ケモノを語る男の情熱はだいたい常人には理解されない
昨日の「セリカたん泥粒激昂事件」から一夜明けた、埼玉中央総合大学・6棟裏。
秋晴れの心地よい風が吹き抜ける第2駐車場に、低く乾いた排気音が響き渡った。
シュゴォォッ……フォン!
零1000パワーチャンバー特有の鋭い吸気音とともに滑り込んできたのは、ひときわ目を引くシルバーのコンパクトカー。日産・ノート NISMO S。
ダクト付きのFRPボンネットに、程よく落とされた車高。いかにも「走る気満々」なオーラを放つそのハッチバックの運転席から、ひとりの青年が滑らかに降り立った。
短めのレイヤーをベースにしたウルフカット。細かく束ねられた黒髪には、毛先にかけて計算されたCカールのパーマが揺れている。
文学部三年、鈴木準。
S・H・Bの頭脳枠にして、文学徒特有の憂いを帯びた灰色系の瞳を持つ美青年――だが。
「おはよう、雅紀、加賀君。今日も朝霞台からの並木道、吸気管の奏でる旋律が実に詩的だったよ。まるで朝露を踏みしめて野を駆ける銀狐の足音のようだ」
「お、おう……おはよう準。相変わらず表現が独特すぎるんだよ」
部室のパイプ椅子に腰掛けていた一ノ宮雅紀が、缶コーヒーを片手に引きつった笑いを返した。
その隣では、サークル長の加賀練斗が折りたたみテーブルの上に広げたパーツカタログを睨みつけながら、視線も上げずに口を開く。
「準。お前のノート、また車高をミリ単位で弄ったな。昨日の夕方よりフロントのクリアランスが二ミリ詰まっている。減衰力のセッティングをまた変えたのか」
「フッ……さすがは加賀君だね。TEINの車高調の減衰を二段ほど締め直したんだ。路面からのフィードバックがよりソリッドになり、まるで獲物を捉える獣の肉球のように地面の凹凸を舐めてくれるよ」
「頼むから車のインプレッションに『肉球』とか混ぜないでくれ。脳がバグる」
雅紀が頭を抱える。
そう、この鈴木準という男は、本格的な画力と文学的知性を兼ね備えた好青年であると同時に――極めて重篤で、偏食的なこだわりを持つ筋金入りの「ケモナー」であった。
準は優雅な所作でパイプ椅子を引き、持参した革のトートバッグから一冊のスケッチブックを取り出した。
さらさらと鉛筆を走らせ始める。その手元を何気なく覗き込んだ雅紀が、息を呑んだ。
「……っ!? おまっ、また部室ですごい絵を描いてんな!?」
「静かにしてくれないか、雅紀。今、最も神経を使う『マズルの傾斜角』を描き込んでいるところなんだ」
広げられた画用紙には、神がかり的なデッサン力で描き出された「獣人少女」の姿があった。
滑らかな毛並みの質感、光を吸い込むような瞳のグラデーション、骨格の陰影に至るまで、美術大学の首席レベルの技巧で描かれている。だが描かれているのは、人間ではない。
「相変わらず画力だけはプロ級なのに、情熱の注ぎ先が狂ってるよ! ……っていうかこれ、何? 狐? 狼?」
「愚問だね、雅紀」
準は鉛筆を止め、冷ややかな、しかし底知れぬ熱を帯びた瞳で雅紀を射抜いた。
「種族の分類など表層的な記号に過ぎない。重要なのは『美の文法』だよ。いいかい? 世間にはびこる安易な擬人化……人間の美少女の頭部にただ猫耳や犬耳をポン付けしただけの浅薄な造形を、僕は断じて認めない」
「えっ、耳生やすだけじゃダメなの? 可愛いじゃん普通に」
「万死に値するね」
「即死刑!?」
雅紀の気軽な一言に、準のスイッチが音を立てて切り替わった。
「耳と尻尾を足せばケモノになるなどという発想は、市販の軽自動車にGTウィングを貼っただけで『レーシングカーです』と言い張るのと同じ冒涜だよ! それはただのコスプレだ! 毛皮という名の崇高なる自然のベールを無視した人間の傲慢だ!」
「ひ、ヒートアップの仕方がめんどくせぇぇぇっ!」
「だが、かといって海を渡った向こう側のアメリカンなfurryのような、筋肉隆々で極太のマズルを持つ大味な造形も僕の琴線には触れない。僕が求めているのは、あくまで日本の侘び寂びと繊細な美意識の融合だ。頭部には人間のような美しい毛束があり、身体は儚げな少女の骨格を保ちつつ、指先までびっしりと柔らかな毛皮に覆われていること。そして何より――この、わずか十五度だけ前方に突き出た、極めて控えめなマズル(口吻)! これこそが至高の黄金比なんだよ!!」
机をバンッと叩いて熱弁を振るう準。
文学部で培われた流麗な語彙が、完全に変態的なこだわりを補強するためだけに使われている。
「わかるか雅紀? 鼻先が長すぎれば野獣になり、平坦すぎれば人間に退行する。この数ミリの攻防線に、僕の魂のすべてが懸かっているんだ!」
「全然わかんねえよ!! なんだよ数ミリの攻防線って! そんなミリ単位で女子の顔面見てるやつがいるか!」
「いるぞ、ここに」
突如として、横から重々しい声が割り込んできた。
加賀練斗である。
加賀はおもむろに立ち上がると、窓の外に停めてある自分の赤いセリカを、神を拝むような目で見つめた。
「準の言っていることは、あながち間違いではない」
「はあぁぁぁっ!? 加賀、お前までそっち側の人間だったの!?」
「馬鹿を言え。俺の愛の対象はセリカたん唯一人だ。だがな、雅紀」
加賀は厳かに人差し指を立てた。
「ウェーバースポーツのフロントバンパーと、純正フェンダーのチリ合わせ。その隙間がコンマ五ミリズレているだけで、空気抵抗も全体の流線美も台無しになる。準の言う『控えめなマズルの傾斜角十五度』への執着は、俺がセリカたんのプレスラインにかける情熱とベクトルが異なるだけで、根底にある幾何学的狂気は完全に同質だ」
「フッ……さすがは加賀君だ」
準が満足げに微笑む。
「無機物の極致である車と、有機物の極致である獣人。美を追求する求道者同士、通底するものがあると思っていたよ」
「通底してねえよ!! 何を変態同士で美しい友情築いてんだよ! やめろ、6棟裏の治安をこれ以上悪化させるな!」
雅紀の悲痛なツッコミが響く中、準はふと思い出したようにスケッチブックを閉じた。
そしてトートバッグから、もう一つの小袋を取り出す。
「そういえば雅紀。昨日、君のエイトが異音騒動で大変だったと人づてに聞いてね」
「えっ? あ、ああ……結局アンプの熱収縮だったんだけどな」
「君のことだから、どうせまた眠れない夜を過ごしたんだろう。これを受け取ってくれ」
準が差し出してきたのは、耐熱アルミテープと、業務用のアース用シールドクリップ、そして雅紀が普段好んで飲んでいる銘柄のエナジードリンクだった。
「……これ、車載配線のノイズ対策用のシールド材だろ? わざわざ買ってきたのか?」
「朝霞台駅前のホームセンターに寄ったついでだよ。アンプのケースのビビり音なら、配線の防振と適切なアース処理で共振を抑えられるはずだ。君が無駄な修理代に怯えて憔悴するのは、仲間として見ていて忍びないからね」
「準……!」
雅紀の胸に、じわりと温かいものが広がった。
普段はケモノの性癖ばかり語っている男だが、仲間が困っているときには、こうして誰よりも早く、思慮深い気配りを行動で示してくれる。
加賀の容赦ない罵倒とは対照的な、鈴木準という男の持つ本質的な優しさがそこにあった。
「お前……性癖はアレだけど、やっぱりめちゃくちゃいい奴だな……! ありがとな、今日の帰りに早速貼ってみるよ!」
「どういたしまして。……ところで雅紀」
「ん? なんだ?」
準は穏やかな笑顔のまま、再びスケッチブックをペラリと開いた。
そこには、今度は少し怯えたような表情をした、小柄なフェネック風の獣人のラフが描かれていた。
「昨日、エンジンブローの恐怖に震えていた君の姿が、実に小動物的で愛らしくてね。ぜひ次回の同人誌のモデルとして、君の魂を投影した獣人キャラを描きたいんだ。耳と尻尾を生やしたポーズを取ってくれるかい? もちろん、マズルは十五度の控えめなやつで」
「やっぱり気持ち悪ィわ前言撤回!! 誰がモデルになるかァァァッ!!」
雅紀の怒声とともに、投げつけられた空き缶が宙を舞う。
それを涼しい顔で避けた準は、「芸術を解さない男だ」と小さく肩をすくめたのだった。




