第一章 あの日の剣
剣を振る。
暗い。まだ日の出前だ。東の空がほんの少しだけ白んでいる程度で、庭の素振り場は闇に沈んでいた。握りしめた木剣の感触だけが確かで、振り下ろすたびに空気が裂ける音がする。
二十一。二十二。二十三。
リオンは数えていた。呼吸を整え、足の位置を確認し、腰の回転を意識しながら、一振り一振りに意味を込める。頭の中には理想の軌道がある。こう振りたい。こう踏み込みたい。こう身体を使いたい。映像のように鮮明な理想が、毎回脳裏を走る。
しかし腕は理想より遅れ、腰の回転は浅く、踏み込みは半歩足りない。分かっている。毎日やっていて、毎日分かる。理想と現実のあいだには、いつも同じだけの隙間がある。
五十八。五十九。六十。
百回を一組として、朝の鍛錬は最低五組。同年代で剣を振っている者は何人かいるが、この時間に起きている者はいない。
リオンは、特別な少年ではなかった。
ヴェルディア王国西部辺境。名前もないような小さな村に暮らす十六歳の少年。栗色の癖毛に灰色の瞳。同年代の中では小柄で線が細い。手のひらにはタコがあり、腕にはいくつか古い傷痕があった。鍛錬の痕だ。
剣の才能はない。
それは本人が一番よく分かっていた。七歳のころから剣を握り、九年が経つ。九年振って、同年代の最下位。どれだけやっても身体が思い通りに動かない。正しい形は頭の中にあるのに、腕と脚がそれを裏切る。
それでも振るのは、理由がある。
百二十一。百二十二。百二十三――
ふと手が止まる。裏口に目をやる。癖だ。半年前まで、この時間になると父が顔を出した。「おはよう、リオン」と穏やかな声で言い、水を汲んできてくれと頼んだ。
もう、誰もいない。
薬師のマルク。リオンの父だった男。穏やかな顔をした細身の男で、リオンと同じ灰色の瞳をしていた。薬草を煎じる匂いが、いつもかすかに漂っていた。
半年前、流行り病で死んだ。死の間際まで、枕元に来る村人に薬の飲み方を教えていたという。最後まで薬師だった。
リオンは木剣を壁に立てかけ、水桶を手に取った。井戸は村の広場にある。家から歩いて少しの距離だが、リオンの足取りはいつも遅かった。
井戸が、怖いのだ。
覗き込むと底が見えない。暗い穴が口を開けている。吸い込まれそうな気がする。桶を落としたらどうしよう。自分が落ちたらどうしよう。毎朝同じことを考え、毎朝同じように足がすくむ。
滑車に手をかける。指が微かに震えている。
――情けない。
九年も剣を振っていて、井戸が怖い。魔獣どころか犬にも吠えられれば逃げるし、雷が鳴れば布団に潜る。暗い夜道は早足になるし、知らない大人に話しかけられると声が裏返る。
臆病だった。
リオンは自分が臆病であることを、骨の髄まで知っていた。世界のほとんどすべてが怖かった。それは昔からで、きっとこれからも変わらない。分かっているのに治らない。
水を汲み終えて家に戻る。竈に火を入れるのも自分の仕事だ。半年前までは父がやっていた。
「ありがとう。手が冷たかったろう」
父ならそう言った。リオンが「平気」と答え、父が「そうか」と言う。それだけの、短いやり取り。二度と戻らないやり取り。
マルクは多くを語らない男だった。息子が毎朝暗いうちから素振りをしていることも、井戸を怖がっていることも、知っていた。知っていて、何も言わなかった。責めもしなければ、励ましもしない。ただときどき、短い言葉を落とした。
「自分で決めたことを続けられるのは、立派なことだ」
剣の稽古を続けている理由を聞かれたわけではなかった。ただ夕食のとき、ふとそう言った。リオンは何と返したか覚えていない。たぶん「うん」とだけ答えた。
父は精霊を持たなかった。
この世界では、精霊と呼ばれる存在と契約することで、人は超常の力を得る。炎を操る者、風を纏う者、水を従える者。精霊の力は人間社会の根幹を成しており、精霊を持つか持たないかは、そのまま人としての格に直結した。
精霊を持たない者は「無契」と呼ばれる。蔑称に近い。
マルクは無契だった。身体も強くなく、剣など握ったこともない。それでもこの村で薬師として生き、真夜中だろうと呼ばれれば嫌な顔一つせず駆けつけた。村中の人間が父を頼った。父がいなくなって、村は今も困っている。
リオンは、そんな父が大好きだった。
朝食の後、リオンは村の訓練場に向かった。訓練場といっても、広場の隅に丸太の的と木柵があるだけの簡素なものだ。
同年代の少年少女が何人か集まっていた。彼らの隣には、光を放つ小さな存在がいる。精霊だ。
トーマスは十五歳のときに炎の精霊と契約した。掌から橙色の火がちらつくのを見せびらかしている。レイラは風の精霊。走ると風が追いかけてきて、誰よりも速い。ほかにも、土の精霊、水の精霊。次々と契約が決まり、村の若者たちの間には精霊を見せ合う空気があった。
リオンには、何もなかった。
十六歳。周囲が精霊と契約していく中で、リオンにだけ精霊が来ない。呼びかけても応えがない。原因は分からない。努力の問題ではないらしい。精霊は相性で選ぶもので、こればかりは縁としか言いようがない。
「リオン、まだ無契なんだ?」
トーマスが言う。悪意はない。ただ事実を確認しているだけだ。それが余計に刺さる。
「……うん」
「大変だなあ。まあ、来るといいな」
トーマスは自分の炎の精霊を撫でながら去っていく。リオンは笑って見送った。顔が引きつっていないか、少しだけ心配した。
ビビりのリオン。
村の子供たちはそう呼ぶ。犬を怖がるリオン。雷を怖がるリオン。高いところが怖いリオン。そして精霊すら来ないリオン。
馬鹿にされても、リオンは怒れなかった。怒り方が分からないのではなく、怒る資格がないと思っていた。実際に弱いのだから。実際に怖がりなのだから。言い返す言葉が、何もなかった。
訓練場の隅で、一人で木剣を振る。
朝と同じ素振り。百回一組。頭の中には理想の軌道。こう振りたい。こう動きたい。でも身体が追いつかない。毎日その差を確認し、毎日打ちのめされ、そして翌朝また振る。
なぜ続けられるのかと聞かれれば、答えは一つだった。
夜。
狭い自室の寝台に横になる。窓から差し込む月明かりだけが部屋を照らしている。リオンは目を閉じた。
毎晩の習慣。
目を閉じて、「なりたい自分」を思い描く。
どう動きたいか。どう振りたいか。どんな人間でありたいか。恐怖に震えたとき、自分はどう在りたいのか。理想の自分を、できる限り鮮明に、細部まで心の中に描く。
母との約束だ。
八年前。リオンが八つのとき。母が死んだ夜。
エリカ・ヴェルデ。元王国騎士団所属の騎士。戦場で片脚を負傷して退役し、この村で暮らしていた。そこそこ優秀な騎士だったらしいが、飛び抜けた才能があったわけではないと、村の古い人間は言っていた。
リオンは母の素振りが好きだった。
朝靄の中、庭で剣を振る母の姿。片脚が不自由でも、丁寧で、きれいな所作。村人たちが「さすが元騎士さまだ」と感心する程度の、整った素振り。達人の剣ではない。でも好きだった。母が剣を振る朝の空気が、好きだった。
あの夜。
魔獣が村を襲った。群れだった。夜の闇の中、牙と爪が光り、悲鳴が上がった。村人が逃げ惑い、家屋が壊され、血の匂いが風に乗った。
八歳のリオンは泣いていた。何もできなかった。怖くて、動けなかった。
母は、片脚を引きずりながら走ってきた。リオンの前に立った。震える手で剣を握っていた。
そして笑った。
「怖いよね。お母さんも怖い」
リオンは母の手が震えていたのを覚えている。声も少しだけ揺れていた。
「でもね。怖いときこそ、自分がなりたい自分を思い描くの。そうすれば、身体は動いてくれるから」
母は振り返った。魔獣に向かっていった。
戦った。
そしてあの夜の記憶は、八歳のリオンにとって地獄だった。恐怖。悲鳴。血。闇。母が戦い、母が傷つき、母が倒れ、母がいなくなった。
壮絶な、トラウマの夜。
――けれど。
その地獄の記憶の中に、一つだけ異質なものがあった。
母の剣。
恐怖と暴力の記憶の中で、母が剣を振るう姿だけが、なぜかとても美しかった。普段の素振りとはどこか違う気がした。何がどう違うのかは、八歳のリオンには分からなかった。ただ美しかった。地獄の中に落ちた一枚の絵画のように、鮮烈に焼きついていた。
母は、魔獣を退けて、死んだ。
あれから八年。リオンは毎晩、目を閉じてあの剣を思い出す。あの夜の母の姿を。そして「なりたい自分」を描く。母のように。怖くても笑って立てる人間に。
なれていない。全然なれていない。犬にも怯え、井戸にもすくみ、同年代の視線にさえ縮こまる。理想の自分はあまりに遠い。
でも描くことだけは、やめなかった。
母との約束だから。
翌朝。
いつものように暗いうちから起きて、庭で素振りを始めた。七十を超えたあたりで、肩に痛みが走る。昨日少し無理をした。右手の親指で、左手の甲をそっとこする。無意識の癖。母が昔、手を握ってくれた記憶の残滓だと、リオンは知らない。
振る。振る。振る。
空が白み始めた頃、村の方から話し声が聞こえてきた。普段は静かな朝だが、今日は何か違う。
「騎士団が来るって」
「巡回の部隊だ。魔獣が増えてるらしい」
リオンは素振りの手を止めた。
騎士団。精霊の力で戦う、この国の剣。母がかつて所属していた組織。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。




