ルミカ・バウティ、耳かき地獄に落ちる
ジルムートは、あれから接触して来ない。
クルルス様の護衛として、大人しく職務を全うしている。
お陰で平穏に毎日を過ごせている。
耳かきを作って売るには、数か月の準備期間が必要みたいなので、出回るにはまだ時間がかかる。
いつか城の侍女に出回るかも知れない。それを楽しみに待とうと思う。
セレニー様は何も無い日にも、朝から華やかな衣装や宝飾品を身に付ける様になった。
公務で外に出る訳でも無い。お客様も来ない。ただクルルス様の為にだけ、着飾っているのだ。
侍女達が、美しいとか、クルルス様がお喜びになられる。なんて褒めるから、セレニー様は嬉しくて、それにいくら掛かっているのか考えない。
経済の勉強はされていたけれど、物の価値はあまり分からないのだろう。
パルネアの侍女は、最初の一年の研修中に宝物庫の宝石磨きの当番が必ず回って来る。
その際に手入れ方法の講習があるのだが、大きさによって、この程度の価格であると言う話も聞く。
そして布に関する講習もある。
王族の衣類を管理する為に必要だからだ。
布の種類による手入れの方法と、希少布地の生産方法、色使い等を学ぶ。
王族が衣装に困った場合、侍女は相談に乗る必要がある。お針子は仕事柄、似合う服を勧めて来るが、予算を度外視する傾向がある。
パルネアの王族は毎年衣類の予算を、議会によって組まれている為、それを超えない様に服を作る。
セレニー様の服は、私とアネイラで毎年計算して予算内に収めていたのだ。
服を最初から決めてしまっては可哀そうだから選ぶ自由は必要だ。でも高くなるならそれは止める。
前任の侍女の助けを借りながら、必死で考えたものだ。
今思うのは、パルネアは平和で勤勉だけれど貧乏な国だったのだと言う事だ。ポートは豊かだ。貧富の差があっても、人が集まって活気がある。
夜会も城で頻繁に行われていて、商人や議員達が着飾って出席している。
クルルス様も、セレニー様の無駄遣いに対して何も言わない。大した金額では無いと思っているのだろう。
ここに居ると、自分の培った価値観が根底から覆されてしまう。
だから、セレニー様を諫める事が出来ない。
贅沢をしてはいけませんと言えば、セレニー様が侮られるかも知れないからだ。
私は無力だ……。
もう図書館へ行く用事も無かったけれど、夜は決まって図書館へ行ってしまう。まだ私に出来る事があるかも知れないと、情報を手に入れる為だ。
今の所ポートの日常を知りたくても、百年前の日常についての本しか見つかっていない。城では孤立しているし、パルネアの常識は通じない。
後、やる気が無い。知識を取り込まなければ。と言う意欲があまり無いのだ。分かった所で、セレニー様に聞き入れてもらえるとは思えないのだ。
セレニー様の笑顔が、何か言う都度陰ってしまう。
それを見ていた他の侍女達が、すかさず間に入って来て優しくするのだ。どんどんセレニー様が遠くなるし、逆効果になっている気がするのだ。私のやる事が、意味のある行動に思えなくなって来たのだ。
そんな事を考えている時に、入り口の方で音がした。誰かが図書館に入って来る。
こんな夜に誰?
私が夜に図書館に居る事は、周知の事実だ。
セレニー様に何かあった場合、ここに居るから呼んで欲しいと言ってあるからだ。
慌てている様子はなく、男の重い足音だった。しかも一人では無い。
足音がランプの明かりと共に近づいて来る。
何が来るのかと本棚に隠れて様子を見ていると、来たのはジルムートだった。
背後には、見覚えのある綺麗な顔の騎士が立っていた。
「ローズ?」
ジルムートは私が本棚から顔だけ出して様子をうかがっているのを、怪訝そうに見ている。
「何か用ですか?」
警戒状態のまま私は言った。
「謝罪に来た」
「もういいです。お帰り下さい」
「ほら、本人もそう言っています。俺が謝る必要なんてないでしょう?」
背後の綺麗な男が、そんな事を言う。
ジルムートが背後の男の方に顔を向ける。
「黙れ」
どんな顔をして言ったのか知らないが、空気が一瞬だけゾワっとして、綺麗な騎士は顔を引きつらせて口を閉じた。
こちらを向いた時にはいつものジルムートに戻っていたけれど、凄く怖い。
更に警戒して、体がどんどん本棚の奥へと移動しようとするのを必死で止める。今目を逸らして、間合いを詰められる訳にはいかない。
ジルムートは私に平気で触る。私もそれを許して来た。……主に耳かきの為だが。初対面から関係が崩壊しているから、一定の距離感を保てないのだ。
膝に乗せる、手首を掴む、あらゆる非常識に、耳かき一本で柔軟に対応してきたが、私は未婚で、ジルムートも独身。褒められた行いでは無い。
「こんな夜に、未婚の女の所に来るのは非常識です」
とりあえず、正論で追い返そうと試みる。
「昼間に俺が声をかけると迷惑になる」
それもまた真理。
「声をかけてもいいなら、かける。こいつも連れて行くから目立つと思うが」
やめてぇぇぇ!
脂汗をかいて固まっていると、ジルムートがちょいちょいと、手招きをする。
「悪い様にはしないから、こっちに来い」
「触らないって約束して下さい」
手首を掴まれて、逃げられない状態で問い詰められた挙句、大泣きなんて……二度としたくない。
あの時ポートに来て以来の、積もり積もった物が爆発したのは確かだ。けれど、爆発するまで私の心に無遠慮に入って来るジルムートにも腹を立てていたのだ。
未だに恥ずかしい。ジルムートを見かけるだけで、逃げ出したくなる程に。
返事が無い。
「ジルムート様」
再度催促すると、渋々と言う様に返事をした。
「分かった」
隙あらば耳かきを私にさせようと考えているのだ。私の心理なんか無関係に、自分の快感を追い求めている。酷い奴だ。
口に出した以上騎士たる者、約束は守るとは思うが、手の届かない範囲で止まる。
ジルムートは目上の騎士で、侍女としては適切な距離だ。
「……説明をしてもいいか?」
「どうぞ」
むっとした様子で視線を逸らしている綺麗な騎士を、ジルムートが背後に向かって親指で肩越しに指さす。
「先日、お前に暴言を吐いたのはこいつだな?」
一瞬違います。とか、覚えていません。なんてとぼけて話を終わりに出来ないか考えてしまうが、無理だとすぐに思う。
綺麗な騎士は、謝る必要なんて無いと言っていた。身に覚えが無いと言うのではなく、暴言を吐いた事を認めた上で開き直っているのだ。犯人が自白している以上、被害者は言い逃れが出来ない。
「……はい」
正直に答えると、ジルムートが大きく息を吐いた。
「済まない。これは俺の弟で、ルミカと言う」
ジルムートの弟?
思わず顔を見比べてしまう。
いつも生真面目な顔をして護衛をしている、青みがかった黒髪のジルムートとは、似ても似つかない。
ジルムートの顔には、女性的な要素が無いのだ。高い鼻、切れ長の鋭い目。筋肉も服の上からでもしっかり付いているのが分かる。女装したら気持ち悪い姿になるのは、一目瞭然だ。
しかしルミカは、背こそ高いが肩幅もジルムート程無いし、女性に化けられそうだ。それ程に、綺麗な顔をしているのだ。
「本当ですか?」
疑うと、ジルムートは言った。
「母親が違うのだ」
一夫多妻制。ポートでは廃止されたと事前に習った。三十年前の事で、前の国王様は王妃様一人を妻として、クルルス様しか世継ぎが居ない。
王族はそうだが、世間一般はすぐに切り替えられなかった。と言う事なのだろう。
「似ていないが弟だ。俺に寄って来る女を排除しようとする所がある。迷惑をかけた」
どれだけジルムートの事を好きなのか知らないが、勘違いは訂正しておく。
「私が寄って来た訳じゃありません。ジルムート様が、勝手に因縁をつけて来たからこうなっているだけです」
ルミカは、忌々しそうに私を睨んだ。
「たかが侍女の分際で」
またジルムートが背後を向いた。
「黙れと言った」
空気が黒い。ルミカはまた慌てて口を閉じた。
こちらを向いたら、空気の黒いのが一瞬で消えた。ジルムートは何か目に見えない怖い物を飼っていて、自由に出し入れできるらしい。
「俺の家は古い家系で、代々騎士として城に勤めている。しかも俺はクルルス様のお側に仕えているから、利権欲しさに娘を差し出す家が多いのだ。ルミカが俺の近くに女を近づけないのには、理由があるのだ」
何となく分かる。だがしかし、
「ジルムート様が、誰か一人にさっさと決めれば済む事です。その出会いの機会を潰すルミカ様も問題です」
「俺の仮眠用の部屋のベッドに入り込んでいるとか、家の玄関前に絶望的な表情で立ち尽くしているとか、飯に薬を盛るとか、そう言う女ばかりなのだが、その中から選べと?」
「あの、舞踏会で見初めるとか、知り合いからのお誘いでお茶会に参加して会うとか、そう言うパターンは無いのですか?」
「無い。俺は、舞踏会には警備だから参加しない。茶会は論外だ」
「何故、お茶会がダメなのですか?それでは出会いの場がありません」
「ポートは一夫多妻の歴史が長い。一人だけを妻にすると言う観念が、親世代に無い。茶会で複数の女が集まった場合、全員を男の妻にするのが決まりだったんだ。三十年前まで」
……え?
「男一人に対して、複数の女が引き合わされる。そして全員を妻にする。それがポートの茶会だ。一夫一妻になった今、男を招いて茶会をする家など無い。一人しか選ばれないんだからな」
「あの……女の人は、夫を誰かと共有するのは平気なのですか?」
パルネアでは、愛人を囲えば男性が後ろ指を指される。
ジルムートもルミカも険しい顔になった。
「平気じゃなかった。だから一夫一妻に法律が変わったのだ」
法律が変わっても、現実が追い付いていない。そういう事だろう。ジルムートは法律改正の後で生れている。それなのに更に後にルミカまで生まれている。別の女性から。
因習と言うのは根深い。それはセレニー様のお輿入れで十分に理解している。
「事情は分かりました。もう気にしていません。やっぱり私には近づかないでください」
「待て、ルミカが謝っていない」
「事情を理解しました。謝罪は不要です」
そう言うと、ルミカがにんまりと笑って勝ち誇った様な顔をした。
悔しいが黙って置く。ジルムートの家が権力闘争の真っただ中にあり、ポートがまだ一夫多妻の時代を引きずっている事が分かっただけで十分だ。
ジルムートの近くに居るのは、危険だ。
「じゃあ最後の頼みだ。聞いてくれ」
どうせ耳かきでしょ?いいですよ。やりますよ。なんて思っていると、予想外の事を言われた。
「ルミカに耳かきをしてくれ。本気のやつを頼む」
「「は?」」
私とルミカが、同時に言った。
「兄上!耳かきと言うのは、あの女に俺の耳に棒を突っ込む許可を与えると言う事ですよね?」
ルミカは思い切り、私を指さしている。物凄く焦っている。
「そうだ」
「殺されます」
「殺しません!」
思わず言い返す。
「屈辱で死ぬ!」
ルミカが即反論する。
耳かきが屈辱ですって?耳かきされるのがそんなに嫌?へぇ……。
頭がすっと冷えて、腹の中でメラメラと怒りが燃え上がる。
「一回限りです」
私がそう言うと、ジルムートが頷く。
「決して手を抜かず、最後まで頼む」
「分かりました」
耳ほぐしまでフルコースでやらせていただきましょう。耳かき地獄に叩き落してくれるわ。
「あ、兄上?」
ルミカは戸惑っているが、私もジルムートも内心穏やかでは無い。耳かき信奉者の逆鱗に触れたのだ。
私は長椅子に座り、いつも持ち歩いている耳かきを出した。
「さあ、どうぞ」
にこやかに膝を勧める。
ジルムートは、例の黒いのを出してルミカに命令した。
「言う通りにしろ」
ルミカは真っ青な顔をして、私の膝に頭を委ねたのだが、兄と同じく片耳で耳かきの偉大さに屈服し、もう片方もして欲しいと懇願した。両耳きっちりやる頃には、美形も台無しな崩れ具合だった。
でも、もうやってやらないもんね!