愛の香辛料
クード・ヴァルソラ・リディアードは、カフェのシェフにして、境界駐留軍のまかないのおじちゃんだ。
もとはジルガンサ海軍のミネルバの船の船医であったが、
ひょんなことから発揮した指揮能力が認められ、大提督までのぼりつめた変わり種であった。
彼がジルガンサから亡命し黒の森に迎えられたのは、また別の物語であるが。
あの日、
日頃可愛がっている坊っちゃんが、泣きながら作業部屋に駆け込んできた晩に
クードは己の無力さを苦々しく思った。
目の前に寝かせられているオリバーに、
彼が打てる手は、何もなかった。
深刻な魔力の欠乏による多臓器不全。
常日頃はオリバーを守っている風の加護すら感じられなかった。
その横で知る限りの治癒魔法を唱え続けるレイリークも、真っ青な顔をしていた。
『…オリバーは、治癒魔法がきかないんだ。
もとの魔力量が異常に多いから、生命力を底上げする系の魔法は効かないんだよ。』
『…わたくしも、けして少ない方ではないはずです。』
『隊長だって規格外だけど、それでも効かないんだ。』
クードは、震えるレイリークの肩に手をおいた。
『だけど、あんたたちの声は届くかもしれない。』
オリバーは、誰よりもレイリークを信頼し、アスランを愛しているから。
クードは、足元に控えている白い猫に話しかけた。
風の精霊シッキムの眷属である白い猫の容姿は30年以上変わらない。
『シッキムを呼んでくれ。助けがいる。
俺ではケアできない。』
『にゃあああぁん。』
白い猫は応えると、アスランの背中に頭を押し付けた。
『ふ…ィンディー?』
アスランは泣きながら白い猫の頭をなでた。
『じーじを呼ぶの?』
『にゃあああぁん。』
アスランはしゃがむと、ウィンディーを抱きしめた。
年若い風の精霊の力を借りて、
ウィンディーは主人を探す。
一人と一匹の回りを風がまわり始めた。
猫の毛が逆立ち、アスランの背中に黒い翼が出現する。
『『風のみなさん。
風の精霊のみなさん。
風の司のシッキムさまに伝えてください。
黒の森に帰ってきてって。
時を超えて、空を超えて、今すぐここに…。
ジージ‼パーパを助けて!』
強い風と強い光に、クードとレイリークが目を庇った次の瞬間。
ぼわんっという音の後に、部屋にはシッキムがいた。
『お…オリバーに何かあった…?』
泣きじゃくるアスランと疲れた顔のウィンディー、悲しげな眼差しのらっしー、真っ青な顔のレイリークを順にみて
シッキムはクードに問いかけた。
『魔力欠乏。ほとんど死んでる。』
クードは絞り出すような声で伝えた。
シッキムが言葉を紡ぐと、金色の光がオリバーを包んだ。
『あ…オリバー…さま…』
オリバーの呼吸が止まったのをみて、レイリークの瞳に涙が溢れる。
『大丈夫…。オリバーの時を止めただけだから。
レイリーク隊長、お願いがある。
イルハンを連れてきてくれるかな。
オリバーの片割れの。』
レイリークはボロボロと涙を流しながらシッキムの言葉を聞き、答えた。
『はい、今すぐに…!』
レイリークは立ち上がると涙も拭わずに駆け出した。
そんな後ろ姿をシッキムは不思議そうに見た。
『…ねぇ、リディ。隊長の涙がオリバーに落ちたときさ…』
『…光ったな、ピンク色に。』
旧友に懐かしい名を呼ばれたまかないのおじさんは、妙にハート型にみえるピンクの光を、たしかにみた。
☆
『これを完食させてこい。』
『承知いたしました。』
オリバーが食事を再開しはじめてしばらくは
クードは渾身の療養食をレイリークに託した。
『しっかし、あの偏食のオリバーがよく、あんなん食べきるよな。』
エディンは、緑色のどろどろとしたものが満ちた茶碗を遠目に眺めて、呟いた。
『いや、それなんだけどさ。』
シッキムがそんなエディンの感想に、返事をする。
『オリバーがさ。隊長に食べさせてもらうと何もかもが美味しいとか言い出したんだよね…』
『へー。隊長の手からなんか出てんのかな。
味塩的な』
『いやいやいや。んなわけないと思うけど…。
恋なのかな。』
『鯉。』
『…。』
しかし、実は正解はエディンだったのである。
のちに、ブラッドベリー家の歴史に異様に詳しいシアーシャが解説してくれたのである。
『たぶんそれは、ブラッドベリー家に伝わる秘技、愛の一匙です。』
『!』
『ブラッドベリー家のものが、最愛の相手に手ずから食べさせるとき、どんなものでも浄化され、滋養に満ち、大変な美味になるのです。
……ちょうどいいタイミングです。
実験をしたいと思います。』
食堂にレイリークが入ってきたのを目ざとく見つけたシアーシャは、サラダバーからセロリスティックを、他のテーブルからアスランをピックアップしてきた。
『ここに、大変子供に人気のない野菜と、子供がいます。
さ、アスラン、どうぞ。』
シアーシャはアスランにセロリスティックを差し出した。
『それ、嫌いだもん。』
『背が伸びますよ。』
アスランはセロリを受けとると、一口の十分の一程をかじりとって、心底不味そうな顔をした。
『ではアスラン。そのセロリスティックを、レイリーク隊長から食べさせてもらって下さい。』
『ええ!?意味わかんない。』
『隊長!好き嫌いをしている子がいます‼』
シアーシャがすっと手をあげるとレイリークが近寄ってきた。
『アスランがどうかしましたか?』
『セロリを食べません。』
『だって嫌いだもん。』
『セロリは体にいいんですわ!
食べず嫌いですわ‼
隊長、食べさせてあげてくださいまし‼』
レイリークは、うーん…と唸るとセロリスティックをつまみ半分に折り、半分を自分の口に放り込んだ。
咀嚼して飲み込んでから、もう一度、うーん…と唸る。
そして、
『アスラン、あーんしてごらんなさい。』
アスランの口元にセロリを寄せた。
『えー!』
文句を言いながらもアスランはほんの少しだけ、セロリをかじりとった。
そのあと、目を丸くしてほっぺたを押さえた。
『…美味しい…かもしれない。』
完全に、観客と化したシッキムは思わず拍手をした。
『どうなさいましたか?シッキムさま。』
『いや、うん。なんでもないけど、ありがとう。』
『え?』
『あはは。』
シッキムは、ようやく、旅を再開できるような気がした。




