織姫と彦星の物語
ビルの山の向こうから、ドーンと一発、太鼓が鳴った。
歩道を見れば、浴衣姿の老若男女がうちわを片手に皆同じ方向へ歩いて行く。その先頭に、例の笹の木が斜陽の空に照らされて、長い長い影を作っていた。
七夕祭りだ。
……まずい。
早くしなければ笹の木を見失ってしまう。俺は特設スペースへ駆け込んでいた。短冊はどこだ、どこへ行った。焦りに任せて、自動ドアで打撲を作る。
そこで俺が見たものは、既に綺麗に片された、机一つ無いイベントスペースだった。
絶望に似た感情が沸き上がる。
嘘だろう…… 昨日の、あんな質問が、最後のアキとのやりとりだったのか…?
ふざけるな。
このまま終わらせてなるものか。そう思う気持ちが想像以上に鋭くて、俺は俺自身に驚いていた。
返事がないのが当然な、期待もしていないその短冊に、期待以上の返答と見たことの無い日常が待っていた。仕事の終わりに楽しみがあることが、こんなにも一日を鮮やかに変えてしまうことを知らなかった。
例え、もうアキからの返事は現実的に望めなくても、俺にだって言いたいことが沢山ある。向こうだけ言いたい事を言うだけ言って、俺は何も言えず仕舞いなんて悔しすぎる。
俺はお前に何で二回も買い物したんだと聞いたけれど、俺も俺で、お前とおんなじ理由じゃなきゃあ、絶対こんなことしなかったんだ。
俺は、部屋の隅に置かれたゴミ袋に近づいた。
「ちょっ、何なさっておられるのですかお客様!? 」
「悪い、スーパーアルバイト諸君! 君達の願いは叶えられそうにない! 」
捨てられたんなら潔く拾えばいいじゃない。
なーに、中に入っているのは紙ゴミだ。別に生ゴミと一緒に入っていたわけではない。大丈夫だ、問題ない。
このまま終わらせてなるものか。
俺は手が汚れるのも気にせず書き殴った。
『俺も楽しかった。俺もアンタとやり合うようになってから何故か仕事が上手く行くようになった。喜べ、世界中の男がゲイになりますようになんてヤケクソな願いは、お前があの笹に吊るした時点で、もう絶対に叶わなくなった』
何故なら、俺がアンタを好きだから。
この一言だけは、書かなかった。
恥ずかしかった、というのもある。
だが、一番に思ったのは、たかがたった5日間で何が分かると、拒絶されてしまうのが怖かった。
『こちらこそ、短い間だったけどありがとう。俺、ホントに楽しかったから ヨシタカ』
だけどまぁ、いいとしよう。
そんな事を書いたところで、相手を困らせてしまうだけなのだから。感謝の気持ちだけ、これが一番、俺らしい。
今、これをここに吊るしたとして、アキに届くかは分からない。
七夕まつりの会場には、駅、学校、公共施設のあらゆるところに設置された笹が一度に集い、それもわざわざ『〇〇の施設の笹』とは書かれたりしない。一度会場についてしまえば、その短冊を探し出すのは砂漠の中の米を探す行為と同じになる。
それでも構わない。
やらなければ、きっと俺は後悔した。
ヘロヘロになりながら追いついた笹の木に、さりげなく短冊を括りつけた頃には、太陽は完全に沈み込んでいた。
まだ色素の薄い青色に、一番星が輪郭を現す。
この短冊が、彼女の元に届きますように。
俺は星に、静かに祈った。
*
短冊なんか書いたのはいつぶりだろうか。
小学生の頃に、「竹を切る時、来年も誤ってかぐや姫様の首を刎ね飛ばしませんように」と願ってドン引きされて以来、一度も書いた試しがない。
7月になると、駅や市役所、スーパーのような人の多いところで嫌でも目にする笹の葉は、今年も、沢山の願いの重みで鬱蒼と生い茂っている。
皆、何をそんなに願う事があるのだろう。
ここ10年短冊なんか手にしなかったのは、単にトラウマだけでなく、『書く』という労力を押してまで得たい願いが無かったのもある。
そんな俺が、今、短冊を持っていた。
この一年、ずっと未練タラタラで、やっぱ書いておけばよかったと、脳味噌に隙間が出来ればそんなことばかり考えていた。
俺はずっと、ずっとこの日を待っていた。
『アキに会いたい ヨシタカ』
『私も会いたい アキ』
『去年の7月7日、返事書いたんですけど、見ました? …なわけ、ないですよね……』
『見たよ』
『えっ』
『私、すっごい探したんだからね、ばーか。』
『……やっぱり可愛いですね…w』
『急に何言ってくんの気持ち悪い!? てかさ、頑張って探した割には意味不明だったんだけどあの短冊! 何? アンタの願いは永遠に叶わないって、言われなくてもそんな事叶わないことくらい分かってるわよ!』
『意味、伝わってないみたいですね。安心しました』
『何それムカつく』
『明日は7月7日ですね。七夕会場の公園前で待っています。意味、教えて欲しかったら来て下さいね』
その日、俺はアキに会った。
見つけやすいように、あの時回収し合った見覚えのある字の短冊を、両手に持っていてくれたのですぐに分かった。
「ヨシタカって、こんなにイケメンだったんだ。ちょっと私超ビビッてんですけど……」
超ビビッてるのは俺の方だよ、アキ。
"――うるさいわね! フラれたのよバカ!"
"――かわいいって言ってくれて嬉しかった。私、そんなこと言われたの初めてだから"
"――世界中の男が、ゲイになりますように"
明彦は、野太い声で「愛してる」と言った。
土下座してもいいですか……?