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第九話

 久しぶりにノルゼスト領へ訪れたというのに、実家に寄る間もなく、すぐに王都へ戻ってきた。カルロスの裁判は、国家の財政と近隣国との交易に関わる重大事件として優先的に進められ、北の関所で嫌疑をかけられてから、ひと月ほどで判決が下された。

 爵位を持つグラナート家の次男とはいえ、ノルゼスタイトの密輸および脱税、さらには通行証の偽造まで行なっていたため、情状酌量の余地はなく、押収された原石と通関書類の不整合に加え、旧採掘道で作業していた者たちの証言、ノルゼスト男爵家の証言、さらには偽造された通行証も発見されたことで、カルロスの罪は明らかになった。グラナート商会には国商としての資格を剥奪、巨額の追徴金、さらには被害を受けたノルゼスト男爵家への賠償金支払いが言い渡され、近隣国との取引は、別の商会が引き継ぐことになった。

 そして、カルロス本人には爵位を剥奪の上、王家直轄である最果ての炭鉱で無期限の強制労働という、重い判決が下されたという。


「……これで、終わり、なんだよね……」


 国境管理室の執務机で、提出された裁判の報告書を閉じながら、私は静かに息を吐いた。

 領地の鉱脈を守り、カルロスからの理不尽な要求もなくなった。文官としても領主の娘としても一安心。


 ――だけど何でこんなに気分が晴れないんだろう。


 手の中の、小さな宝飾箱を開けると、室内の光を集めたように、七色に輝く大地の涙が静かに横たわっている。

 カルロスの件も、公爵令嬢の婿選びも終わった。

 もう、この偽装婚約を続ける理由はない。

 こうなる前よりも確実に距離は近づいて、気がつけばキースが隣にいることが当たり前になっていた。

 けれど、それももう終わり。

 いずれ無くなるものだとわかっていたはずなのに、胸がじくじくと痛みを訴えている。

 それに気づかないふりをして、私は仕事終わりにキースの家を訪れた。

 相変わらずスッキリと物の少ない応接室を通されて、ソワソワしながら中に入る。

 キースはといえば、仕事終わりだからか、仏頂面のように見えて、少しだけ機嫌が良さそうに見えた。


「お疲れ様、キース。……あのね、今日はこれを返しに来たの」


 私は手に持っていた宝飾箱を、彼に向かって差し出した。

 キースの足がピタリと止まる。


「大地の涙……大切なものでしょう? 着けたのは二回だけで、傷は付いてないと思うけど……。それと……この小指の指輪も」

「……どういう意味ですか」


 先ほどまでの機嫌の良さなど綺麗に消え失せて、キースは目を細めて私を見下ろした。


「どういうも何も、もう婚約者でいる理由はなくなったでしょう? メルバンス家の婿選びも終わったし、カルロスも居なくなった。いつまでも私が婚約者の振りをしていたら、キースの邪魔をしてしまうから……」


 努めて明るく、事務的な口調を心がけた。

 だけど、キースは受け取ろうとはせず、氷のように静かな圧迫感を纏いながら、ゆっくりと私との距離を詰めてきた。


「邪魔……? 貴方が、私の何を邪魔するというのですか」

「だって、お互いの目的のために婚約を偽装しようって話だったでしょ? 私みたいなのがいつまでも貴方と噂になっていたら――」

「……誰が『偽装』だと言いましたか」


 低い声が、静かな部屋に重く響く。

 いつもなら、私が戸惑わないようにと一歩引いてくれるキースが、今日は違った。

 ゆっくりと距離を詰めてくる彼から、私は目を離せない。

 見上げた先にあったのは、いつもの冷静な表情ではなかった。焦燥と、抑えきれない情熱を宿した瞳が、まっすぐに私を捉えていた。

 逃げ場を塞ぐように迫る彼の威圧感に、思わず息を呑む。

 いつも完璧に感情を押し殺している氷のような瞳の奥で、炎のような熱が揺らめいていて、いつもの冷静沈着なキースではなかった。


「一度たりとも、私はこれを嘘の婚約だと言った覚えはありません」

「え……? でも、公爵家との婚約を避けるために調査書に……」

「婚約者及び婚約予定者の欄に、貴方の名前を書いて提出してもいいかと聞きました」


 確かに最初はそう聞かれた気がする。その後、私も恋人役をお願いして、口裏合わせをして……そういえば、何度か“婚約者”と言うキースを訂正したような……。

 あれ!? もしかして、本当に偽装なんて言ってない!?


「だって、それまで恋人とか、婚約するとか、そんな感じじゃなかったし! あの状況を切り抜けるための嘘だと……」

「……貴方がそう思っているだろうことはわかっていました。……ただ、どこかで、これを機に絆されてくれないかと期待していたんです」

「それって……」

「こうでもしなければ、真面目な貴方は『身分が違う』『迷惑がかかる』と言って、私を遠ざけると思ったので」

「それは……だって、その通りだし……」


 私なんかを選ばなくても、いくらでも結婚相手はいるはず。出自のいい爵位持ちの騎士は引く手数多だ。


「貴方に提案されてこの指輪をつけた時、貴方のことを思って、『故郷に婚約者がいる』と、そう答えるようにしていました」


 キースの手がそっと伸び、私の左手小指の指輪を包み込んだ。


「貴方以外の女性を寄せ付けない指輪として、随分役に立ってくれました。そして、この指輪のペアを貴方に渡すことができた時は、少し舞い上がっていました」

「舞い上がる? キースが……?」

「えぇ。ようやく貴方に手が届くのだと……」


 そう言って、ゆっくりと私の頬に触れる。剣を持っているからなのか、その指先は少し硬い感触だった。


「数年前、夜遅くに帰宅している途中で、貴方が襲われてた時、デスクワーク続きで体は思うように動かず、どうにか貴方を助けた後も、警備兵が送り届けるからと震える貴方の側にいることもできなかった……」

「でも、キースのおかげで私は助かって……」

「……しかし、私には力が足りないと、その時に思い知った。だから、騎士団へ入ることを決めたのです」

「……待って、私のせいだったの……?」


 喉の奥が縮こまり、声がかすれた。

 財務室から突然騎士団へ転身し、きっと血の滲むような努力をして隊長にまでなった。

 その大きな決断の裏に、まさかあの夜のことがあったなんて……。


「貴方のせい、というと聞こえは悪いですが……貴方を守りたいと思ったのです、アスティ」


 懇願するように細められた目と視線が絡む。いつも冷静で、面倒だと思うことはあっても、動じずに卒なくこなしていると思っていたキースが、不安そうな顔をしている。


「貴方を、愛しています。この婚約を、正式なものにしたい」


 いつもの落ち着いた声ではなく、少し震えている。

 騎士団の隊長にまでなったキースの、こんな弱々しい声を聞いたのは初めてだった。 

 ずっと身分違いだと、迷惑をかけてはいけないと、自分に言い聞かせて閉じ込めていた感情の蓋が、ガラガラと崩れ落ちていく。

 涙で視界がじんわりと滲み、目の前のキースの姿が揺れた。

 ぽろりと頬を伝った一滴の雫を、彼の手袋越しではない親指が、愛おしそうにそっと拭う。


「……どうして……どうして、私なの……?」


 キースなら、もっと相応しい相手を選べるはずだ。身分も、家柄も、私より優れた女性はいくらでもいる。

 それなのに、彼は困ったように目を細めた。


「それを、今更聞きますか」

「だって……私には、何もない……家だって裕福じゃないし、貴方に釣り合うような身分でもない……なのに、私は……」


 言いかけて、口を閉じる。

 この先を口にしたら、今まで必死に押し込めてきた気持ちまで、すべて知られてしまいそうだった。


「私がいつ、身分や財産で貴方を選ぶと言いましたか」


 キースの指が、私の頬をそっとなぞった。


「私は、貴方がいい。ほかの誰でもなく、貴方が。……それでは、いけませんか」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

 ずっと、彼の隣にいるのは偽りの婚約者である間だけだと思っていた。

 大地の涙を返せば、指輪を外せば、私たちは元の関係に戻るのだと。

 けれど、本当は——このままキースの隣に居たかった。

 キースの婚約者という立場を手放したくないと思ってしまった。

 仕事が終われば顔を見たいと思った。何気ない会話を交わす時間が、いつの間にか楽しみになっていた。いつかは来る別れに、胸が苦しかった。


「……返したく、なかった……大地の涙も、指輪も……本当は、返したくない……貴方の隣を、離れたくないって……思って……」


 じわりと視界が滲む。溢れそうな涙がまつ毛を濡らす。震える声で辿々しく話す私の言葉を、キースは静かに聞いていた。しばらく黙って私を見つめてから、眉間に寄った皺が消えて、わずかに目を細めた。


「……そうですか」


 彼は私の左手を取り、小指の指輪に口づける。


「では、もう一度。今度は、偽装でも何でもなく、私の正式な婚約者になっていただけませんか」


 差し出された手を、私は見つめた。

 もう、彼の気持ちを知らなかった頃には戻れない。

 けれど、戻りたいとも思わなかった。


「……はい」


 ようやく吹っ切れた私は自分の意思で、その手を取った。


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