合法バトルは法の下に
部室に入った瞬間、まず鼻が死ぬ。
エンジンオイルの重い香り。金属が擦れた後の、あの独特の焦げっぽさ。
それに加えて今日は、誰かが持ち込んだ中古マフラーの排気残渣が混じって、地獄コンテナ(正式名称:E塔裏・旧製作所)は今夜も絶好調の油臭さだった。
「……おい。なんで部室にマフラー転がってんの?」
加賀練斗は床に転がる5ZIGEN製ステンレスマフラーに目を落とした。誰かが砲弾型のテールパイプを枕にして昼寝した形跡まである。
「アートだろ」
「何系の?」
「内燃系」
「うるせぇ」
缶コーヒーの山、カー雑誌の海、そして謎のNISMOステッカーが貼られた冷蔵庫。今週の議題は一つ。
"合法的走行会の開催について"。
先週、舞花さんに「次爆音出したら解散させる、本当に、マジで、今度こそ」と言われた結果、彼らは文明の扉を叩くことを余儀なくされた。いや、扉に激突した、が正確か。
「で、どこでやる?」
「お台場?」
「遠い」
「筑波?」
「高い」
「峠?」
「犯罪」
「……公道を走るだけは?」
「それが走行会じゃなくてただの外出」
沈黙。部室を風が抜ける。どこかのマフラーが、金属が冷える音でピキッと鳴いた。
そのとき、マイケル・タナーが顔を上げた。
「オー! グッドアイディア! "川越街道ナイト・リーガル・ラン"どうヨ?」
全員がマイケルを見る。
「……お前、"リーガル"の意味、知ってる?」
「YES! "警察来る前に帰る走行"!」
「違う!!!!」
「"LEGAL"は"合法"だ!! お前の認識の方が犯罪寄りだろ!!!」
マイケルはノートに何かを書き始めた。日本語で「リーガル=速く帰る」と書いてあった。
「誰がそれを教えたんだ」
「ヤマハ(※近所のタイ人セブンイレブン店員)」
「あいつもわかってなかったのか!!」
だが奇跡は起きた。本当に「合法」な走行会を、雅紀が見つけてきたのだ。
埼玉北部某所。"初心者歓迎!安全運転チャリティ走行会"。
要は広い駐車場を貸し切って、スラロームや定常円などの低速ドリルをやるやつ。
「え、ちゃんとしてるじゃん……!」
「逆に俺ら浮かない?」
「何言ってんの。俺たちは**"合法界の先駆者"**だぞ」
「三秒前に合法デビューした人間が言う台詞じゃない」
準が参加費を調べた。
「一人3,000円。5人で15,000円か」
「……うちのタワーバー代と同じ」
「資本を使った戦いが始まるな」
「チャリティって書いてあるが、どこに寄付されるんだろうな」
「きっと、俺たちの良心に」
「お前らに良心はない」
当日。午前9時。
川越街道を北上する5台の車列。
先頭を行く加賀の赤いセリカZZT231から、5ZIGENのPro Racerマフラーが、朝の空気を低く震わせる。ドロ……ドロドロドロ……。アイドリングで刻む規則的な排気音は、走り屋の朝礼のようなものだ。
その後ろを、銀のノートNISMOが続く。準が運転しながら助手席のバッグを気にしている。ケモ同人誌が入っているのは全員知っている。
黒いRX-8・雅紀は後部座席に工具を積んでいた。
「……また積んでるじゃん。走行会に工具いるか?」
「RX-8を信用するな」
「お前の車に対する愛情はどこへ行った」
「愛情は信頼とは別物だ」
白いフィットGD3・細田は運転中にも関わらず、左手でカー雑誌を開こうとしている。
「前見ろ」
「VTECのページが……VTECの……」
「今日VTECは関係ない!! 制限速度30キロのスラロームだ!!」
「魂が回りたがってる……」
「魂を無視しろ!!」
最後尾、ネイビーのレガシィBH5・マイケルから、定期的にシュポンッ!! という音が鳴る。ブローオフバルブだ。アクセルを踏んで離すたびに、余剰ブーストが盛大に抜ける。
「マイケル! アクセル煽るな!!」
「Sorry! ハンドル、気持ちイイネ!! ※加速の余韻を楽しんでいます」
「公道でやるな!!!」
シュポンッ!!
川越市内のファミマ前で、老夫婦が振り返った。
会場に着いた。
整然と並んだ車列。洗練されたS2000、スタッドレスを外したばかりのロードスター、丁寧に磨き上げられたGDB型インプレッサ。
皆が蛍光ベストを着け、挨拶を交わし、穏やかな大人のモータースポーツを楽しもうとしている。
その空間に、5台の"主張"が乗り込んでいく。
赤いセリカ(GTウィング)。銀のノートNISMO(謎のケモステッカー多数)。黒いRX-8(右リアフェンダーに小さな凹み)。白いフィット(Ings製エアロ、低い)。ネイビーのレガシィ(ブローオフ付き、再びシュポンッ!!)。
主催者の男性が、温かい笑顔で歩み寄ってきた。
「学生さんですか?」
「はい! 埼玉中央総合大学、自動車研究サークルの者です!」
加賀は渾身のまともな顔で答えた。
(※研究はしていない)(※走り屋サークルです)(※先週峠でパイロンを轢きました)
「あ、若い子が来てくれたんですね。じゃあ後ほどアドバイスしますよ!」
「ありがとうございます!!」
後ろで準がケモ同人誌をバッグに戻す音がした。ファスナーが閉まる音が、異様に丁寧だった。
ピットエリアに車を並べる。5台並んだ姿を見て、全員が少しだけ黙った。
改めて見ると、結構、格好いい。
GTウィングのセリカ、低く構えたフィット、流麗なRX-8のボディライン。5ZIGENのポリッシュ仕上みたいなホイールが、朝日を反射している。
「……俺たち、様になってるな」
「そうだな」
「まあ、見た目だけは」
「やめろ現実を言うな」
そのとき準が静かにバッグを開け、再びケモ同人誌を取り出した。「落ち着くんだよ」と準は言った。
「走行前に、心のケモを鎮める」
周囲の大人たちの温かい視線が、一瞬で凍った。
「鈴木。これは外でやることじゃない」
「バファリンより効きそうで怖いな……」
「ケモで精神統一するな!!!」
主催者の男性が遠ざかっていく背中が見えた。
走行会、開幕。
最初のプログラムはスラローム。パイロンを並べた直線を、時速30km以内でジグザグに走り抜けるだけ。安全第一。初心者歓迎。誰でもできる。
それでもこいつらは爆発した。
「いけぇぇぇ!! VTEC、起動ッ!!!」
細田のフィットが、制限速度の4分の1のスピードで咆哮した。エンジンの回転域は全く上がっていない。でも細田の魂は7,000rpmに達している。
「30キロだって言ってんだろ!!」
「心は300キロです!!」
「黙れ心速違反!!」
加賀は冷静にセリカをパイロンの間へ通した。ステアリングを切る。フロントタイヤが路面をちゃんと噛んでいる感触が、手のひらから肩へ伝わる。
この感覚がいい。速度が出ていなくても、車と話している感じがある。
「……悪くないな」
加賀が一周終えて戻ったとき、マイケルが出走順になっていた。
「マイケル、落ち着いてゆっくり――」
「ブローオフ鳴らすタイムネ!!!」
ピシュンッ!!!!
走行後に鳴らすな。審判員が真顔で振り返った。
昼休憩。全員コンビニおにぎりを食いながら、駐車場の縁石に並んで座った。
空が高い。排気の匂いは少ない。エンジンが冷えていく、金属がピキピキ収縮する音だけが静かに鳴っている。
「なぁ……合法って、こんなに地味なのか?」
「爆音がないと寂しいな」
「合法の代名詞が"静か"だとは思わなかった」
「俺たち、違法界のアーティストだったんだな……」
「その自覚は三話遅い」
準がおにぎりを食べながら言った。
「でも、こういう走り方を知るのも悪くないと思う」
「お前がいちばん落ち着いてるのずるくない?」
「ケモ本で精神統一したから」
「認めたくない事実だな」
午後。定常円走行。
加賀のセリカが、円の軌跡を丁寧に描いていく。切り込むたびに、ステアリングが微かに手を押し返してくる。
低速でも、フロントタイヤが路面をどう掴んでいるかがわかる。BLITZ車高調の硬めのセッティングが、今日みたいな低速ドリルには少し邪魔だ。
もう少しだけ柔らかくして、荷重移動をスムーズに――
パンッ!!
リアタイヤがパイロンに激突した。
「……」
「理論崩壊」
「物理の敗北」
「走り屋の現実」
見学席から舞花さんの声が飛んでくる。「また壊した」。
声のトーンがフラットだった。怒っているのか呆れているのか、もはや判別がつかない。それが一番怖い。
朱音が棒つき飴を口から外して言った。
「帰り、保険ロードサービス呼びますか?」
舞花「うん。……あとサークル名、変えよ」
朱音「"S・H・B(Saitama Houritsu Breakers)"とか?」
舞花「洒落にならんからやめろ」
夕方。走行会終了。主催者が締めのスピーチをしている。
「皆さん、安全第一で一日楽しめましたね――」
全員「いえーい!!」
(※S・H・Bのみ、セリカのリアバンパーに白いパイロンの線が入っていた)
帰り道。川越街道を南下する車列。
陽が落ちかけた空の下、5台のエンジン音が低く重なる。5ZIGEN・HKS・柿本改・Ings・ブローオフ。それぞれが少しだけ違うトーンで、川越街道の夜を鳴らしている。
加賀は無線越しに、ぼそっと言った。
「……なんだかんだで、楽しかったな」
しばらく沈黙があった。
「そうだな」と雅紀。「合法でも、走る楽しさは変わらねぇ」
「トゥルー・ジャパン・スピリット!!」とマイケル。
「次はケモ柄のカーラッピングを試したい」と準。
「やめろもうそれは車への冒徳だ」と細田。
助手席の舞花が前を向いたまま言った。
「今日は、100点中40点ね」
「前回から上がりましたね」と朱音。
「炎上しなかった分だけ」
「低い……」
川越街道の街灯が、流れていく。セリカのガラスに映る赤信号。
ブレーキを踏むたびに、車高調が小さくストロークする。
加賀は思った。
(今日みたいな走りを、もっとちゃんとできるようになりたい。パイロンを踏まずに、もっと丁寧に。そして――もっと速く)
赤から青。5台が、一斉に走り出す。
埼玉中央総合大学・S・H・B。
合法を学んだ彼らの次なる試練は――
しかし翌朝、なぜかグループLINEに「呉さんから"面白いパーツが手に入った"という連絡が来ていた」。
合法の精神は、24時間も持たなかった。




