第三十九話 神籬(ひもろぎ)
ゆっくりと重い瞼を持ち上げる。
両目に最初に映ったのは、見覚えのある、年季を感じさせるくすんだ白い天井。
滲むように覚醒する意識に、薙斗はここが音羽家のリビングであることを悟る。ここでようやく、薙斗は自分が今まで眠っていたことを知った。
視線を下に移すと体の上には、丁寧に布団が掛けられている。
「ん……、つっ――!」
上体を起こそうとして、けれど、腹部からくる突然の痛みに、寝ぼけた思考が瞬時に引き起こされた。
「ナギ、まだ動いたらダメじゃない!! 珠々香ちゃんがせっかく傷を塞いでくれたのに、また開いてしまうわよ!」
視界の外から聞き慣れた声が、血相を変えて近付いてきた。
薙斗の背中に優しく手を当てがって、そっと身体が布団に戻るのを補助してくれる。
「水葉……」
強い口調とは裏腹に、心底心配した様を薙斗に見せる水葉。
ピンク主体の生地に、苺があちらこちらに描かれた、可愛らしいパジャマ姿でいるところを見ると、どうやら水葉もさっきまで寝ていたのかもしれない。それも当然で、薙斗が家を出て、夜の境内に足を踏み入れた時には夜の1時を過ぎていたのだ。
落ち着きのない水葉とは対象的に、水葉の背中越し……部屋の壁沿いには紅栗瀬里菜がいつもの落ち着いた感じで座して、こちらを見ていた。眠っている珠々香を膝枕して、労るように頭を撫でている。
薙斗の視線に気付いた紅栗が、軽く会釈した。
時計の針は4時29分を示しており、秒針が淡々と刻まれていく。
普段から朝起きるのが早い音羽家だが、晴れていれば、まだ薄明が見えるだろう時間帯。いつにも増して格段に早い。
だが、その理由は明白過ぎたので、寝起きの思考でも、薙斗はすぐにこの状況を理解できた。
「紅栗先輩が珠々香を連れて来てくれたんですね? こんな時間にありがとうございます」
「いえいえ。わたくしは本当に連れて来ただけなので。お礼は珠々香ちゃんが起きたら、言ってあげてくださいな。……それより、傷の具合はどうです?」
上半身の大半を包帯が埋め尽くしており、薙斗は自身に巻かれている包帯の上に手を遣ると、腹部から胸部にかけて手を這わした。
押せば、押した分だけ痛みとなって返ってくる。まったく動けないというわけではないものの、おそらく歩くのにも一苦労しそうだなと、薙斗は己の状態を丁寧に確認し続ける。
「今、なんとか歩けそうだなんて思ってないわよね、ナギ? 裂傷や体に空いた穴は珠々香ちゃんが塞いでくれたから見た目ほど酷くないけど……足の方はそれぐらいじゃ済んでないわよ……」
「そうか……」
他人事のように薙斗は答えた。水葉が言わんとしてることが分かって、尚そうした。
最強の仙女を相手に、薙斗が手持ちの力だけで勝負するには、あまりにも実力が足りていなかった。それゆえ不足分を補うために、薙斗が用いたのは自身の限界を超えた過剰なまでのエネルギー操作。
手足の筋繊維は千切れ、血管がプツリと切れる音を聞き、苦痛と共に吹き出た赤い飛沫は自身を血塗れの姿にさせた。
それは自分を犠牲にした自爆技に他ならない。
そうまでしても戦わなければならなかった相手――
魔女名は『剣撃』――……名は逢花。
「……逢花はどうなった?」
恐る恐る聞く薙斗の視線と、言われて一瞬、瞳が揺らいだ水葉の視線がしばし交差する。お互いを見つめ合うのも、そう長くは続かずに、水葉が先に視線を逸らした。
逸らした視線の先には、部屋を出入りするための障子があり、今は閉じられている。
言葉を聞かなくとも、水葉がなぜそうしたのか、薙斗には想像がついた。
水葉が見ているのは、視線を遮る障子の先。
昨夜、水葉との会話の中でも出た、月之杜神社の神籬とされる桜の大木を見ることができる。先月までは薄く桃色に映えた花びらで自身の周りを満たしていたが、今はその限りではない。
ここで薙斗は、逢花と水葉と共に、神の依代である神籬の桜に誓ったのだ。
三人一緒にいることを――
最初は、三人それぞれがマジョカルに狙われる可能性を危惧して、共に協力し合おうというものだった。
だが、今はそれだけじゃない。
一緒に暮らし始めて二ヶ月に満たないが、それ以上に付き合いのある友人……親友とも思ってるし、家族のようにも思っている。実際に血の繋がりがあるわけでは当然ないが、それぐらい気を許しているということ。
少なくとも薙斗は。
いや、皆も自分と同じ気持ちのはずだ――そう、薙斗は信じていた。
不安と期待が混ざり合う、なんとも評し難い気持ちが、薙斗の胸中で複雑に絡み合う。
そこに逢花がいると願い――
桜の大木を塞いでいる障子を恐る恐る開ける。
薙斗だけじゃなく、水葉と紅栗の視線が一カ所に集まる。
先月まで、その華やかさゆえに見る者の心を虜にしてきた、見事なまでの美しい桜の花衣装はもう見当たらない。花弁もことごとく散った後で、地面には落ちた花弁の跡すら残っておらず、儚げな姿を見せていた。
最早、阻むものは何もない。
木の側に誰かいれば、すぐにわかる。
「――――っっ!!」
そこに逢花は――……




