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呉自動車、血と汗とパーツクリーナー

日曜の朝。

 E塔裏の地獄コンテナに、今日は誰もいなかった。正確には、「整備バイトデーのため全員が呉自動車に直行した」だけである。


加賀練斗が呉自動車の前に到着したのは、午前8時55分。駐車場の端にセリカを停めてドアを開けた瞬間、鼻が迎えにくる。

 ガソリン、オイル、パーツクリーナーの溶剤、古い鉄が酸化した錆の匂い、ゴムの焦げた残香――全部が混ざり合った、呉自動車にしかない空気。


加賀は深く吸い込んだ。

「……今日も地獄の始まりか」

 なぜか毎回、ここに来るとテンションが上がる。絶対におかしい。


午前9時ちょうど。

「オッスおっちゃん! 今日も働きに来ましたァ!!!」


元気よく現れた雅紀が、真っ先に自分のRX-8のボンネットを開けた。そこから白っぽい湯気が上がっている。

 呉福造――通称「ダブルブリッジ呉」――は、そのダブルブリッジのメガネ越しに雅紀を一瞥した。


「お前、まず自分の車直せ」

「いやこれは"味"なんすよ。独特の個性というか」

「お前の車から出てる煙に個性の余地はない。ただの冷却水漏れだ」

「……冷却水?」

「走ってきたのかお前!!」


RX-8はおそらく、大学から呉自動車までの10分間、ゆっくり熱死しながら走ってきた。


「だから俺は毎回言ってる。RX-8は出発前点検が必要だと」

「でも毎朝眠くて……」

「眠気より先に冷却水の量を確認しろ!!!」


工場の奥で油を拭いていた助手の兄ちゃんが、見て見ぬ振りをした。毎週のことだった。


しばらくして、残りの4人も到着。白いフィット(細田)、銀のノートNISMO(準)、赤いセリカ(加賀)、ネイビーのレガシィ(マイケル)が工場前に並ぶ。駐車場の幅がギリギリだった。


「よーし! 今日はセリカのエンジンマウント交換からいくぞ!」

「おい加賀、昨日も同じこと言ってなかったか」

「昨日は"計画"だ。今日は"実行"だ」

「結果:失敗、という話になりそうだが」


呉がため息をついた。

「……お前ら来るたびに、なんか壊れて帰るよな」

「それは"成長痛"っす!」

「破壊は成長と呼ばん!! 工具代に上乗せするぞ!!」


準がノートNISMOのトランクからケモ同人誌と工具を同時に取り出した。なぜ同じ場所に入っているのか。細田が首を傾けた。


「……準、それ整理してくれよ。工具と同人誌が混在してると、どれを渡せばいいかわからない」

「どっちも大事だから」

「優先度が完全に狂ってる」


作業開始。工場の床は、昨日の作業の名残で油がうっすら光っている。リフトに上がった他の客の車から、エキゾーストの残熱がじんわり漂う。

 蛍光灯の白い光の中で、5人が各自の作業に散っていく。


加賀がセリカのボンネットを開けた。2ZZ-GEエンジンが、熱を持ちながらじっとしている。エンジンマウントのゴムが経年でひび割れ、アイドリング中に微妙な振動が出るようになっていた。


「よし。トルクレンチ、14mm、用意」

「はいよ」と細田が渡す。


カチャッ、カチャッ……。

 ソケットが噛んで、ボルトが緩み始める。

 ――このときの感触が好きだ、と加賀は思った。固く締まっていたものが、確実な力で動き始めるあの感触。整備の面白さは、車と直接対話している感覚にある。


「……OKOK! 今日こそリアフェンダーのパテ、完璧に仕上げるゾ!!!」

 マイケルが工場の隅でサンダーを構えていた。


ガンッ!!

「OH SH*T!! 塗装、また剥げタ!!!」

「"また"って言ったな今お前!! 前回も剥がしたのか!!」

「No No! これは旅の途中デス!」

「旅の目的地が"全剥離"になってるだろ!!!」


BGMは、パーツクリーナーの音だ。シューッ! シューッ!

 細田がブレーキキャリパーに向けて吹いている。脱脂の作業音は、工場の中で独特の清潔感を持って響く。


「パーツクリーナーってさ……なんか、癒しの音だよな」

 準が目を細めた。「脳が洗われる……」

「お前らの脳みそが溶けてんだよ!!!」

 呉が怒鳴ったが、二人は聞いていなかった。


昼休憩。工場裏の日当たりのいい場所で、5人がコンビニ弁当を広げた。呉はその少し離れた場所で弁当を食べながら、遠い目をしている。


「……なぁ、俺たち、整備できてるのか?」

 雅紀が箸を止めた。沈黙。


「壊す方は完璧だな」と加賀。

「俺、昨日の夜、夢の中でもアライメントが狂ってたわ」と細田。

「脳内トー角がズレてる」と準。

「ミートボール・トーイン!!」とマイケル(意味不明)。


RX-8は今、リフトの上で静かに冷えている。ラジエターからの滲みを見ると、今朝の「味」発言が悔やまれた。呉が聞こえないふりをしながら弁当を食べている。肩が微かに震えていた。たぶん笑っている。


午後。

「よし! エンジンマウント、交換完了!! エンジン始動するぞ!!」

 加賀がキーを回した。


ヴォン……ヴォン……。

 アイドリングが立ち上がる。セリカのエンジン音が工場に響き始めた――。


ドガガガガッ!!

「!?!?!?」


エンジン全体が、ワイルドに震えている。ボンネット越しに、何かが正しくない振動が伝わってくる。体の芯まで響く、低くて荒い揺れ。


「止めろ止めろ止めろ!!!!!」

 加賀がキーを抜く。白煙が薄く上がり、工場に焦げた匂いが広がった。沈黙。


「……おっちゃん」

「なんだ」

「この振動……仕様っすか?」

「仕様なわけあるか!!!」

「じゃあ……味っすね?」

「お前ら全員、味覚障害だ!!!!」


原因は即判明した。マウントのボルトを、一本締め忘れていた。


「一本だけ。一本だけ忘れてた」

「その一本が全部を狂わせる、それが整備というもんだ」

「……呉さん、それかっこよく言いましたよね今」

「黙れ」


夕方。工場の中は、静かな戦場だった。工具が散乱し、床は油でテカテカに光っている。

 RX-8はバンパーが半分外れた状態で停まっており、フィットは片輪が上がったまま。ノートはなぜかボンネットが閉まらない。そしてレガシィは――何も言わず、ただそこにいた。


「作業報告、まとめろ」と呉。

「セリカ、マウント交換……最終的に成功」

「RX-8、より深刻」

「フィット、謎の異音が新たに発生」

「ノート、ボンネットのラッチ機構を誤解していた」

「レガシィ、メンタルデストロイ」

「全滅じゃねぇか!!!」


しかし加賀のセリカだけは、試しにエンジンをかけ直すと――ヴォン……ヴォン……ヴォォォン。

 アイドリングが、さっきより格段に落ち着いていた。振動が消えた。ステアリングに触れると、以前のビリビリした感触がない。


「……直った」

 当たり前のことだ。でも、なぜか喉の奥が少し熱くなった。


夜。シャッターを半分下ろした工場の前で、呉と5人が缶コーヒーを飲んでいた。エンジンの冷えていく金属音が、ピキピキと夜に溶けていく。


「……まぁ」と呉が言った。「壊すだけ壊して、直すとこまでやってるからな。お前ら」

「すみません、今日も迷惑かけました」


加賀が頭を下げると、呉は短く鼻を鳴らした。

「慣れた。……けどな。壊すだけじゃダメだぞ。直せるようになれ。男はな、失敗の中で、トルク管理を覚えるもんだ」


誰も笑わなかった。

「……かっけぇ」と細田が小さく言った。

「今日一番の名言だ」と準。

「俺、ちゃんと整備士の資格、取りに行こうかな」と雅紀。


舞花(工場前を偶然通りかかった)「それ言うの、三回目」

 朱音(その隣を歩いていた)「でも行ったことない」

 呉「ま、行かねぇだろうな」


全員が笑った。呉も、ダブルブリッジのメガネを少しだけ押し上げて、口の端を曲げた。


その夜。加賀は帰り道、セリカのステアリングを握りながら、新調したマウントの感触を確かめていた。余計な揺れが消えて、エンジンの純粋な回転だけが体に伝わってくる。

「直すって、こういうことかっ…!?」


信号で止まった。隣に、銀のECR33が並んだ。リアウィンドウに「KENWOOD」のステッカーがでかでかと貼られている。ドライバーは加賀と同じくらいの年齢の男。

 青信号。R33が静かに、しかし鋭く発進した。


加賀の目が、細くなった。

(……速い)


セリカのアクセルを踏む前に、信号は次の赤に変わった。でも、その一瞬の発進の鋭さが、頭から離れなかった。


埼玉中央総合大学・S・H・B。今日も、ボルトよりネジが飛んでいる。

 しかし夜の帰り道、加賀練斗の目に宿ったあの光は――確かに、走り屋のそれだった。

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