第3章 内緒だと美女は言う 8 仲なんてよくないけど
「そうね」
「胃袋少し休ませてやれば?」
「死んだらいやでも休めると思うし」
「大雑把だけど否定もできないなー」
カノがまた笑う。でしょ、と言ってミシュランも笑う。
まだ笑い終わらない顔のままで、ミシュランは真横の壁を強く叩いた。しんとした室内にやけに大きく音が響いて、千畝はびくっとする。
「──あたしのばか。もう何度も似たような場面を経験してるのに、どうして何度も同じこと繰り返すの……」
「人間ってそういうもんだから」
カノが、まるで自分は人間じゃないみたいな言い方で言った。
「それじゃだめなのに」
「だめなんだ?」
「だめ。言わなくてもいいこともたくさん言ってしまうし」
「ふうん、いくつくらい?」
ダン!!
返事の代わりに、ミシュランが壁を叩いた。
ダン!! ダン!! ダン!! ダン!!
休みなく、砂糖にまみれた手が壁を叩き続ける。隣の部屋にいる千畝ですら身を固くしてしまったほどの迫力だったのに、カノは平然と足を伸ばして座っている。
「止めないぞ」
ややしてから言う声も静かだ。
「止めてほしくてやってないから」
ミシュランの声もまた静かなものだった。
「知ってる。止めるのが愛情だともあたしは思わないしな」
静かな声とはうらはらに、いくつもいくつも壁を叩く音。
力を弱めないその叩き方は、苛立ちをぶつけているのではなくて、ドーナツ同様自分を罰するためのものだった。
「──止めないかわりに、見ててやるよ」
「助かるわ」
ミシュランはそう言ったけれど、千畝にはもう見ていることはできなかった。
痛々しくてつらそうで、ここから飛び出して後ろから抱きついて止めたかった。そうでなければ、カノいい加減にやめさせてと叫んでしまいそうだった。
いのりさん。
声を出さずに口の動きだけでそう言うと、いのりはにこっと微笑んで千畝を外へと促した。
ミシュランが自分を罰する音が背後で響く中、二人は物音を立てないようにして廊下へ出た。
「あの、いのりさん」
だがいのりは答えない。にこっと、またあの無敵の笑顔で千畝の質問を封じ込めると、来た時と同じように先に立って歩いていく。
いのりは終始無言だった。出る時はノーチェックの自動ドアをくぐってからも、渡り廊下を超えて居住棟に帰ってきてもなお。
説明なし、解説もなし。まるで見たものだけがすべてだというみたいに。
そして、千畝をもといたテラスまで送ってくると、そこに置き去りにされていたマグカップに目をやり、ようやく口をひらく。
「ハニージンジャーティ、すっかり冷めちゃったわね。熱いのもう一杯飲む?」
千畝は手すりの上のマグを手に取ってみた。持ち手が冷えきっており、中身はまだ残っている。
「いえ……」
そう? といのりはからになった自分のカップを指に引っ掛けるときびすを返した。
「じゃ、私はお先にね」
「はい、おやすみなさい」
行きかけたいのりは、あそうだ、と途中で足を止めた。
「そういえば、千畝ちゃん」
「はい」
「ドーナツも、壁を殴るのも、どちらも本人は隠しておきたいことだと思うから……内緒にね」
はい、と千畝はしっかりうなずき返した。
いのりの言い方はフラットで言葉数も必要最低限だが、その凪いだ物言いの奥底には、愛情が息をひそめているような気がした。
それで、胸があたたかくなって千畝は言ったのだ。
「いのりさん、仲いいんですね、ミシュランさんと」
「あはっ?」
いのりは一瞬きょとんとしてから、そう返した。軽く肩をすくめて、外人みたいに語尾を跳ね上げる言い方で。
──仲いい? 誰が? 誰と? そんな感じで。
それから、ギャラクシースマートのCFよりも三倍くらいいい笑顔で、千畝が耳を疑うようなものすんごい毒舌を口にした。
(い、今、なんて……)
「じゃね、おやすみー」
いのりは手をひらつかせて自室へ帰っていったが、そのほっそりした背中を見送って、千畝は思わずにいられなかった。今のは、速やかに記憶から抹消しなければ、と。
再び訪れた静寂の中、千畝は冷たくなった紅茶のマグを両手で包み込んだ。
誰が悪いとか、誰がひどいとかいう問題じゃないのだ。ミシュランは自分の役割を誠実に果たしているだけで、それ以上でも以下でもないのだ。きっと。
そういえば、ヨナのワクチン接種のことであんなことがあったあとでも、ミシュランが千畝に不機嫌な態度を見せることはなかったことを思いだす。意地悪はなかった。棘のある対応もなかった。淡々と挨拶をし、健康状態を聞いて、その時の千畝にただ必要なことをしてくれた。
(フェアな人なんだ……)
そこまで考えた時だ。
(あれっ?)
ふと思いついた。
先日から会いたい、話したいと思っていた、中学校の喜多嶋先生のことだ。
(会う……は無理だとしても、ひょっとして話をすることはできるんじゃないの? だって……中学校ってHPあるし、当然メールアドレスだってある……)
あれっ、そうか。と目が覚めるように千畝は気づいた。
(なんか……思った以上にできることって、多いかも……)
◇◇◇
それとほぼ同時刻。
いのりが部屋へ帰ると、自室の前には南雲がたたずんでいた。
それを見て、いのりの形のよい眉がひそめられる。
「なによ。女性の部屋にこんな夜中に」
「ですから入らず前で待ってたじゃないですか」
もういいですよね、とばかり南雲はいのりの部屋のドアをあける。
「あっこら! 入っていいって言ってないわ!」
「お邪魔します」
たいして申し訳ないとも思っていないその様子に、いのりは憮然とした顔で腕組みした。
もとより感染者の個室には鍵がついていない。ここで南雲を押し出したところで、彼をふせぐ手立てはない。南雲が見かけの割にしつこい性格なのも知っている。
いのりはため息をついて自分も中へ入ると、あんたのことを歓迎はしてないのよという印に改めて胸の前できつく腕を組み直した。
「勝手に人の部屋に……」
「勝手じゃないですよ、挨拶しましたよ」
「許可してないでしょうがっ。カノに言いつけるわよ」
「やだなあ、そんな、子供じゃあるまいし」
「だってあんたカノの言うことしかきかないもの」
「いのりさんに聞いてもらいたいことがあってきたんですよ」
いのりの眉間のしわがいっそう深くなる。
聞かなくても、厄介な内容だと既にわかるためだ。
だが南雲がこうしていのりを名指しでやってくることは珍しかったし、実際ここで暮らしていると、もっとも不足するのが話し相手だということもわかっていた。
「聞くだけ聞いてあげるからありがたく思いなさい。なんか悩み事?」
「悩み……と言うか。ありていに言うと嫉妬ですけど」
「嫉妬」
それはまた珍しい、といのりは組んでいた腕をゆるめた。
南雲がカノを好きなのはもう見ただけでわかるし、カノも南雲をかわいがっている。そしてカノは仕事柄でも見た目の上でも、恋人ができるような女ではない。
いのりの、当たってはいるが失礼な推察などは露知らず、南雲はのろのろと口をひらく。
「このままいけば、千畝さんはカノを助けて現場に出ることになると思うんです」
「えっなにそれ」
さっといのりの表情が変わる。
「決定なの、それ?」
「いえ、まだ。……ただ、彼女はそっちに決めるんじゃないかと僕が予想してるだけです」
「そうか……こないだ現場に連れてった時から嫌な予感はしてたのよね。なんか千畝ちゃん本人は怖がってる様子もなかったし。やっぱりあれって、テストであり、下見だったんだ。あーっもーっ、ほんとここの研究所って、やることが露骨で気分悪い」
心から、やめとけばいいのにと思っている表情でいのりは言う。
「だってそれ、保護官になるってことでしょう?」
「そうですね」
「なるのも大変だけど、やめるのも大変だってあの子知ってるのかしら」
「やめたくならないようにサポートするのも僕たちの仕事ですけどね。でも問題はそこじゃなくて……」
ぐっ、と南雲は両手を握りしめた。
「カノを守るのは、本当は僕がやりたかった……」
「ああ、嫉妬ってそっち」
いのりがひんやりした視線を南雲に向ける。
「心から、ヤな男ね、あんたって」
「一応自覚はありますよ」
「カノのことしか大事じゃない。終始一貫しててむしろ清々しいわ。──褒めてないからね!」
念を押したのに、南雲はわずかに微笑んだ。
「そうだとしても。誰かの口からそう言われるのは嬉しいものですよ。……そうです、僕はカノのことしか大切じゃない」
大きな、棘のあるため息をいのりはついた。
どんなふうに罵ったところで、自分の言葉が彼の心の深いところに届かないことは知っている。
「それなのに、どうして私の部屋で愚痴るのよ……」
思わず本音を漏らしたら、意外や返事がかえってきた。
「それは、あなたが僕を嫌いだから、じゃないでしょうか」
「わけわかんない」
「ほら、気休めとか慰めとか、言わないでしょうし」
「責めてほしいの? 罵倒がいいの? どっちもできるけど、あんたに言っても効果ないんだから言うだけ私のエネルギーの無駄だと思わないの? だいたい今の言い方だと自分で千畝ちゃんに打診かけたんでしょう、それなのに、なによいまさら嫉妬って」
「人が少なすぎなんですよここ!」
一瞬だけ語気を強くして南雲は言った。
なによそれくらいあんたに言われなくたって知ってるわ、といのりは冷ややかな視線を揺らがせない。
「もういやだ……」
「今度は弱音?」
つん、と尖ったあごを上げるようにしていのりは言う。
「あんた、めんどくさいわ。どっかいって」
いのりが犬でも追い払うみたいに手を振ると、南雲は苦笑した。
「いのりさん、ひどいなあ」
ひどいとしてもあんたほどじゃない。
そういのりは思い、思った通り声に出して言ってから、今度こそ確実に南雲を廊下に追いやった。




