第2章 謎解きなんかじゃない 3 事前注意
「これって、なんですか」
「センサー」
簡素にして不十分な答えが返ってくる。
「ここにあるやつ、ほら、これがカメラ。……んで、熱を感知すんの」
「熱感知センサー、って最初に言ったらいいじゃないですか……」
「おっ、お前ど素人なのにかしこいじゃん!」
「褒められた気が全然しません」
すべて電池を入れ終えて、カノはそれらを入っていたバッグの中に戻しながら言う。
「よくできました。帰りにコンビニでお菓子買ってやるな?」
「子供じゃないので結構です。だいたい、今のカノではコンビニ入れないのでは?」
その台詞に、運転席で南雲が吹きだしていた。
「ええー、だめか? 無理か?」
濃いスモークを張った窓ガラスにカノは自分の姿を映して自問自答している。
だめか、って質問するまでもないと思うのだけど、と千畝は思ったが言わずにおいた。
だって、瞳は怖いくらいに真っ白だし、爪は長々と伸びて側面と先端はナイフのようだ。口からは真っ白な犬歯がおさまりきらずに覗いている。こんな姿で外を歩いたら、即座に通報されてしまうに違いない。
「え、どーしても無理?」
カノはしつこく自問自答を続けている。
「ぜったいむりです、ひゃくぱーむりです」
放っておいたらいつまでも続きそうだったので、千畝は平坦な声で割り込んだ。
「全否定したね」
「無理なものは無理でしょう」
「こんにゃろ」
カノはホラー映画のモブゾンビみたいに、顔の前に両手をかかげて千畝に襲いかかるふりをする。があー喰っちまうぞおとご丁寧に自分の口で言う。
「なにしてるんですか」
「狼と赤ずきんちゃんごっこー」
「もう、爪危ないですから」
カノは千畝のすぐ目の前で、黒い爪をカチカチ言わせる。
それはほとんど肌に触れそうなくらいだったが、怖がらせるというよりは、ただふざけてじゃれているという感じだった。千畝も特に怖いとは思わず、目の前にあるカノの手をぐいと押しやる。
カノはほとんど力を入れていないらしく、そうすると手は簡単にどいた。
「お前が抵抗しなきゃ危なくなんかないよ。じたばたすると余計に痛いぜげへへ」
「それっ悪役! 悪役の台詞!」
「悪役だもーん」
「しかもすぐやられちゃうチンピラの台詞」
「……それはなんかやだな」
爪が目の前に伸びてくる。千畝が押しやる。また伸びてくる。押しのける。ぺちっと叩いてもみる。だが爪は懲りずに伸びてくる。
「カノっ、あんまり悪戯してると爪切りしますよ!」
体をよじって爪をよけながら言ってみると、カノは一瞬動きを止めて、「え……」とつぶやいた。
「爪切り……できんのか、これ?」
「大型犬用のやつで!」
「無理でしょ。できたら面白いですけど」
運転席から南雲も笑いながら口を挟む。
「その爪、モース硬度で七くらいありますからね」
「じゃ、ダイヤモンドカッターですね。いのりさんに頼んで購入申請かけてもらいます」
「やだ、この子怖いこと言う……」
しくしくと嘘泣きして見せるカノはそっちのけで、南雲はパソコンを取り出すと、信号待ちの間に一枚の画像をひらいて千畝に見せた。
「千畝さん、この画像って見たことあります?」
そこには、いかにも畑で使われていそうな器具がうつっていた。
「ガンツメ」
「え?」
「この、古い農機具の名前ですよ。畑起こしをしたり雑草をとったりするのに使われていた道具ですけど、変異体の黒爪によく似ているでしょう。誰が言いだしたんだったかな……研究所の誰かかな。とにかく僕らは、変異が進んで長く伸びた爪のことを、そう呼んでるんですよ。呼びにくいですからね、正式名称だと」
「皮爪硬化症変異フェーズ五ないし六形態」
千畝が答えると、南雲は満足そうにした。
信号が青になって再び車が走りだすと、あたりの景色がいつの間にか変わっていることに千畝は気づいた。
さっきまでさみしい国道をずっと走っていたのに、いつの間にこんな街中へ来ていたのだろう。思わず窓ガラスに顔を近づけて見てしまう。
あかりの消えたオフィスビル──駅前の雑踏──二十四時間スーパーの看板──酔っぱらった学生たちがたむろするビル角の自販機、夜でも人が出入りしているコーヒー専門店の店先。
なんでもない見慣れた光景のはずなのに、千畝の胸には懐かしさとも慕わしさとも、ほほえましさとも渇望ともつかぬ気持ちが渦巻いていた。
「あの、窓開けてもいいですか。少しだけ」
いいよ。いいですよ。二人の返事がかぶった。
濃いスモークで外から覗けなくしてあるのは、変異したカノを見せないためなのだろうから、千畝は本当にほんの少しだけ、窓をあける。
それだけでも十分だった。
三センチほどあけた窓から、夜の街の空気がすぐに流れ込んできて、千畝は目を細める。
春から夏にさしかかる頃の、夜の街の匂い。
(──大好き)
もう二度と嗅げないだろうと思っていたにおいをいっぱいに吸いこんで、その時の千畝は胸が痛いほどに幸せだった。
◇◇◇
駅から少し離れたビル街にある公園の横で、ワゴンは止まった。
公園の名前は四ツ岩公園。広さはおよそ十八ヘクタール。
かつて城壁を作るのに使う石切り場だった名残りで、大きな岩がごろごろと露出しているので、それを生かして緑地化されたのだと南雲の資料には書いてあった。入園は基本的に無料、敷地内にあるスポーツ施設だけが有料で、管理人が常駐している。
その管理人が警察に訴えている声が、風に乗って千畝のいるところまで聞こえてくる。
今日も出た、まだ暗くなってなかったからはっきり見えた、すごい牙だった、襲われるかと思った、早くなんとかしてくれ。
南雲は慣れた様子でそちらへ歩いていくと、軽く挨拶しながら話に混ざった。
「どうも始めまして……わたくしこういうものです、怖い目に遭われましたね、お怪我はないですか? ……あ、どうぞ、身分照会お願いします」
南雲が警察と話している間、カノはフードを目深にかぶったまま、ワゴン車の脇でひっそりと待機している。
公園のまわりは警察がぐるりと黄色いテープを貼って立ち入り禁止にしているため、一般人の姿はないが、規制線の向こう側で集まっている野次馬も、不思議とカノには目を止めない。
それくらい、カノの存在感の消し方は徹底しており、その様子はいつか映画で見た熟練の軍人を彷彿とさせた。
(うーん……)
なんだかいたたまれない気持ちで、千畝はそわそわとワゴン車のまわりをうろつく。
(私、なにもできない……)
「千畝、お前の任務を教えてやる」
不意にカノが口をきいた。
「任務?」
「ひとつ、流れ弾には当たるな」
(あ、当たるな?)
「ふたつ、人間は殺すな。変異体もなるべく殺すな」
「えっと……」
どうしよう、と千畝は頭を抱えたくなった。
突っ込みどころが多すぎて追いつかない。カノは爪音を立てながら、一本、二本と指を立てて、三本目を立てながら続けた。
「まあ、やむを得ず殺してしまった場合はあたしがなんとかしてやるけど。最後、怖いと思ったら大声で叫べ。必ず間に合って助けてやる」
とんでもないことをいくつも言われて反論したかったはずなのに、カノの最後の一言で、溶けて消えた。
「はい……」




