孤城落日……消えゆく威光④
◇◇
長尾政景の屋敷を出た辰丸と宇佐美定勝が次に向かったのは、今度は『景虎派』の筆頭である、本庄実乃の屋敷であった。
道すがら、定勝は辰丸の話を聞くと、「やはりな……」と、大きくため息をついた。
「やはり、とはどういう意味でしょう? 」
辰丸は不思議そうに定勝に問いかけると、定勝はどこか面倒くさそうに答えた。
「政景殿がお主を『誘う』ってことだよ」
「そうなのですか……」
なおも眉をひそめる辰丸に対して、定勝は周囲に気を払いながら、長尾家家中の二つの派閥、すなわち『景虎派』と『上田派』について話したのだった。
………
……
辰丸が本庄実乃の屋敷に入ってからしばらく経った。
定勝は例のごとく、屋敷の外で待っている訳だけだが、ここでお役御免とばかり思っていた。
なぜならこの屋敷の主人こそ、『景虎派』の筆頭であり、景虎の寵愛を受ける辰丸にとっては、これから頼るべき存在であるからだ。
熊のような大きな体に表れているように、豪快でありながらも、それでいて細部に渡って気を張り巡らせることが出来る……
本庄実乃とはそんな有能な人物だ。
そして人間味に溢れた魅力も備えている。
定勝は彼の事を信頼に足る人であると思っている。
そしてもし自分が辰丸の立場であるならば、彼と行動を共にすれば間違いないと考えていた。
すなわち辰丸はこの屋敷を出てくる時は、『景虎派』の面々と共にあるだろう。
そうなればわざわざ定勝が御館まで案内する必要性もなく、お役御免となる訳だ。
定勝は天を仰いで、大きく息を吐いた。
そしていつもの眠そうな眼で呟いたのだった。
「……辰丸……上手くやれよ。
決して俺のようにはなるなよ……」
と……
しかし……
辰丸は……
見事に定勝の期待を裏切ったのである。
つまり彼は、屋敷から出てきたのだ……
たった一人でーー
定勝は眠そうな目を大きく見開いて、辰丸の顔を凝視した。
しかし辰丸は、いつも通りの穏やかな微笑みを携えたまま、定勝に小さく一礼した。
「では、御館までの道案内をお願いします」
定勝は、彼らしくもなく狼狽してたずねた。
「おいおい! 新左衛門殿からも『誘い』は受けたのであろう? 」
「ええ、ご丁寧にお誘いいただきました」
「ならなぜ俺が御館までの案内をせねばならぬのだ? 」
「なぜ……と問われましても……」
「まさか……お主……」
顔面蒼白の定勝に対して、辰丸はニコリと笑顔を浮かべて答えたのだった。
「お断りさせていただきました」
「お主……その意味が分かっているんだろうな……
政景殿と新左衛門殿……この二人の『誘い』を断るという事の意味が……」
「ええ……もちろん存じあげております」
それは言わずもがな、『上田派』と『景虎派』どちらにも今は属さないことを意味している。
つまり重臣たちの中では、浮いた存在ということになるのだ。
なぜわざわざ茨の道を歩むのか……
定勝はてんで見当もつかなかった。
しかし辰丸の次の言葉は、彼の思いつくはずもないものだったのである。
「私はお屋形様にこう命じられました。
『国家の忠臣となれ』と。
すなわち当家家中の小さな二つのさざ波のいずれかの中に身を任せるつもりは毛頭ございません」
「さざ波だと……」
「広き天下にあって、当家の派閥など、大海の中にあって、さざ波のようなものでございます。
されど、未だ小さき我が身には、その波は大波のごとく映っております。
しかし、我が願いはお屋形様と同じ。すなわち国家安寧でございます。
すなわち目の前の波にとらわれ、天下という大海を見据えずして、いかに大願を成就できましょうか」
さらさらと清流のように言葉を並べた辰丸。
一方の定勝は、あらためて度肝を抜かれていた。
辰丸という男の規格外の大きさに……
そして今までの自分の懸念など、無意味であった事を痛感したのである。
ーーそうであった。出会った時からそうであったではないか……
定勝は辰丸の変わらぬ顔を見て、彼と初めて出会った時のことを思い出していた。
ーー俺などが手の届くはずもない、天を翔龍のごとき男だったではないか。
とーー
「では、そろそろご案内をお願いします」
辰丸の言葉に、はっと我に返った定勝は、いつも通りの眠そうな眼に、微かに緩めた口元に戻して、辰丸に背を向けた。
「はぐれるんじゃねえぞ。
今のお主は未だ御館までも一人でたどり着けねえ、言わば生まれたばかりの赤児のようなものなんだからな」
そう……
例え辰丸という男が、天を泳ぐ龍であるとしても、今はまだ長尾家のことすら分からぬ少年に過ぎないのだ。
せめて、彼が大空に羽ばたくその時までは、この背中を道標として役立てようではないか。
それが『友』への、精一杯の贈り物だ。
そして『友』が夢を叶えるその瞬間を、この目で焼き付けよう。
定勝はそう強く願い、一歩また一歩と踏み出した。
その背中を小さな足音が続く。
定勝は、辰丸が自分の背を追いかけていることに、この上ない喜びを感じながら、御館への道を急いだのだった。
◇◇
永禄元年(1558年)8月10日 夕刻ーー
御館で開かれた評定で、長尾景虎の口から出たのは、ただ一つ。
翌年に敢行する上洛の件であった。
そして景虎に付き添って上洛する面々が言い渡されたのである。
それは以下のようであった。
千坂景親、
柿崎景家、
直江景綱、
甘粕景持、
宇佐美定満。
景虎の護衛役でもある千坂景親を除けば、後に『上杉四天王』と呼ばれることになる面々であり、この頃から既に景虎から信頼を寄せられている者たちばかりだ。
そんな中、最後にもう一人の名前が出た。
それは、
辰丸ーー
その名前が出た瞬間に、重臣たちの間からざわめきが生じた。
しかし、景虎は意に介することもなく、大きな声で締めくくった。
「以上だ。出立は来年の春。各々準備にぬかりなく」
そして彼はすぐに評定の間から姿を消したのだった。
景虎がいなくなった途端に、皆の視線は一点に集められた。
それは末席に目立たぬように座っている一人の少年。すなわち辰丸。
しかし辰丸は、眉一つ動かすことなく、背筋を伸ばして座っていたのだった。
さも自分の名前が告げられた事が、当たり前であるかのようにーー