SR20の向こう側
準が帰ってきた時、顔が死んでいた。
部室の引き戸を開けて、椅子に座って、何も言わなかった。
加賀がセリカのトルクレンチを置いた。
「……何かあったか」
「……スーパーに行ってた」
「それで」
「……おばさんに、話しかけられた」
「おばさんに」
「……ハイテンションの、よく喋るタイプの。笑顔が眩しかった」
「それで」
準が両手で顔を覆った。
「……『あら、ノートのE-POWER乗ってるんですか! 燃費いいですよねぇ!』って言われた」
沈黙。
「……E-POWERか」と加賀。
「E-POWERだ」
「お前のはSだろ」
「Sだ。5MTだ。1.6Lだ。CVTじゃない。HKSのマフラーが入ってる。TEINの車高調が入ってる。CUSCOのタワーバーが入ってる」
「知ってる」
「E-POWERのCVTとは魂が違う」
「知ってる」
「……なんで間違えるんだ」
細田がGD3のボンネットから顔を上げた。
「エンブレム見ればわかりますよね?」
「前期と後期で顔が違うんだ」と準。「俺のは前期。E-POWERは後期。でも車に興味ない人からすれば、似たようなエアロの車だ。Sのエンブレム以外ほぼ一緒に見える」
「……なるほど」
「なるほどじゃない」
マイケルが天井から目を下ろした。
「それだけデスYO?」
「……違う」
「まだあるデスYO?」
準が顔を覆ったまま言った。
「……子供がいた。小学校低学年くらいの。車好きの男の子」
「うん」
「駐車場で、俺のノートを見て言った」
「なんて言ったデスYO?」
「……『かっこいいコンパクトカーだ』」
全員が止まった。
「コンパクトカー」と加賀。
「コンパクトカーだ」
「……」
「スポーツカーじゃなかった」
「……」
「コンパクトカー、だった」
細田がそっとGD3のボンネットを閉めた。
マイケルが天井への唱詠を止めた。
加賀がトルクレンチを持ち直した。
「……で」
「……その子供が、二台隣のS13を見て言った」
「S13シルビア?」
「S13シルビアだ。Qsだったか、Kだったか、わからない。でも確実にS13だった。SR20か、CA18か、それもわからない。でも確実にS13だった」
「それで子供は何と言った」
「……『あっ、かっこいいスポーツカーだ』」
沈黙が、部室を満たした。
「……そっか」と加賀。
「そっかじゃない」
「うん」
「俺の中一の時からの話をしていいか」
「聞く」
準が顔から手を外した。
天井を見た。
「中一の頃から、ケモの次に好きだったんだ。日産のスポーツカーが」
「知らなかった」
「SR20DET。RB25DET。あの音と、あのデザインと、あの時代の日産のやつ」
「……渋いな」
「渋いだろ。S13、S14、S15、R32、R33、R34。全部カッコいい。全部ケモ娘の次にカッコいい」
「ケモ娘の次、か」と細田。
「次だ。でも次というのは、二番目に好きということだ。二番目に好きなものを馬鹿にするな」
「馬鹿にしてないです」
「……高校の時、急に値段が上がったんだ」
「いつ頃ですか」
「気づいたら上がってた。S13が、気づいたら百五十万になってた。気づいたら二百万になってた。R系は最初から無理だった。S15は気づいたら三百万になってた」
「……」
「トヨタは良かった。MR-Sがまだ安かった。ホンダも良かった。CR-Zがお買い得だった。『安くて、見た目もいかにもなスポーツカー』が、トヨタとホンダにはあった」
「日産は」
「……なかった。日産には、そういう抜け道がなかった。寄ってたかって高騰した。S系もR系も全部だ。だから俺はノートNISMO Sを買った。日産の、5MTの、走れる車を買った。それは正解だったと思ってる。でも」
準が止まった。
「でも?」と加賀。
「……スポーツカーじゃないと言われた。子供に」
「……」
「コンパクトカーと言われた」
「……」
「S13は、スポーツカーだと言われた」
しばらく、誰も喋らなかった。
加賀がトルクレンチを工具箱に戻した。
立ち上がった。
「S13、欲しいか」
「……欲しい」
「今いくらする」
「……程度によるが、まともに走れるやつで百八十万は下らない。良いやつは三百万を超える」
「無理だな」
「無理だ」
「……」
「あと数年早く生まれていれば、百二十万で買えた。それが一番腹が立つ」
「生まれた時代は選べない」
「走り屋として当然の悔しさだ」
「……俺にはわからん。セリカは最初からセリカで買ったから」
「お前はいいんだ、加賀は。セリカは値段が安定してる。でも俺は——」
「S13が、良かったか」
準が少し黙った。
「……あのデザインは、反則だと思う。リトラクタブルライトと、あのサイドのライン。世界で、ケモ娘の次に美しい車だと思う。真剣に」
「真剣だな」
「真剣だ」
「……そうか」
「ケモ娘の次に、だぞ。それがどれだけの意味か分かるか」
「分からん。でもお前にとって最高の褒め言葉だってことは分かった」
「そうだ」
準が椅子の背もたれに体重を預けた。
「……今日、スーパーで、S13を見た瞬間にそれを思い出した。コンパクトカーと言われた直後に、S13がスポーツカーと言われているのを聞いた。あの子供は正しい。俺のノートはコンパクトカーじゃないが、S13がスポーツカーなのは正しい」
「子供は正直だ」
「……正直すぎる」
「走り屋のメンタルは、時々正直さで殺される」
「今日、殺された」
マイケルが手を挙げた。
「……S13、カッコいいデスYO」
「知ってる」
「JAPANESE SOUL CAR!!」
「黙れ」と加賀。
「でも!! ノートNISMO Sも!! 走れるデスYO!! HKS入ってるデスYO!!」
「……それは知ってる」と準。
「SAME SOUL!!」
「……魂は同じかもしれない」
「YESYES!!」
「でもシルエットが違う」
「……DETAIL!!」
「大事なディテールだ」
細田が眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……鈴木さん」
「何」
「VTECは関係ないですけど」
「関係ない」
「……ノートNISMO S、走る時は走りますよ。僕、何回か後ろについたことありますけど」
「……知ってる」
「コンパクトカーじゃないと、俺は思ってますよ」
準が細田を見た。
三秒、見た。
「……VTECが言うか」
「VTECは関係ないです、今は」
「……そうか」
「はい」
「……ありがとう」
「お礼はいいです」
「……いや、ありがとう」
細田がGD3に戻った。
準が天井を見た。
加賀がセリカに戻った。
引き戸が開いた。
朱音が入ってきた。
ビデオカメラを下げていた。
棒付き飴を口に入れていた。
「……聞こえてた?」と準。
朱音が頷いた。
メモ帳を取り出した。
朱音がメモ帳に書き込む。
鈴木準(文学部・ノートNISMO S所有)、スーパーの駐車場でアイデンティティを二回破壊された。
一回目:知らない主婦にノートE-POWERと誤認された。
二回目:車好きの子供に「かっこいいコンパクトカー」と言われた。
同時発生:二台隣のS13シルビアが「かっこいいスポーツカー」と評価された。
被害:走り屋としてのプライド、日産スポーツへの積年の恨み、および中一から現在に至るシルビア熱が同時に再燃した。
特記事項:鈴木は「S13は世界でケモ娘の次に美しい車だ」と述べた。全員が真剣だと理解した。
結論:S13は買えない。金がない。
追記:ノートNISMO Sは、スポーツカーである。子供には伝わらなかった。




