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第4章 どうしてこんなに嬉しいの 4 地下の写真部屋

その日の夜遅く。


千畝は誰にも気づかれないように部屋を出て、研究棟のゲートの前に立っていた。


研究棟のゲートは一定の時間を過ぎると閉ざされて、六桁の職員コードを入れないとあかないしくみになっている。


(確か……以前、いのりさんはこんな感じで……)


千畝は記憶を頼りに指を動かす。赤いランプがついてエラーになる。だがあきらめずもう一度。コードはこれで合っているはずなのだ。だがまたエラーランプがつく。


「あかないわよ」

背後で声がして、千畝はひゅっと息を飲んだ。


「ミ……シュランさん」


こんな夜更けだというのに、相変わらずロング白衣を着たミシュランがすぐ後ろに立っていた。

足音もしなかった。いつの間にそこにいたのだろうと千畝がどきどきする胸を押さえていると、ミシュランは千畝の横に来て、エラー画面を手早く解除しながら言う。


「六桁の前に、職員の所属を表すアルファベットをいれなきゃあかないわよ。──いれた?」

「いれました」


明らかに目の前で不正行為の現場を見つかっているのに、正しく全部入力したかと聞かれるのもそれにイエスと答えるのもどちらも妙だったが、ミシュランは顔色も変えなかった。


「あそう。番号はあってるの?」

「多分……」

「もう一回やってみて」


言われるまま、記憶にある番号を押下する。そのコードをひとめ見て、ミシュランはなるほどという顔になった。


「ああ、それってカノの番号でしょう。カノ本人、今、寝てるんだと思うわ。あいつ寝る時は自分の番号ロックしてから寝るから。そういうとこだけは几帳面なんだよねえ」


「あの……」

「なに?」

「ゲートを不正にあけようとしたこと……怒らないんですか」

「怒ること、特にないもの。今のところ実害があったわけでもないし」


あまりにあっさり言われて、自分の立場を棚上げして、いやいやいやいや、そういう問題じゃないでしょうと言いたい気分になってしまう。


「それに、実際、あけられてないし」

「その通りですけど……」


「こういうことする時はね、相手が今どこにいてなにしてるか、把握したうえでやるといいわよ。もちろんだけど、カノが現場に行っていない時はカノの番号ではあかないわけだしね」

「は、あ」

「その点、いのりはうまいわよ。あいつがゲートあけてるだろうなって思う時ちょいちょいあるけど、絶対に尻尾掴ませないもの」


「あの……どうして、そんなこと、わざわざ教えてくれるんですか」

「知りたいんでしょ?」


矢で的を射抜くような正確さで言われて、千畝は小さくうなずくことしかできなかった。


「保護官に打診されたんだよね。答えはもう決めたの?」

「まだです」


そう、と言ってミシュランは何度かうなずいた。頬の肉と首の肉とあごの肉がまざりあったものが一緒に揺れる。


「じゃ、あなたには知る権利があると思う。なにも知らせずに決めろだなんて、あのばかやろう、ほんとに無茶なこと言う」


(あのばかやろう……)


憤慨したように言ってミシュランは、みずからタッチパネルを操作する。

「当たり前だけど、私のコードなら、ここ、あくから」

だがそこはさすがというか当然の慎重さで、タッチパネルを押す指の動きを彼女は巧みに体で隠して、千畝に想像もさせなかった。


ピッという電子音とともに、軽い擦過音をたててゲートがひらく。


ミシュランが当たり前に先に立って歩くのに、千畝はためらいながらもついていった。なんだかその背中が、おいで、と言っているような気がして。

以前いのりに連れられてきた時と同じく、夜中の研究棟にはほとんど電気がついておらず、ところどころにある非常灯だけがぼんやりと緑色に光っていた。


てっきり彼女の研究室に連れていかれるのだと思ったら、違った。研究室の前を素通りしてミシュランは先へ進む。


「こっち」

廊下の一番奥を左に折れると、そのまた先に人目を避けるように細い階段があった。


「暗いから、気をつけて」

その階段をミシュランは変わらぬ足取りで下りていく。


ぺたっ、ぺたっ、ぺたっ。

彼女が履いている黒いナースサンダルの音がやけに大きく聞こえた。


千畝はというと階段の降り口のところで一瞬立ち止まり、だがすぐに意を決して自分も降りていった。長い間考えていると、正体の見えない恐怖感に追いつかれてしまいそうだったのだ。

ざらついたむき出しのコンクリの壁に指先でふれながらミシュランの白衣の背中を追いかける。


千畝が追いつくと、ミシュランはポケットから出した鍵で小さな扉をあけているところだった。

研究室の扉は電子ロックだが、その部屋は昔ながらの差し込み式の鍵だった。がちゃりを音をたてて鍵がひらく。


「ここは……」

「もともと地下資料庫として使ってたのを、私がもらったの」


ミシュランは手を伸ばして壁際の照明ボタンを押す。天井の蛍光灯が一気に全部ついて、千畝はまぶしさに目を細めたが、それより一瞬早く目に飛び込んできたものがあった。


それは、たくさんの写真だった。


およそ八畳ほどの窓のない部屋に、ぎっしりと隙間もないほど飾られている写真は、どれも犬歯が長く伸び、瞳は白濁して人間の顔はしていない。


ポートレイト、などという穏当なものではなかった。


あきらかに歯をむきだして威嚇しているものもあれば、弱って舌をだらりと伸ばしているものもある。そうした写真がずらりと飾られているのは、なにも知らないものが見れば、趣味の悪いホラー映画のひとコマのようだった。


(もしかして──これは)


「千畝ちゃんは、きっと、これを見ればわかるでしょう。……あなたは頭がいいから」


ミシュランは平坦な声で言う。

遺影ですか。千畝が口をひらくより早く、ミシュランは続けた。


「私が殺したの」


(そういうこと……)


千畝は思った。

ここへ来てからほぼ二カ月が過ぎようとしているのに、変異体は全国各地で増えているというのに、保護官が戻ってくる暇もないほど彼らを捕まえているはずなのに、それなのに、この研究所では変異体の姿を見ることがない理由は、ここでひっそりと人知れず死んでいたせいなのだ。


「治療ワクチンが……効かなかったんですね」


千畝は静かにミシュランの言葉を言い直す。

殺しただなんて、思ってほしくなかった。

彼女のせいじゃない、それは、仕方のないことだ。当事者である千畝にだってわかる。だがミシュランは答えようとしない。


その表情は蛍光灯の白い明かりに照らされて、やや影が落ちて見えるものの、まずまず平静と言っていい顔つきだった。あからさまに眉をしかめたり、露骨につらそうな顔はしていない。


その表情を見て、千畝は思った。

ああこの人は、こうやって飲み込むんだ。


忘れまいとしてこうして写真を飾って、まるでわざと自分が手を下したような言い方をして。そうやって、自分の責任を決して忘れまいとして、言い訳や泣き言は全部飲み込んで。


(ミシュランさんのせいだなんて……そんなこと、絶対ないのに)


──罵られるのは、慣れてますので。

いつか彼女が言った言葉が思いだされた。


(この人は……)


この先もずっとそうするつもりなのかと思うと、千畝はどうにもやるせなくなる。


発症者を死なせた自分を責めて、彼らの罵倒は静かに受け止めて、言いたいことは全部飲み込む。夜になると、飲み込んだ言葉のぶんだけ毒々しい色合いのドーナツを食べる。そうしてこの部屋にはまたひとつ遺影が増えて、朝が来ると次の発症者に、ミシュランは表情を変えないままあの注射を打つ。


そんな昼と夜の繰り返しで、彼女の毎日は過ぎていくのだとしたら。


(そんなの……って)

そんなのつらすぎると千畝は思った。


ミシュランひとりが、不当につらい思いをしすぎているのではないかと。

千畝はぎゅっと拳を握って、頭の中で言いたいことを整理してから口をひらいた。


「知りたいことがあるんです、ミシュランさん」

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