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プロローグ 夜明け前

霧が、戦場を呑んでいた。

 松明の灯りすら五歩先で溶ける。地面を踏めば泥が音を立て、その音ですら霧に吸い込まれて消える。聞こえるのは鉄と鉄がぶつかる遠い残響と、どこか近くで上がる悲鳴と、それから――風だけだった。

 膝をついている者がいた。

 一人ではない。何十人も。大陸に名を轟かせた精鋭たちが、地面に手をつき、顔を上げることすらできずにいた。精霊の光は消え、剣は手から滑り落ち、鎧の内側で震えていた。

 恐怖だった。

 彼らは生まれて初めて、本物の恐怖を知った。訓練で培った胆力も、戦場で磨いた精神力も、すべてが紙のように引き裂かれていた。霧の向こうにいる「それ」の気配だけで、身体が言うことを聞かなくなっていた。

 その中を、歩いている者がいた。

 小柄だった。鎧は泥にまみれ、剣はひび割れ、歩くたびに膝が笑っている。歯がカチカチと鳴っている。頬を涙が伝っている。

 誰がどう見ても、怖がっていた。

 それでも、歩いていた。

 霧の中へ。「それ」に向かって。一歩。また一歩。その背中は小さく、頼りなく、震えていた。

 膝をついた精鋭の一人が、その背中を見た。声が勝手に出た。

「あいつが、立ってる」

 掠れた声が霧を渡った。別の者がそれを聞いた。顔を上げた。震える少年の背中を見た。

「あの、臆病者が――立ってるんだ」

 少年は振り返らなかった。

 ただ歩いていた。泣きながら、震えながら、それでも止まらずに。

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