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家譜 ~中書省員外郎 李成安の生涯  作者: 早瀬 構
第三部

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第30話

1.


 一二二八年十月半ば。朔北の風が冷たくなるころ、私どもは燕京へ戻る道を取っていた。


 帰り荷は重かった。


 馬の背に載るもの、荷車へ積むもの、そのどちらも来た時より明らかに厚い。布地の見本、染めの指図、採寸の覚え書き、返礼に回すべき小品、それに草原で拾った細い口銭の種まで、幌の下にはそういうものが厚く詰まっていた。


 若様――成安は、そういう重さを見ると、まず縄のかかり方と車輪の軋みを見た。


「左へ寄っている」


 そう言って、荷の積み直しを命じる。人が「これくらいでよい」と思うところから、もう半歩だけ細かい。おかげで道中の崩れは少なかったが、そのぶん、私どもはいつまでも若様の細かさに付き合わされる。


 私は半ば呆れ、半ば機嫌よく、その横顔を見ていた。


 悪くない夏であった、と私は思っている。


 若様の役に立てた。オルドを渡り歩いた。ネストリウス派の縁も、宦官同士の空気も、使えるところでは使った。ついでに、韓家の一冬を埋めかねぬほどの仕立ての話まで持ってきた。


 持参した半端紙は一枚残らず潰れ、肩、袖、裾、合わせの深さ、好まれる色の癖まで、紙の端に細かく書きつけてある。


 あれを無事に仕立てさせねば、私は面目を失う。


 だが、面目を失わずに済めば、これは悪くない話だ。私はそう思っていた。


 若様は、私ほど機嫌よくはなかった。


 稼ぎが悪いわけではない。帰り荷は増え、トルイ家にも、李家にも、立つ利は立った。だが若様は、利が立つほど顔色が晴れぬことがある。今回の草原は、まさにそういう夏であった。


「若様」


 私は荷車の横を歩きながら言った。


「韓家の一冬を

  独占しそうですな、あっはっは」


 若様は、こちらを見もせずに答えた。


「笑い事ではない」


「仕事があるのは結構なことでしょう」


「お前はすぐそういう勘定になる」


 私は胸の内で、そういう勘定で何が悪い、と少し思った。だが口には出さなかった。若様は、帰り荷の重みを、私とは違う重さで見ておられるのである。


2.


 その日の夕刻、道の先に一群の影が見えた。馬上の人影と、供の者どもの幌車である。私は最初、どこぞの使節かと思った。だが若様はひと目で察したらしい。


「晋卿様だ」


 ほどなくして一行は近づき、先頭の騎手が手綱をゆるめた。


 耶律晋卿様――燕京で紙墨商の顔をしておられた時とは違い、いまは旅の途中の高官の顔であった。だが、目の奥だけは少しも変わっておらぬ。よく見て、よく残す目である。


 若様と私は下馬し、礼を執った。


 晋卿様は私どもの荷をひとわたり見て、それから若様を見た。


「ほう」


 口元だけで、わずかに笑う。


「戻る道だというのに、

  来た時より賑やかではないか」


 若様は短く答えた。


「ありがたいことに」


「働きぶりは聞いている」


 晋卿様はそう言われた。


「で、草原はどうだったかな」


 私はその問いに、少し気が緩んだ。労いのつもりで聞いておられるのなら、若様も荷の順や損耗の話でもして済ませられると思ったのである。


 だが違った。


 若様が「荷は滞りなく――」と申し上げかけたところで、晋卿様は静かに遮られた。


「そうではない」


 それだけで、道の空気が少し締まった。


「お前がどう動いたかは聞いている。

  私は、草原をどう見たかを

  聞いているのだ」


 私は横で、そっと若様の顔を見た。ああ、これは面倒な問いだ、とすぐ分かった。荷の話では済まぬ。手柄話でも逃げられぬ。若様が、この夏をどう言葉にするところまで来たか、それを量る問いなのである。


 若様はすぐには答えなかった。


 風が、荷車の幌を鳴らした。


3.


「……大きいお家でした」


 やがて若様は、低く言われた。


「トルイ様は抱えずに流される。

  子らも浅くはなく、

  お妃様方はさらに深い」


 晋卿様は何も言われなかった。続きを待つ顔であった。


「ですが、大きいだけでは

  家は保たぬとも思いました」


 若様はそこで一度、目を伏せられた。


「強い方が退けば、

  周りの者ほど勝手に次を見たがる。

  家々は寄るときは寄り、

  離れるときは離れる。


  そのあいだに残る薄い借りが、

  いちばん始末が悪い」


 私はその言い方に、少し感心した。誰それが気に入らぬ、とは申さぬ。ただ、草原で見た貴人どものぬるぬるした集合離散の気味悪さだけを、苦いまま差し出している。


 晋卿様はなお黙っておられた。


「帳面に載る利だけなら、

  まだ扱えましょう」


 若様は続けられた。


「ですが、あちらでは

  帳面に載らぬ厚みの方が重い。


  誰が流し、誰が受け、

  誰がそのあとを縫うか――

  その順で家が保っておりました」


「ほう」


 晋卿様の声は、そこで初めて少しだけ柔らいだ。


「それで、お前は何を学んだ」


 若様は、少し苦笑いのような顔をされた。


「私は、損を止めることしか

  できぬと思っておりました」


 それから、帰り荷の方へ目をやる。


「今も、それほど違いはございません。

  ですが、止めるだけでは足りぬ家がある。

  強い家ほど、別に保つ手が要ると、

  ようやく分かりました」


 晋卿様は、その答えをすぐには評されなかった。旅装のまま馬上で少し風を受け、それから乾いた笑いを漏らされた。


「そうか」


 卑下でもなく、勝ち誇りでもなく、同病相憐れむに近い笑いであった。


「私が十三年苦労しておることを、

  お前が一夏で片づけては困るからな」


 若様は、そこでようやく少しだけ顔を緩められた。私は横で聞きながら、なるほど、この人は全部知っていて、なお若様に言わせたのだと分かった。


 報告のためではない。見立ての痛みが、きちんと本人の腹へ落ちたかを確かめるためであった。


4.


 しばらく立ち話をしたのち、晋卿様の一行は先へ進み、私どももまた燕京へ向かった。日はもう低く、風は朝より骨へ沁みた。


 若様はしばらく黙っておられたが、やがて私へ言われた。


「お前は、悪くない夏だったのだろう」


 私は素直にうなずいた。


「ええ」


「なぜだ」


「役に立てましたから」


 私は笑って答えた。


「若様のお役にも立てましたし、

  オルドも渡り歩けました。


  布の仕事まで取ってきた。

  帰り荷も増えた。

  あれだけ半端紙を潰したのです、

  仕立てがうまくいけば上々です」


 若様は鼻で息を吐かれた。笑ったのか、呆れたのか、どちらともつかぬ。


「お前らしい」


「若様は違いましたか」


 そう問うと、若様はしばらく答えず、やがて前を見たまま言われた。


「……役に立つほど、気が重くなった」


 私は、その言葉に少し黙った。


 そうなのであろう。若様は草原で、ただ荷の順や帳面の綻びを見ていたのではない。家の厚みと、座の重みと、人が寄っては離れる時の気味の悪さまで、見てしまったのである。


 だが私は私で、そういう重みを全部背負って働く柄ではない。


 私は半端紙を潰し、口を繋ぎ、役に立ち、冬の仕事を持ち帰る。そういう者である。


 道の先には、燕京の冬が待っていた。着けば荷はほどかれ、人はまた動き、冬の仕事が始まるだろう。


 その先のことまでは、まだ私どもも見てはいなかった。


 ただ、荷は重かった。


 重く、よく締められていた。


 私は手綱を引き直し、若様はもう一度だけ荷縄を見た。それから二人で、冷たくなった北の道を、燕京へ向けて進んだ。

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