第4章 どうしてこんなに嬉しいの 2 下戸へのお仕置き
「変なの?」
ずっしり重いトレイを持ったまま、千畝は首をかしげた。
なんのことだろう、全体的に忌み嫌われる節足動物、黒くて素早いアレのことかな? と思った。
研究所の周囲には自然が多いので、昆虫系にはいやでもしばしば遭遇するのだ。ここへ初めて来た日、部屋を選ぶのを手伝ってくれたいのりが、一階だけは絶対にやめた方がいい、と言った理由が今ではよくわかる。
スズメバチが出ても動じないいのりの域にはまだまだ及ばないが、千畝も最近は、多少の虫では驚かなくなった。だけど、ヨナはつい一週間ほど前にここへ来たばかりで、虫は怖いと思っても無理ないな、と千畝は考える。
「でも部屋まで帰るの、遠いよ?」
「いいよ遠くても」
ヨナは頑なにその先に行きたがらず、自分のぶんのトレイを持った肘の先でしきりと千畝を押して促す。
「トレイは夜のとき一緒に返したらいいしさ、行こう」
「えっ……南雲さん?」
ヨナがあまりに回避しようとするので、なにがあるのかと覗き込んだ千畝は思わず声に出した。
柱の影では、南雲が壁にもたれて床に足を投げ出すようにぐったりしていたのだ。
「うわー……」
なんで気づくんだよとでも言いたげに、ヨナが低い声を出す。
だが千畝が見るに、南雲は力なく首を落とし、ピクリとも動かない。
一見して、尋常ではなかった。
まさか倒れているのでは。と慌てて近寄った千畝は、むせるような強いアルコールの匂いに顔をしかめる。
ただ飲み過ぎた時の匂いではなかった。南雲の服は全体にしっとりと濡れている。
「ああ……千畝さんですか……」
どうやら意識はあるらしい。近寄った千畝に、南雲が薄目をあける。
「ど、どうしたんですか」
南雲は力ない笑いをもらす。
「ざばーっと……浴びちゃいました」
浴びた? 千畝は首をひねった。状況がうまく呑み込めない。
(まだ昼間なのに、アルコールを浴びるとは?)
南雲は大人なので、百歩譲って昼から酒を飲むのもいいとしても……浴びた?
(比喩表現、ではなさそうだなあ)
こぼしたならわかる。服にかけてしまったでもわかる。だが……浴びた?
千畝が頭の中に疑問符をいくつも浮かべていると、南雲はぐんにゃりと首だけで会釈した。
「お見苦しいところを……お見せして、すみません……」
「そんなの全然いいですけど、シャワー浴びて乾かしたらいいんじゃないですか? ひとりじゃ立てないですか?」
千畝、千畝、いいって。そんなのほっとこうぜって。ヨナが横でしきりと袖を引っ張っている。
「立てますよ。もちろん大丈夫ですよ、ほら立てますよ」
幾分頼りない口調で南雲は言って、それでも証明するようにすくっとその場で立ってみせた。
だが、立ち上がったのは一瞬で、またすぐにずるずると腰を下ろしてしまう。
そういうのは……立てるというのかなと千畝は首をかしげた。
これは、誰かに連絡して運んでもらうべきなんだろうか、と思案している千畝の頭の中を読んだように、南雲は顔の前で手を振った。
「いえ、歩けるんですよ。そういうんじゃないんですよ、ええほんとに」
だめだ酔っぱらいだこれは。千畝は確信する。
「──お酒、お好きなんですか?」
「下戸です」
きっぱりした答えが返ってきて千畝は目をぱちくりさせる。
「じゃ、なんで……」
「お仕置きなので受けとくべきかなあ、と」
千畝はいっそう首をひねった。
聞けば聞くほど、疑問が増える応答だった。横ではヨナが焦れたように千畝をつついている。
「……よくわかりませんけど、飲めないアルコールを摂取して正気じゃないってことでいいですか? お水飲んだ方がいいですよ」
千畝は自分の山盛りのトレイの上から、氷の入った水のグラスを南雲に手渡す。
南雲はそれを大人しく受け取って、だが口には運ばず、自分の足の間に置いた。
「ありがとうございます、でも」
「でも?」
「やさしくしなくていいですよ。男ってすぐつけあがりますしね」
「や、そんなんさせねえし。俺が見張ってるし」
冗談じゃないというようにヨナが言う。
それがいいです、と南雲が誰に聞かせるでもなくつぶやいた。
「僕はひどい人間なので。……自分でもわかってますし、こう見えてそこそこ報いも受けてますし」
苛立つヨナをなだめつつ、千畝は南雲の足元にしゃがみ込んだ。
理由なんてない。なんとなく、そうしたほうがいいような気がしたのだった。もう少し、南雲にしゃべらせた方がいい。そんな気が。
「報い、ですか」
「それで足りるのかどうかわかりませんけどね……」
「カノがいなくなったあと、ひとりでここにい続けることが、ですか」
ふふっと南雲の口から笑いがもれる。本人は笑うつもりだったのだろうが、顔の形は、むしろ泣いているように見えた。
「千畝さんは、ほんとに、聡明で」
「私の話は今いいですよ。カノのことでしょう。南雲さんが一番つらいことは、カノがいなくなることですよね」
すると南雲は、それには直接答えずに言った。
「安心して、守ってもらえる居場所があるなんて、妄想ですよ」
ここのことを言っているのかな、と千畝は思った。もしそうだとしたら、そこから先の詳しい話は、あまり、ヨナに聞かせたいものではないのだが。
「そんな居場所なんてないんです。もしあるように……見えるとしたら、それは、都合のいい妄想で」
こんなふうに酔って無防備な南雲は初めてだな、と千畝は冷静にうなずきながら相槌を打っていた。
南雲はなおも言う。
「誰にとって都合がいいのかといえば、競争を煽る側にとってですよ。わかります? 千畝さん」
「わからないところもあるけど、聞いてますよ」
「努力して追いついた気でいても、状況も現実も簡単に変わりうるんです。いつまで努力しても、終わりなんてない。だって感染者のウイルスは個体によって容易に」
「そこまで、南雲」
聞き覚えのない、深みのある男性の声に千畝は振り向いた。
そこには、警備スタッフの制服を着た大柄な男性がたたずんでいた。
「それ以上は守秘義務に抵触するだろう」
「いやいや、この人は、もうねえ」
保護官になるかもしれない人で……だから部外者とも言い切れなくて……と南雲が言うのを、彼はたしなめるように口を挟む。
「そうやって、なにかとなし崩しにするのはよろしくないと、俺は思う」
この研究所で何度も見かけたことのある人だった。
千畝が毎日食堂へ行く途中の渡り廊下付近に立っている、若い男性だ。
背が高いな、とか、制服着ててもものすごい肩幅だなとか、見かけるたびに思っていた。
話したことは、まだない。彼はいつでも少し離れたところで千畝やヨナのことを見守るように立っており、まるで優秀な軍人みたいに、どんな時でも姿勢よく、表情を変えずに持ち場をまっとうしていた。千畝がぺこりと頭を下げると軽く会釈を返してくれるが、それだけだった。今日あったかいですねとか、雨すごいですよねとか、話しかけられるような雰囲気ではそもそもなかったのだ。
彼は千畝とヨナの間を抜けて南雲の上にかがみ込むと、両手で南雲のことを抱えて、一気に肩の上へと持ち上げた。人間じゃなくて、小麦かなにかの大袋でも担ぐみたいだった。ぐっ、と南雲がうめく声。
「お、思った以上に硬い……」
「お前は思った以上に軽いな」
「ちょっと、これ、苦しいんだけど……」
「ああ、そこは僧帽筋だから」
下ろす気配も見せず、大柄な彼は南雲を担いだまま千畝に向かい合った。
「南雲が、不適当な発言をした。同僚としてこいつに代わって謝罪する」
「いえ……そんな」
千畝は顔の前で両手を横に振る。そして、相手の胸についているネームプレートを確認してから言った。
「岩間さん、なにかお手伝いすることありますか?」
「ん? ……ああ」
彼は一瞬怪訝な顔をしてから、千畝の視線をたどって、納得したような顔になる。
「途中のドア開けるとか」
「いや……大丈夫。君は千畝さんだね? そしてそっちの彼は小太郎くん」
ヨナは一瞬嫌な顔をしてから頷き、千畝ははいと言った。
「この研究所で警備をしている、岩間健介と言います」
「警備じゃなくて、監視じゃん?」
ヨナがつけつけと言う。
「俺や千畝が突然暴れ出したら、その腰の銃で打ち殺す役目なんだよね?」




