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第3章 内緒だと美女は言う 7 カラフルなドーナツ

「それは……」


「ま、結果的にお前の仕事の邪魔になってるが。その埋め合わせに……もうひとつお節介してやるよ。ドーナツ、いるだろ」


(ドーナツ?)

話が読めず、千畝は首をかしげた。


二人の間には、なんとも言えない沈黙が落ちている。


火花が散るわけではない、だが穏やかともいえない。実際には口にしていないことが二人の間にいくつも漂っているような、そんな沈黙だった。

やがて小さな吐息とともに、先に沈黙を破ったのはミシュランだった。


「まあ要ることは要るわね……」

だろ? とばかりカノは悪い顔になる。


「外出ついでに差し入れ買っといてやるよ。どこのがいい?」

「要らない、備蓄あるから」


いくぶんむくれたようにも聞こえる言い方でミシュランが返すと、「備蓄じゃないだろ? 在庫だぶついてるだろ?」とカノは悪いケモノ顔で笑って、彼女の白衣の首に手を回した。ちょうど運動部の男子がチームの仲間に対してやるような、あんな感じで。


「千畝」

「あ、はいっ」

カノはミシュランの首に手を回したまま、目線だけを向けて言う。


「そいつ。もう連れてっていいぞ」

「──はいっ」


そしてそれっきり、その話はおしまいになった。


◇◇◇


翌日からカノは再び姿を消し、数日してまた戻ってきた。ワクチンを打たなくなったヨナは少しずつ元気を取り戻しつつある。


それは、いいことなのだけれど。


(いいこと……だけど)


ある日の夕暮れ、千畝はひとりで中庭の見える一角に座りこんでいた。


ここは千畝が見つけたお気に入りの場所で、居住棟の二階にあたる。


テラス部分に椅子を持ちこんで腰掛けると、眼下にはよく手入れされた中庭があり、細い水路がそこを区切るような形で流れている。向かって右側には、食堂や事務室などが入っている本館が、向かって左側には千畝たちが暮らす居住棟と研究棟が見える。

本館はイギリスのマナーハウスを彷彿とさせる上品で優美なたたずまいだ。居住棟と研究棟はシンプルかつ洗練された外観で、その趣の異なる二つの建物が同時に眺められるこの場所が千畝は好きだった。


水路の脇にはあかりがともされ、きらきらと光りながら流れる水面を見下ろしながら、千畝は考えていた。


(今回のことは……カノが、助けてくれたんだ)

カノありがとう、そう言って終わりにするのは簡単だ。


(簡単だけど……それは、違う……気がする)


あれからずっと千畝は考えている。


何年もここで暮らしているいのりの変わらぬ容姿のこと。ここで暮らして一か月がたつというのにヨナ以外の変異体を見ることがないこと。ヨナの「つじつま合わせ」のこと。同じワクチンを打ってもヨナは苦しみ自分は平気だったことや、さっぱり意味のわからなかったドーナツの話も。


ずっと考えているけれど、答えは出ない。

さまざまなことが頭の中に浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ。

たまに、点と点が結びつきそうな感覚があるものの、はっきりした形を作ることなく消えていった。


『行こう』

あの夜の公園で、そう言ってヨナをここに連れてきた。あれが正しかったのかどうか、今となっては千畝にもわからない。


──変異した個体は、やがて理性をなくし、人を襲う。だから、そうなる前に保護し、適切な治療を行う。

千畝はそう習った。


(適切な……治療って、なに)


あの夜は、それが正しいことだと信じていた。

だが、今は。

(わからないよ……)


なら、治療中の個体を見ることがないのはどうして。ワクチンを打った途端にヨナが苦しみだしたのはどうして。そしてヨナのかわりに誰があのワクチンを引き継いだの。そしてその人は今どこにいるの。


(聞けるわけない)


聞けない雰囲気があるのと同時に聞くのが怖い気持ちもあって、どうすれば、ヨナをここに連れてきたことの、そしてヨナを助けたことの責任がとれるのか見当もつかなかった。


道しるべが欲しい。そう思った。


(喜多嶋先生……)

中学時代の理科の先生のことが思い浮かぶ。

息苦しかった中学時代、まさに千畝の道しるべとなってくれたのはあの先生の言葉だった。


(今、先生に会いたい)

飢え渇くような気持ちでそう思った。


どうしたらいいのかわからないんです先生。考えて、答えが出るのが怖い気持ちがあるんです。でもだからといって考えずに流してしまうのはもっと嫌です。こんな時どうしたらいいんでしょうか。先生だったらどうするんですか。そんなふうに尋ねてみたかった。


きっと先生は、していたことの手を止めて、黙って話を聞いてくれる。あの理科準備室でいつもそうだったように。

急いで答えようとするんじゃなくて、よく考えて、言葉を選んでくれようとする先生の沈黙が千畝は好きだった。


あの先生に、今、会いたい。

(会えないけどね……)


「ちーせー、ちゃん」

はっとして振り向くと、いのりが立っていた。


手には湯気のたつマグカップをふたつ、持っている。蜂蜜と紅茶の香りが湯気にのって漂ってきた。それをひとつ手渡してくれながらいのりは言う。


「風邪ひいちゃうわよ」

気付けばとっぷりと暗くなっていた。


考えにふけっていた時はなんとも思わなかったが、そう言われた途端に夜風が冷たい。いのりが持ってきてくれたブランケットを千畝は礼を言って羽織る。


「いい場所見つけたわね」

「ここお気に入りで……あっ、もしかしていのりさんの場所を取っちゃいましたか」

ないない、といのりは首を横に振った。


「私のフェイバリットスポットは全部屋内だから。昔っから、屋外でリラックスする習慣はないのよねえ」

なるほど、さすが元モデルだ、と千畝は妙なところで感心してほの甘い紅茶を一口飲んだ。

いのりも隣で同じものを飲んでいたが、やがておもむろに口にした。


「そうね……千畝ちゃんなら、いいかな」

「えっ?」

なにがですか、と聞く千畝にいのりは手招きした。


「いいもの見せてあげる」


(いいもの?)


こっちこっち、お散歩しましょ。と言う彼女に促されるままついていくと、いのりは居住棟を出て研究棟の入り口へ向かった。

もう時間外でロックがかかっているそこを、いのりは慣れた手つきでタッチパネルを操作してあけてしまう。


(ええとこれは……どうやったんですかとか、聞かないほうがいいんだろうな……)


通路の電気はついておらず、非常灯がぼんやりと照らす廊下をいのりは迷いなく歩いていく。誰かに見つかったらなんて言うんだろう、と千畝はどきどきしながらついていったが、幸い誰ともすれ違うことはなかった。


長い廊下の先で、一カ所だけ明かりがついているのはミシュランの検査室だ。


「いのりさん、あの……」

「しーっ」


きれいな唇に指を添えて、いのりは中の様子にじっと耳をすませてから、するりとドアをあけて中に入る。

いいのかな、とは思ったものの、結局は千畝も後を追った。


見慣れた検査室には煌々と明かりがついていたが、そこには誰もおらず、声はもっと奥から聞こえていた。


ミシュランとカノの声だった。


検査室の奥には、これまで千畝が気付かなかった続き部屋があるらしく、そこの扉をいのりが中のふたりには悟られないようにそっと細くあける。それで声がもっとよく聞こえるようになった。

いのりが指さした入り口そばの大きな姿見には、二人の姿がうつっていた。

目を向けて、千畝は息を飲む。


大型の顕微鏡やら、なにに使うのかわからない、窓のない電子レンジのような機械やらが置かれた無機質な机の上には、そこだけ場違いなくらいに色鮮やかなドーナツがこんもりと積み上げられ、それをミシュランが次から次へと口に押しこんでいるのだった。カノはというとすぐそばに座ってそれを眺めているらしい。鏡には、褐色の足だけがうつっていた。


(えっ……)


女の子同士、こっそり集まって夜のおやつパーティ、なんていう雰囲気ではない。


ミシュランは、ひとつまたひとつとドーナツの山を崩していく。


はたで見ている方が不安になるほど淀みないリズムで、とっては口に運び、のみくだしてはまた次のを手にとる。

味わって食べるとか、楽しんで食べるとかからはほど遠い、まるでなにかの罰ゲームみたいな食べ方には妙な迫力があって千畝がそこから目をそらせないでいると、カノののんびりした声が響いた。


「糖尿病になるぞー」

聞いていた千畝が、言うべきことそれじゃないでしょと突っ込みたくなるような台詞だった。だが言われたミシュランの方も同じくらいの緊張感のなさで返事する。


「ならない、てか、なってない。私を誰だと思ってる? 半年に一度は自分で検査してるもの。数値に異常なし」

「うっそ、マジで」

「大マジ」

それを聞いたカノがげらげら笑う。


「そりゃあ人体の七不思議的な」

「これって研究対象になるかしら」

「学会に論文だしてみる?」

「学位取り消されるわ」


カノがまた笑う。ミシュランも同じくらい大きな声で笑う。

長々と笑ってから、ミシュランは次のドーナツを無造作にとって飲み下した。


「仕事中はいいの。昼間もね。ただ夜が」

「食べないといらんないの?」

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