、海外へ出稼ぎに行くよりも農業をした方が儲かります。ホテル協会との栽培契約ですから、仲買人に安く買い叩かれる事もありませんしね」
ゴパルが素直にうなずいた。
「なるほど。汎用小麦ではない小麦の栽培も拡大しそうですよね。石窯の普及も進んでいると聞いています。耕作放棄地に生えている雑木も薪として売れますね」
まず最初に向かったのはブロッコリー畑だった。既に収穫が始まっていて、多くの緑色の球が刈り取られていた。スバシュが近くのブロッコリーの緑球をポンポン叩く。
「球をつかんだ時に、爪の先が半分くらい入るようになれば収穫します」
ネパール人にとってブロッコリーはそれほど人気ではない。圧倒的にカリフラワーの需要が高い。そのため、このブロッコリーは主に欧米からの観光客向けに栽培しているものだ。
収穫後に土ボカシを三百グラムほどを与えていると話してくれた。そうすると脇芽が生長して小さな球になるので、それを収穫するらしい。
ゴパルがブロッコリーの株の根元周りに敷かれている土ボカシを撮影した。
「うん。根への悪影響は出ていませんね」
続いて小麦畑の予定地へ向かった。ちょうど耕して肥料を土にすき込んだばかりのようだ。
スバシュがゴパルのスマホに向かって説明を始めた。
「ここでは、パン用の小麦を試験栽培する予定です。麺用の小麦が上手くいったので期待しています」
小麦はペーハー値が6.8以下の酸性の土壌では育ちにくいので、最初に水牛骨粉を千平米あたり二百キロほど散布する。さらに刈り草や落ち葉を二トン以上撒く。そうしてから深さ五センチ以下で耕して土と混和させている。
「これだけでは肥料不足なので、生ゴミボカシをペレット肥料に加工したものを混ぜています。清掃会社の販路拡大のためですね」
生ゴミボカシを粉砕して、大きめの粒状に固めたものがペレット肥料だ。
小麦は需要が大きいために、栽培面積が拡大すると予想されている。小麦自体が肥料を多く必要とする作物なので、この機会に関わっておきたいと清掃会社からの申し出があったらしい。
「小麦の育ち具合を見ながら、ペレット肥料の使い方を検討する予定ですよ」
スバシュの話を熱心に聞いていたゴパルが感心した。
「皆さん活発に動いているんですねえ。小麦栽培は育種学研究室の担当分野ですので、私はゴビンダ教授やラビ助手の手伝いという形で関わる事になるのかな」
内心では仕事が増えそうな予感にビビッているようだが。
小麦の種蒔きはまだ先なので、今回は畑の準備風景だけを撮影したゴパルである。
「……よし、こんなものかな。今回の下山の目的を果たす事ができて安堵しました。パン用小麦って、ローティにも使えそうですしね。クシュ教授も期待しているみたいなんですよ」
ネパールではローティはオヤツとして食べる位置づけだ。
その後はタマネギ畑に移動したゴパルとスバシュである。ちょうど苗を畑に植えたばかりで、フェワ湖からの上昇気流に葉先を揺らしていた。
スバシュの説明によると、これから毎週一回の割合でKLと光合成細菌を散布するという事だった。散布量は千平米あたり一トン。KLは培養液を水で百倍に薄めたものを使い、これに同じ希釈倍率の糖蜜を加える。さらに光合成細菌を十リットルと溶いた生卵を十個の割合で混ぜている。
メモを取っているゴパルに、スバシュが補足説明を加えた。
「土ボカシと生ゴミ液肥は、タマネギの育ち具合を見ながら使う予定です。追肥重視の栽培方法になりますね」
そう言ってからニッコリと笑う。
「KLを使い始めてから、肥料をたくさん使えるようになりました。土ボカシもありますし。液肥もあるので、追肥にも困りません。便利になりましたよ。ゴパル先生には感謝しています」
苦笑しているゴパルだ。
「それらを実用化したのはスバシュさん達ですよ。私はKLを紹介しただけです」
なお、この散水だが、段々畑の中には土が浅い場所もある。そういった場所では過剰散水になってしまうので、暗渠を設けているらしい。
畑によって異なるのだが、一般的には二メートル間隔で深さ三十センチの溝を掘る。掘る方向は等高線沿いではなく、それに直角になるようにする。溝にKLでアルカリを中和した木炭を詰め込んで埋め戻し、完成だ。
タマネギ畑の撮影も終えて満足しているゴパルに、スバシュが質問してきた。
「ゴパル先生。今回のパン用の小麦も在来種じゃなくて、品種改良されたモノなんですよね。赤カビ病とかいもち病って、小麦には致命的だと聞いているんですが……いったいどうやって対処しているんですか?」
これらの病気に対抗する遺伝子は、小麦にはない。そのため感染発病すると枯れるしかない。
ゴパルがスマホをポケットに突っ込んでから、少し考えて答えた。
「病気に対抗する遺伝子を雑草から見つけたり、新たに遺伝子を設計して、それを小麦の遺伝子に組み込んでいるんですよ。様々な方法があるのですが、最近よく使われているのは大気圧低温プラズマを使ったモノかな」
大気圧低温プラズマというのは、温度が室温から百度までの間で、手で触れてもケガをしないプラズマの事を指す。一般に二酸化炭素や窒素ガスをプラズマ化していて、白色光だ。
このプラズマを植物の葉や根に照射してから、タンパク質を含む溶液の中に入れて浸すと、そのタンパク質が植物の細胞内へ染み込むようになる。この現象を用いて、ゲノム編集や遺伝子組み換えを行うというものだ。
目を点にして聞いているスバシュである。
「魔法みたいですね」
ゴパルが素直に同意する。
「ですよね。隠者様には教えないでもらえると助かります。魔術使い認定されてしまうと困りますし」
スバシュが了解した。口元が少し緩んでいるように見えるが。
「はい、分かりました。これ以上、ゴパル先生の呼び名が増えるのは避けたいですね」
既に山羊やら牛糞、クズ野菜といった呼び名をもらっているゴパルが、頭をかいて両目を閉じた。
「神様の化身のような名前でしたら大歓迎なんですけれどね……」
ヒンズー教の神は、多数の化身を有するのが基本だ。例えばビンダバシニ寺院の主神であるドゥルガ女神の化身の一つが、バドラカーリーである。
神様の話で、スバシュが何か思い出したようだ。ゴパルに知らせた。
「そうだ、忘れていました。ゴパル先生はこの後、パメの家に行ってバジル結婚祭に参加するんですよね。私はキノコ種菌工場の仕事があるので不参加なんです、すいません」
バジル結婚祭は、神話上の女性が神様と結婚したのを祝う祭祀だ。バッタライ家の誰かが結婚した訳ではない。
ゴパルが気楽な表情で首を振った。これは否定的な意味合いではない。
「エリンギ栽培が本格化しそうですから仕方ありませんよね。私もどうせ置物のように、隅の方で座っているだけでしょう」
その風景を思い浮かべたのか、スバシュが吹きだした。慌てて弁解する。
「すいません。ゴパル先生は酒飲み階級ですから、祭祀を見るだけになりますよね」
ポカラでは祭祀を行う事ができるのはバフン階級だけだ。チェトリ階級や酒飲み階級は祭祀を見るだけである。実際、チェトリ階級のタパ家からも参加者が来るそうで、彼らも見るだけになる。
ゴパルが素直につぶやいた。
「司祭をするのはナビンさんですよね。大変だなと思います。ヘビーメタルのバンドでストレス発散するというのも理解できますよ。私は耳がキーンとするので、ちょっと付きあえませんが……」
スバシュが愉快そうに笑った。彼もバンドメンバーだ。
「耳栓をして演奏会へ行くと楽ですよ。ですが、不思議なものですよね。以前は酒飲み階級を良く思っていなかったのですが、ゴパル先生の頑張りを見ると変わりました。グルン族の酔っ払いは論外なままですけどね」
照れているゴパルである。
「私は低温蔵とポカラとを往復しているだけですよ。ですが、バンドメンバーに酒飲み階級のラジェシュさんが居るじゃないですか」
スバシュが肩をすくめて笑った。
「アレは子供の頃からの腐れ縁ってヤツですよ。今でもヤツが酔っぱらってバンドの練習ができなくなった時は、容赦なく蹴り飛ばしています」
(……あ。レカさんの蹴り癖の由来って、もしかすると)
あえて口にはしないゴパルであった。とりあえず話題を変える。
「祭祀の後で、ルネサンスホテルへ行って試食の役をする予定です。スバシュさんも試食に参加してみますか? カルパナさんは参加するという返事でした」
スバシュが少し考えてから残念そうな口調で断った。なぜか口元が緩んでいるが。
「種苗店の方の仕事も忙しいんですよ。ビシュヌ番頭の手伝いをしないといけません。観光シーズンのピークが過ぎるまで、ちょっと無理ですね。誘ってくれたのにすいません」




