第二話 食い荒らす者たち②
「何をやっているんですか、貴方はっ!」
正義感を纏わらせた女の声が陶酔し切った俺の脳髄を揺らす。今日は平日、その夕刻、繁華街から少し離れたこの路地――政府自治体から放棄された区画に響いた女の声は鋭く、そして若かった。
足元の老人の目に宿った希望の光を見て、俺はげんなりする。
気に食わない。
俺は老人が余計なことを喋らないように、今まで避けていた弛んだ喉に硬い爪先を叩き込む。くぐもった咳払いと共に吐き出した血を見て一時の満足を得るが、あの悲鳴は当分聞けないだろうと思いだし落胆する。
「やめなさい! その人から離れて!!」
「つ、通報しますよ」
面倒なことに女は二人いた。それは神様から聞いていない。恐らく高校二年生、留年を重ねてなければ十六、十七と言った年頃だろう。昨年まで中学生の高校一年生にしては垢抜けて、来年受験や進路の悩みがある高校三年生ならもう少し分別が付く筈だ。
初めに叫んだ方は髪が短く、快活で気が強いのだろう。動き易さを優先した服飾、整った容姿にサバサバとした性格、きっと同級生と仲良くなれど言い寄られた経験は少なく、男性に慣れていると自負していても客観的に見ればそれ程ではないに違いない。正義感が強そうなのは実際目にして分かったが、頭のキレはあまり鋭くない。反撃や不測の事態には弱そうだ。そもそも頭が良いのなら、見ず知らずの他人の悲鳴を聞いて路地裏に飛び込みはしない。相手が俺のような恵まれた体躯の成人男性なら、尚のこと。
その隣に立つ通報すると控えめに口にした女子高生は髪が長く、柔らかな面立ちだ。容姿も悪くなく、服装などから分かる穏やかさから同級生からの人気も高いに違いない。押しに弱そうな自身の弱点を補完する為に短髪と行動を共にしているのは容易に想像がつく。意思の弱さも折り紙付きだ。短髪に言われるまま、その背を追って路地裏にやってきたことで証明されている。
「ま、待ってくれ。通報は止めてくれ!」
通報と聞き老人の目に翳りが刺したのを俺は見逃さない。警察が怖いのは俺と老人、どちらも同じだ。公僕に路地裏を荒らされて困るのは寧ろ老人を含めた密入国集団の方で、俺は女子高生二人を撒いた後で遅れてやってくる警察に何食わぬ顔で接すればいいのだ。
綺麗な身形は役に立つ。
どんな悪逆を尽くそうとも、他人の感じる第一印象に行動は反映されないのだ。
「通報が嫌なら、その人から離れて!」
「分かった。分かったが、俺の話も聞いてくれ」
あの女子高生二人が感じ取った俺の第一印象は最悪だ。そう、最悪だからこそ使える方法がある。若い彼女たち――といっても二十歳の自分と数歳しか違いはしないが――は知る由もないが、世の中には初期値という仕組みが存在する。初期値を分かり易く言い変えるなら第一印象だ。第一印象が善人なら多少の悪逆も見逃され、逆に悪人に見えたなら余程のことが無ければ悪人の印象は拭い去れない。
故に小奇麗な俺を彼女たちは問答無用で通報したりはしない。きっと何か理由があるのだろうと心の何処かで考えているに違いなく、特に正義感の強い短髪は性悪説――根っからの悪人はこの世に存在せず、生きてる中で悪に染まる――を信奉しているのだろう。
「俺はこの男に、家族を滅茶苦茶にされたんだ……」
余計なことを喋るなと蹲る老人を目で制し、俺は可能な限り同情を誘う偽物を仕立てあげる。
「凄い事業があると父親が騙されたんだ」
「え……」
「五年前、こいつの仲間が親父に事業を持ち掛けた。美味しい話だと小躍りした親父は当然のように事業に失敗、次にこいつらが持ち掛けたのが借金だった。突然崖っぷちに立たされた親父に、命綱を渡す振りをして身包みを剥がしたんだ。借金が借金を呼び、転がる雪玉のように肥大化した借金は親父諸共俺たちを粉々にした。俺の家族は離れ離れになった。作り話にしか聞こえないが、こいつらの所為で俺は……」
ギリッと奥歯を噛み締め、血が出るくらいに拳を握り固める。
「家族がバラバラになった苦しみを味わったことがあるか? その原因が目の前に居て、キミたちは冷静になれる自信があるのか? 俺には無理だった。俺には……我慢出来なかったんだ!!」
「そんな……」
創作に大切なのは現実味と同情を誘う少しの胡散臭さだ。
「…………」
「だが仇とはいえど、こんな老人を痛めつけて罪悪感がない訳ではないんだ……。キミたちの言う通りだ。俺は今すぐ立ち去るから、……後は好きにしてくれ」
俺は身を引き、警戒する女子高生の同情心を掻き立てるよう悔しそうに顔を背ける。
その姿を見て揺らいだのは、案の定正義感の強そうな短髪だ。俺の神様と違い、正義は絶対的なモノではない。悪や自身の心、他人の正義を鑑みる相対的なモノだ。そして他人の用意した正義に頼るのは怠惰だ。思考の放棄だ。いま彼女の基となっている正義に彼女の意思は存在せず、存在したかのように思われた正義は誰かからの借り物だ。そして借り物だと気付かないから悪が善に、善が悪に裏返ると狼狽えるのだ。
俺は零れそうになる笑みを噛み殺して更に老人から距離を取り、彼女たちの背後に回り込む。
「ミカ、鞄お願い」
俺の行動に気付かないまま、大人しい長髪が短髪に鞄を押し付けて老人に向かう。長髪は怠惰ではない。自らの意思を確立し、使命感を持って行動出来る類の人間だ。だからこそ怠惰な短髪と違い多少のことでは揺らがず、――――愚かなのだ。
「ふっ、ふふっ……」
耐え切れずに笑みが漏れる。その笑い声を聞いた少女たちが目を剥き、自分たちの過ちに気付いた時の表情は老人を痛めつけるより数段良い。
悪辣で狡猾な俺に世界が味方してくれている。多くの人々がその価値に気付かず、また口にしても胸焼けしてしまう至高の味を口にする機会が、俺は何度も巡ってくる。どうぞ好きなだけお食べなさいと神様が差し出してくれるのだ。
「な、何よ……」
ミカと呼ばれた短髪の少女が後退る。俺の爽やかで邪悪な微笑みと手にした鉄パイプ、そして繁華街に繋がる退路を塞がれた整然とした事実に気付いたのだ。正義から狼狽に塗り替わった彼女の顔も、今度は容易に塗り替わりはしない。狼狽したまま、少しずつ恐怖の色を混ぜ始める。
ああ、ゾクゾクする。
「すまない。ふふっ、キミたち、怖がらずにもっと気丈に振舞ってくれ」
そう言われて気丈に振舞える者は稀だ。俺はそれを良く知っている。事実怠惰な少女も、愚鈍な少女も、怯えを瞳に宿して俺の方を見ている。茶色の眼球の奥に居座った小さな脳みその中で自分たちのこれからを必死に想像しているのだろう。
俺は追い打ちとばかりに
「その方が、そそるんだ」
と少女たちに甘く不気味な言葉を囁いた。