第3章 内緒だと美女は言う 9 きれいなものなんて見たくなかった
翌朝、千畝は朝一番で事務所へ寄って、母校の中学校宛にメールを出してもらった。
内容を見てもらったら、特に問題ないとのことで、ほっとする。
千畝と事務所スタッフとのやり取りを、ヨナが隣で興味深そうに眺めていた。
『喜多嶋先生、ごぶさたしています。三年前の卒業生の、朝岡千畝といいます。……私は今こういう事情でこういう場所にいるのですが、先生はお元気ですか。……なんだかすごく、喜多嶋先生のことが思いだされて、できることならお話したい気持ちで、連絡しました。他の先生たちもお元気でしょうか……』
迷惑かもしれない、と考えなかったわけではない。
だが、迷惑になりたくないのなら、迷惑にならないような、相手の負担にならないような文面にしたらいいだけの話だった。
「用事……終わったの?」
「うん、終わったよ。あとは毎週恒例の検診するだけ。……すぐ終わるけど、ヨナは部屋に帰っててもいいよ?」
気を遣って千畝が言うと、ヨナはちょっと口をとがらせた。
「別に俺……あそこが怖いわけじゃないからね。いいよ、一緒に行く」
「そう?」
千畝がヨナと連れ立って検査室へ行くと、中はやけにしんとしていた。いつもなら白衣姿で出迎えてくれるミシュランの姿もない。
千畝は奥の部屋へと続くドアをあけてみる。
「おはようござい……」
言いかけた声は途中で止まった。
もしかしてとは思ったが、案の定、女二人はそこで寝ていたからだ。
ミシュランは机の上であおむけになって、律義に両手を胸の上で重ね合わせているが、二の腕部分が机の端からはみでている。カノはというと、そのすぐ横の床で足を投げ出し、上半身は机の下に突っ込む格好だった。
千畝の後ろからそれを見たヨナが顔をしかめる。
「大人ってほんと、だらしないやつ多くて、やだ」
「はは……は」
「ってそれよりもなにあれ? 壁に! 穴っ!」
またしても千畝は笑うしかなかった。
部屋の壁には、ちょうど人の肩の高さくらいの位置に、バスケットボール大の穴があいていた。事情を知っている千畝はそこからそっと目をそらしたが、ヨナはただでさえ大きな目をいっぱいに見開いて、壁の穴と、気まずそうに目をさました大人の女二人を見比べている。
「コタローくん、あのね、それはね……」
ミシュランが言おうとするのを最後まで言わせず、ヨナは叱り飛ばした。
「カノっ、あんた、暴力的にもほどがあるよ!」
「あたしかよ!」
「いくら破壊衝動が抑えられないからって、施設壊しちゃだめだろ!」
「だから、あたしかよって!」
他に誰がいるんだよ、だってこの人のわけないし、と言われてミシュランが心底気まずそうに目をそらすなか、カノはがりがり頭を掻くと、首を左右に倒して音を鳴らした。
「ああーもう……部屋帰って寝るわ」
「あっカノ、待って」
とっさに、千畝は彼女を呼び止めた。
「んあー」
「あの私、保護官にならないかと、内々に打診を受けたんです。それで、カノに……」
相談したくて。千畝は最後まで言えなかった。
目の前で、みるみるカノの表情がこわばったからだ。
(えっ……)
「だめだ」
カノはそう言ってから、すぐさま言い直した。
「お前には無理だよ」
「無理、って……」
(どうしてそんなこと、言うの)
この豹変ぶりが理解できなかった。
あの夜の公園に向かう途中、熱感知センサーをさわらせてくれたカノ。わからないことがあれば聞けと言ってくれて、自分の仕事を手伝わせてくれた。お手柄だったから、欲しいものあれば言えよとも言ってくれた。あれは、褒めてくれたのではなかったのか。
だが千畝がぐるぐる考えている間に、カノはさらにたたみかける。
「それ、南雲が言ったの?」
千畝はうなずいたが、カノは返事を聞かないでも確信を持っているように見えた。
わかった。そうとだけ言って部屋から出ていくカノの背中はどう見ても怒っているようで、千畝はほとんど反射的に追いかけようとして、寸前立ち止まった。
「ミシュランさんっ」
「え、はいっ」
「今日の検診、延期でお願いします。後日またに!」
「いいけど……」
ぺこり、頭をひとつ下げてそこから出る。
だが当然のこととしてカノの姿はどこにも見えない。どだい、本気を出したカノの脚力に千畝がかなうはずがないのだ。
なので、千畝は早足で廊下を歩きながら考える。今の時間、南雲がいる場所はどこか。
事務所にもう一度戻ってみる。……いない。
ついでに壁面のホワイトボードを確認すると、外出のマグネットは貼られていなかった。車のキーも、一列に並んで欠けることなくぶら下がっている。
(だったら……絶対この施設内にいるはず)
とはいえ、その敷地内がだだっ広いわけだが。
ある程度場所を予想して動かないと、ばたばたしてすれ違う結果に終わってしまう、と千畝は静かに深呼吸した。
(あと、この時間にいる可能性が高いところは……)
一カ所、思いつくところがあった。
食堂だ。
◇◇◇
中途半端な時間とあって、広い食堂に人はほとんどいなかった。
いつもはカウンターの向こう側でご飯をよそってくれたり麺を茹でてくれたりするおばちゃんも、奥に引っ込んでいるのか姿が見えない。
「なぜ怒ってるんですか」
なので食堂の一角で話しているカノと南雲の声は、廊下にいてもわずかに聞こえた。
「お前は、千畝のことをかわいがってるとばかり思ってた」
「かわいいと思ってますよ。とてもいい子だって」
明け放した入り口から二人の声が漏れ聞こえてくる。
千畝はそっと入っていって、二人の死角に位置する太い柱の影に移動した。
盗み聞きなんて、よくないことだとわかっている。行儀が悪いということも。
だけど、今はどうしてもこうせずにはいられない気持ちで、千畝は二人に気づかれないよう息をつめた。
「お前は、最低だ」
「まあ、そうでしょうね」
「あたしのことを身近で見てきて……よくわかってるはずだ。保護官てのがどういうものか」
「知ってますよ」
「それでも千畝に勧めるのか」
「きっと彼女は、一生懸命仕事をしてくれると信じてます」
二人の顔は見えないので声の様子だけで判断するしかなかったが、冷静な南雲と裏腹に、カノの声は怖いくらい真剣だった。
「撤回する気ないの」
「ないですよ。あるわけがない」
「──へえ。一応理由聞いてやるよ」
「千畝さんは、真面目で努力家。くわえて愛情深いタイプでもあると思ったからですよ」
南雲に言い当てられて、特に最後の一言に千畝は赤面する。ほんとに、いつの間に、そんなところまで見られてるんだろう。だがカノは険しい声をゆるめようとしない。
「そういうことを聞いてんじゃねえだろ」
「……そうですか?」
「論点をわざとずらすな。わかってるだろ、お前の悪い癖だよ」
これに、南雲は答えようとしなかった。
「あたし以外の人間に興味がないことを、隠す気もないだろ。そういうのはよせと言ってるんだ。──いいのは外面と愛想だけで、本当はあたし以外の誰にも心をひらいていないよな。お前が他人に興味がないから、他人もお前を大切に扱わない。そうだろ。……あたしがいなくなった後で、ひとりきりになりたいのか?」
えっ、と聞いていた千畝は息を飲んだ。
(ひとりきり……いなくなったあとって……?)
だが千畝が言葉をよく理解するより先に、南雲が言う。
「あなたがいなくなった後の世界になんて、なんの価値もないですよ。そっちこそ、わかってるくせに」
今度沈黙したのはカノの方だった。
濃密な愛情の気配が立ち込めて、千畝はどきどきする。
黙っているカノに、南雲はくすっと笑った。
「誰になんて思われようと構いません。僕は、あなたの延命のためならなんでもしますから」
(──延命?)
延命ってなんだろう、と千畝は思った。
胸のどきどきはおさまるどころかいっそう大きくなって、耳の奥でうるさいくらいになっている。
だめだ、これ以上聞いていたらだめだ……そういう気分になって、千畝はそっとその場を離れた。
(これ以上……聞くのが、怖い)
極力足音を殺して食堂を出た千畝だったけれど、その千畝の背中を、カノが視界の隅で見ていた。
◇◇◇
千畝の姿が完全に見えなくなってしまってから、カノは静かにつぶやいた。
「お前……本当に最低な」
「知ってますよ。僕そこは昔からぶれないので」
「そういう意味じゃない。あたしですら気がついた。この、白濁して普通よりも視力が落ちてるはずのこの目ですら。──そこに千畝がいたこと、気付いてないの?」
南雲は答えようとしない。カノはため息をつく。
「どうでもいい、か……。歯ぁ食いしばれー?」
「えっやですよ、今のあなたの力で殴られたら歯じゃなくて首の骨が折れます」
にこおっ、とこれにカノは取って付けたような笑顔を浮かべた。
「そッかーあたしのビンタは嫌かー。んじゃ選択肢やるよ」
「え?」
「マシュマロお仕置き部隊出ませい!」
一升瓶を片手に音もなく現れたミシュランを振り向いて、南雲はうわ、といった。
その口が閉じるよりも早く、ミシュランは瓶を逆さにする。
音を立てて南雲は一升瓶の中身をまともに浴び、まるでゲリラ豪雨に無防備に遭遇した人みたいになった。
◇◇◇
(……うん、わかってたけど……)
千畝はいつものお気に入りの場所で膝を抱えてしゃがんでいる。
両膝に額を押し付けるようにして、気配を殺して。
食堂から逃げるようして帰ってきた、もうその途中から涙が溢れて止まらなくて、誰ともすれ違わなかったのが幸いだったけど、さすがにそんな顔のままでは部屋へは帰れなかった。
部屋に鍵はついていないし、ヨナの部屋はすぐそばだし、ヨナは心配して千畝を探しているような気がしたし。
それで、涙が止まるまでの間、と思っていつものバルコニーにやってきたのだが、
(どうしよう、全然、止まらない……)
この病気のキャリアだとわかった時ですら、こんなに泣かなかったのに、と千畝は思った。
(南雲さんが私のことなんて少しも、なんとも、思ってないのだって知ってた……)
ヨナの件で千畝を現場に同行したのは、あれは結局、千畝の適性を見たかっただけのことで、単なるテストだったのだと。それは引いては、保護官が少ないあまり負担が増えがちなカノのことを少しでも楽にしたかったからなのだと……そんなことは、説明されなくてもわかっていた。
(あの人が、カノのことしか大切じゃないことくらい……)
わかっていたのに、なのにどうしていつまでも涙は止まらないのだろう。
(延命ってなに……いなくなった後って、どういうこと……)
もっとよく知りたくて、自分で選んで踏み込んでいったのに、そこで聞いたことが、知れば知るほど怖くなり、また悲しくもなることだった場合、いったいどうしたらいいのだろう?
千畝は涙が止まるまでずっとそこでそうしていた。
ほんの少し顔を上げれば、見慣れた美しい景色が見えると知っていたが、千畝は頑なにうつむいたままだった。
今は、誰にもなににもなぐさめられたくなかった。
きれいなものなんて、見たくなかった。