第4章 どうしてこんなに嬉しいの 3 痛いからやめなよ
こらっ、と千畝がたしなめたが、岩間は顔色を変えずに、いやいいんだ、その通りだから、と言った。
「そうだな、でもそうならないようにといつも思ってるよ」
「あそう。俺あんたほどでかくないけど、あんたに力で負けない自信、あるけど?」
岩間はそうだねというように笑うだけだった。
そして、肩に南雲を乗せたまま、唐突に自己紹介を始めた。
岩間健介、年は二十七歳であること。大学時代にラグビーをやっており、プロ入りするか就職するか迷っていた時、後輩の代で不祥事が起きたこと。自分はそのことに直接関与していなかったが、まだ在籍していたので、プロ入りも就職もどちらもなしになったこと。ひとつだけ、内定を取り消さずにいてくれた小さな警備会社に就職したが、そこでの成績が良くてここにスカウトされたこと。
当時ここは、知名度もなければ今よりもっとスタッフも少ない、単なるあやしげな研究所だったが、人手が足りないからこそ自分が役に立てることもあると思ったし、なによりも、自分の頑張りをどこかで見ていてくれた人がいるというのが嬉しくて入社を決めたことなどを、彼は淡々と語った。
「あやしげも……人が足りないのも……今もですよ……」
酔っ払いが肩の上でうめいた。
「どうして、私にそんなことを話してくれるんですか?」
「君が、保護官になるかもしれないと聞いたから」
「まだ……決めてはいないんですけど」
わかってる、と岩間はうなずいた。
「もちろん、ゆっくり考えて決めてくれていい。ただ、もし君が保護官になることを選択した場合、俺が担当して同行することになると思う」
だから自己紹介してくれたのかと千畝は思った。
「それは……カノにとっての南雲さんみたいな立ち位置……」
そう、と彼はうなずく。
「まだなんの内示も降りてはいないが、スタッフの頭数を見た時に、他に適当な人間がいないこともわかる。君が保護官になれば、おそらく俺が君を担当するだろう」
「そう、なんですね」
よろしくお願いしますと言うべきだろうか? だがそれもなにか変な気がして、千畝はあいまいに答える。
「誰が自分をサポートする立場なのか、その相手がどんな人間で、どんな風な人柄なのか。どんなことを考えてここで働いているのか……知らないよりは、知っておいた方がいいだろうと思ったんだ」
ああなるほどと千畝は思った。確かにそれはそうかもしれない。
「さっきのヨナじゃないですけど……岩間さんは、いざという時、私を撃つ権利があるんですよね?」
「そうだ」
彼は太い眉を動かさずに即答する。
「撃つ権利があるということと、いざという時迷いなく行動に移せることは別だと思ってるんですけど……岩間さんは、もしも私がいきなり発症して、凶暴化した時、私のことを撃ってくれますか?」
いかにも雑談の延長というさらりとした口調で言ったが、千畝は言いながら、彼の瞳をじっと見つめていた。その瞳に迷いや揺らぎが、一瞬でも浮かんだら、絶対に見逃すまいとして。
だが彼は迷うことなく断言した。
「撃つよ」
「本当に?」
「本当に」
隣ではヨナが心配そうにふたりを見比べている。この会話がいったいどこに着地するのがわからず、不安なのだった。
だが千畝は構わず続ける。ここは大事な場面だった。彼が自分と組むというならなおさら、最初に聞いておかなければいけないことだ。
「口で言うのは簡単ですよね。でも、お互いに相手のことをよく知った間柄ならなおさら、射殺するのはつらいんじゃないですか。──いいんですか、そんな、余計につらくなるようなことをして」
「確かにつらいだろうが、それは、俺が受け止めればいいだけのことだから」
「……ですか」
「千畝さんは、人をサポートするってどういうことだと思う」
うーん、と千畝は答えあぐねた。
若い時からラグビーをやっておりチームプレイに慣れている岩間と、勉強ひとすじできた自分では、その話題についての経験値が違いすぎた。
「よくわからないです」
サポートするとは助けること。それくらいの認識はあるが、おそらく岩間が聞いているのはそういう、語句の意味的なことではないのだろう。
「岩間さんは、どう考えてるんですか」
「相手を楽にすることであって、自分が楽をすることとは違うこと」
千畝は肩の上でぐんにゃり伸びている南雲を見上げた。
カノのために努力し、自分のすべてをカノに尽くしている南雲。これまでのラグビー人生で、自分を殺してチームに貢献する場面が何度もあったであろう岩間。考え方も価値観も違って当然だった。そして岩間の価値観を知った今、自分は果たして、そういうふうにされたいだろうか、と千畝が考えた時、岩間は続けた。
「相手が望むことを提供するには、相手のことをよく知ることが不可欠だ。だけど……いきなりあなたのことを教えてくれと言われて、普通、はいそうですね、それじゃこれから本音で話しますね……とはならないだろう。それなら、情報開示はどちらが先でもいいと思う」
「そうですね」
「相手に警戒心を解いてほしいなら、まずは自分から相手に心をひらくのが正道だとも思うし。……話すのは今日が初めてだが、君のことは多少知ってる。なにせ毎日のように見かけてるからね。おそらく、真面目で、努力家で、誠実な性格をしてるはずだ」
これに千畝はちょっと笑った。
「わかるんですか」
「多少はね。人の性格っていうのは、歩き方や目線の方向なんかにも意外と現れるから」
「実際に話してみて、どうですか?」
「思った以上に頭がいいな、と思ったよ」
それはどうですかねー、と千畝が笑うと、岩間もつられたように少し笑った。
笑ったところは、目のまわりにしわがいくつも寄って、ぐっと親しみやすい。
その笑顔をすっと引っ込めて、岩間は真面目な顔に戻った。
「──もし君が、保護官を志願するなら、俺もできる限り君をサポートするつもりでいる」
「もしも、そうなったら、ですね」
「もちろんそうだ。でも、働きぶりは、期待してくれていい」
岩間はにっと笑うと、肩の上でもう一度南雲を抱え直して、今度こそ食堂から出て行った。
(いい人だな……)
その、鉄板のように大きな背中を見送って、千畝は思った。
最初見た時、なんだか顔も体もいかつくて怖そうだって思ったことは、秘密にしておかなくては。
さてと、と千畝はすっかり冷えてしまったトレイの上の昼食を見下ろす。
どうする、ヨナ? 南雲さんはもういなくなったし、やっぱりここで食べようか? と少年に目を向けた時、やけに真剣なまなざしと目があって、千畝ははっとする。
「どうしたの?」
「……ねえ、千畝」
ヨナはやけに平坦な声で言う。
「千畝は、保護官になるつもりなの?」
「まだ決めてはないけど……打診されてはいるよ」
ヨナは唇を歪めた。
突き出た大きな犬歯のせいでわかりにくいが、毎日のように顔を合わせている千畝にはわかる。ヨナはそのまま少し迷っていたが、やがて千畝とは目を合わせずに言った。
「なんかさっきの……ターミネーターの中の人みたいなあいつは、千畝が保護官になるのを賛成アンド歓迎みたいに言ってたけどさ。あれって、ものすごく無責任だって、俺は思う」
(無責任……)
「俺は逆だな」
「逆って……」
賛成も歓迎もしない、ってことだろうか。
その言葉をなんだか口には出しづらくて、千畝は言葉を濁したが、ヨナはむしろはっきりと口にした。
「あれは、やめたほういいよ。痛いよ」
「……痛い?」
だってさ、とヨナは勢いよく千畝を振り仰ぐ。
白濁した瞳に鋭い牙と爪。もう見慣れたから怖いともなんとも思わないが、おそらくこの姿で街中に出たら、一気にあたりはパニックになるだろう容姿で、ヨナは真剣に言う。
「保護官になるって、カノみたいになるってことでしょ」
「そう……だと思うけど」
「見た目もだよね?」
「……多分」
そうでないと、変異体が暴れだした時に抑えきれない。保護官は皆、おそらくは薬を使って一時的に体を変異させて、身体能力を引き上げるのだと千畝は考えていた。
「だったら余計にやめたほういいって。あれ痛いんだよ」
「痛い、って」
「物理的に痛いの。あんた変異したことないだろ。俺はある」
瞳の白濁はまだしも、牙や爪が異様に固く鋭くなるのも、発症が進むにつれて筋組織の肥大がはじまるのも、どちらも死ぬほど痛い、とヨナは言った。
自分が内側からめりめりと壊される感じで、自分で自分を引き裂いてるような気がして、感覚はやけに鋭敏になるし、かといって頭の中もはっきり正気だしで、もう救いようもなくて、む…………っちゃくちゃ痛かったもう泣くかと思った、と最後はためにためて強調した。
「それって、今も、痛いの」
いや今は別に、とヨナは返す。
「変異が止まってしまえば、少しずつ体は楽になるよ。でもさあ、どっちみち痛いのにかわりはないからさあ。女の人はあんな思いしなくていいんじゃないかなあ」




