オタクの信仰心と回転数は高ければ高いほどいいとは限らない
埼玉中央総合大学・6棟裏。
金属とオイルの匂いが染み付いたコンテナハウスの部室で、一ノ宮雅紀はパイプ椅子に突っ伏していた。
机を挟んだ向かいでは、加賀練斗がセリカのホイールナットの締め付けトルクについて専門書を読みふけり、横では鈴木準が「マズルの毛並みにおける光の反射率」について熱心に鉛筆を削っている。
昨日までの騒動が嘘のように、平穏な放課後――になるはずだった。
――フォォォォォォン……ッ!!
第6棟の外壁を反響させながら、甲高く、どこまでも澄んだ咆哮が近づいてくる。
一般的な実用車の排気音ではない。吸気と排気の抵抗を極限まで削ぎ落とし、超高回転域へと突き抜けていくような、金属的な高周波だ。
「な、なんだこの音!? また暴走族か!?」
雅紀が跳ね起きる。
加賀は読書の手を止めず、視線だけを窓の外へ向けた。
「違うな。この乾いた音抜けと高回転の伸び……ホンダのL15A型エンジン。排気系は柿本改のGTboxに、SPOONのセンターパイプの組み合わせだ。そしてこの吸気音は零1000のパワーチャンバー……あいつが来たな」
「あいつ?」
キュッ、と小気味よいスキール音とともに第2駐車場へ滑り込んできたのは、純白のコンパクトカー――ホンダ・フィット(GD3)。
プレミアムホワイト・パールのボディにはingsのN-SPECフルエアロが隙なく組まれ、足元には白い5ZIGENのホイール。一見するとサーキットをタイムアタックしていそうなスパルタンな出で立ちである。
だが、その運転席から降りてきた人物は、およそ走り屋のイメージとはかけ離れていた。
きっちりと七三分けに整えられた茶髪。目元には知的な紺色のアンダーリム眼鏡。足元には鮮やかなブルーのナイキ・パシフィック。
抱えていたアニメの紙袋を大事そうに胸元に抱き直し、青年は小走りで部室の引き戸を開けた。
「お疲れ様です! 加賀先輩、雅紀先輩、準先輩!」
日本史学部二年、細田葵人。
S・H・Bの直属の後輩であり、礼儀正しさと素直さを絵に描いたような好青年――だが、その内面には加賀や準に勝るとも劣らない「劇薬」を秘めていた。
「葵人か。授業はどうした」
「はい! 二限の日本古代史の講義を終えて、そのまま直行してきました!」
葵人は眼鏡をクイと押し上げると、少年のように目を輝かせた。
「加賀先輩、聞いてください! ついに届いたんです、J’sレーシングの競技用ECUが!」
「ほう。書き換え品を投入したか。セッティングはどうだ」
「最高です! ハイカムへの切り替わりポイントが最適化されて、レブリミットまで一切の淀みなく吹け上がります! もうアクセルを踏み込んだ瞬間、目の前の景色が吹き飛んで――まるで、こなたちゃんが『貧乳はステータスだ!』って叫びながら全力疾走しているような圧倒的解放感なんです!!」
「例えに美少女アニメを混ぜるな!!」
雅紀の魂のツッコミが炸裂した。
「急激にわかりにくくなるんだよ! なんなんだよ『こなたちゃんが疾走する解放感』って! 純粋な工学の話に二次元をぶち込むな!」
「雅紀先輩、何を言っているんですか!」
葵人は心外そうに眉を八の字にした。その表情には一切の悪意も冗談もなく、ただ純粋な熱狂だけが宿っている。
「『らき☆すた』の泉こなたちゃんは、僕の人生のバイブルであり道標ですよ!? オタクであることに誇りを持ち、どんな日常もポジティブに楽しむ彼女の生き様こそが、僕の魂を支えているんです! そしてホンダのVTEC! あの回転数に応じてバルブのリフト量を変化させる可変バルブタイミング機構の美しさ! この二つが融合して初めて、僕のフィットは真の完成を見るんです!」
「いや、融合してないから! 車とアニメは完全に別次元だから!」
「ふむ……素晴らしいね」
横から、鉛筆を置いた鈴木準が静かに拍手を送った。
「二次元の古典的名作に対する純粋無垢なる信仰と、内燃機関が奏でる高回転の咆哮。己の信じる美のために一切の迷いなく散財し、突き進むその姿……ある種の宗教的殉教の美学を感じるよ」
「準、お前まで変な擁護すんな! こいつを甘やかすと部室がどんどん痛車ショップになるんだよ!」
葵人は雅紀の制止をよそに、「ちょっと見てくださいよ!」と三人を用心深く駐車場へと連れ出した。
ピカピカに磨かれたフィットのドアを開ける。
チャージスピードのフルバケットシートが鎮座するスパルタンな運転席。だがそのダッシュボードの中央には、等身大の情熱で作られた泉こなたのアクリルスタンドとフィギュアが、耐震ジェルマットで寸分の狂いもなく固定されていた。
「見てください、この視界! ステアリングを握れば、常にこなたちゃんが僕のクリッピングポイントを見守ってくれているんです! これならどんなタイトコーナーでもインを攻められます!」
「事故ったら真っ先にこなたちゃんがフロントガラス突き破るだろそれ!!」
「失礼な! 工業用両面テープと免震ゲルで震度7まで耐えられる仕様です!」
「無駄に安全対策すんな!」
雅紀が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる横で、加賀は腕を組み、フィットの内装をまじまじと観察していた。
「……フルバケの剛性感はいい。カワイ製作所のピラーバーとフロアバーも綺麗に入っているな。無駄なブレがない。だが葵人」
「は、はい加賀先輩!」
「お前のその情熱は認めるが、助手席までフルバケにしてリクライニングを殺しているな。普段、人を乗せることは考慮していないのか」
「あ、それなんですけど」
葵人は思い出したように、胸ポケットからスマホを取り出した。
「実は昨日、法学部の女の子からLINEが来まして。『今度の日曜、空いてたらドライブ連れてってくれない?』って言われたんです」
「……は?」
雅紀が固まった。
今、この後輩は何と言った? ドライブ? 女子から?
「お、おい葵人……それ、お前……二人きりでドライブってことか……?」
「はい、そうみたいですね」
「う、嘘だろ……!? 後輩のお前に、春が……!? 女子大生と二人きりでドライブデートだとォォォッ!?」
雅紀の心配性メーターが嫉妬と驚愕で振り切れた。
自分など、高校時代の元恋人である詩音の重すぎるメンヘラ愛に怯え、実姉の舞花にはゴミ虫のように扱われる日々だというのに、この天然アニメオタクの後輩が、女子からドライブに誘われたというのか。
「で、でお前……なんて返事したんだ!? どこ行くんだよ! お台場か!? 江の島か!?」
「あ、断りましたよ?」
「は?」
雅紀だけでなく、準までもが鉛筆を止めた。
「断った……? なぜだ葵人君」
「だって、僕の車、助手席もフルバケだから倒せないですし。マフラーも柿本改とSPOONのセンターパイプが入ってるから、車内が結構うるさいじゃないですか。せっかく走るなら、車内でこなたちゃんのキャラクターソングを大音量で聴きたいのに、隣でペラペラ喋られたら曲が聞こえなくなっちゃうじゃないですか」
「…………」
「だから正直に言ったんです。『君を乗せるとマフラーの音でこなたちゃんのキャラソンが聞き取りにくくなるし、車高調が入ってて乗り心地も悪いから無理です』って。そしたらなぜか『死ね!』って一言だけ返ってきてブロックされちゃいました。世の中の女子って、急に怒るから不思議ですよね」
沈黙が、秋の第2駐車場を支配した。
風が吹き抜け、木々がサワサワと葉を擦り合わせる。
「……葵人」
雅紀が、青ざめた顔で後輩の肩を掴んだ。
「お前……それ、人の心とかないんか……? 相手の女の子、絶対に勇気出して誘ったやつだろ……それを『キャラソンが聞こえなくなるから無理』って……お前、鈍感のレベルが大量破壊兵器だよ……!」
「えっ? でも嘘ついて乗せても、相手も楽しくないと思いますし……」
「そうだな」
加賀練斗が、重々しく頷いた。
「葵人の判断は極めて合理的だ。愛車のセッティングと個人の趣味領域を歪めてまで、他人の機嫌を取る必要は微塵もない。助手席に他人の気配を乗せるなど言語道断。俺のセリカたんの助手席には、洗車用のマイクロファイバークロスと予備のフルードオイルしか乗せん」
「お前の基準で後輩を肯定するなァァァッ!!」
雅紀が絶叫する。
「手遅れになる! こいつの人間性がどんどん取り返しのつかない領域に突っ込んでいくぞ!」
「あ、そうだ加賀先輩!」
先輩二人の騒動を完全にスルーした葵人は、爽やかに車のキーを指先で回した。
「ECUの学習も兼ねて、ちょっと野火止のあたりの裏道で高回転域のフィーリングを確かめてきていいですか!? VTECの切り替わり、やっぱり五千回転からの伸びが気になって!」
「許可する。ただし制限速度は遵守しろ。警察沙汰になってセリカたんの平穏を脅かしたら、お前のフィットのエアロを全部アプガレ川越に直送する。」
「はい! 安全運転で踏んできます!」
バタン、と小気味よい音を立ててドアが閉まり、再び乾いたVTECサウンドが駐車場に響く。
ingsのエアロをきらめかせ、純白のフィットは何の迷いもなく爽快に走り去っていった。助手席のこなたちゃんのフィギュアを、優しく揺らしながら。
「……あいつ、絶対にいつか誰かに刺されるぞ。ナイスボートになりかねない。」
遠ざかる白煙を見送りながら、雅紀が心底怯えたように呟いた。
「心配するな雅紀」
準がスケッチブックを開き、遠い目で微笑む。
「彼のような純粋な魂は、刺されたことすら『急に鋭利な痛覚が走りましたね』と笑顔で分析して終わりだよ」
「余計に怖いわ!!」
6棟裏の空は今日も青く、S・H・Bの奇人たちの回転数は、どこまでも留まる気配がなかった。




