「えへへ」と「にゃん」
部室の空気は、いつも通りだった。
正確に言えば、「いつも通りにバカをやる前の、静かな昼下がり」だった。
加賀はセリカのサスペンション設定を見直していた。
メモ帳に数字を書いては消し、書いては消した。
そこに車しか存在していなかった。
細田はGD3のスロットルボディをタオルで磨いていた。
磨きながら「VTEC……」と呟いた。
一人だった。
マイケルはBHレガシィのシフトパターンを天井に向かって唱えていた。
「1st、2nd、3rd……JAPANESE SOUL SHIFTING!!」
「声に出すな」と加賀が言った。
そこに、朔夜が来た。
「準。いるにゃ?」
引き戸をそのまま足で開けて入ってきた。
ライフルを肩に担いでいた。
軍帽を耳の間に押し込んでいた。
いつも通りだった。
「ああ、いるよ」と準が言った。「どうした」
「用があるにゃ。少し話があるにゃ」
「うん。座れよ」
「……ここ、物が多いにゃ」
「慣れろ」
朔夜はパイプ椅子を引いて座った。
ライフルを膝に渡した。
AK-47の、フォアグリップが光っていた。
加賀はセリカのメモから目を上げなかった。
細田はVTECを磨き続けた。
マイケルは天井のシフトパターンを唱え続けた。
ここでは、猫又がいることは普通だった。
ライフルを持っていることも、まあ、普通の範疇に収まっていた。
収まっていてはいけない気がしたが、全員が目をつぶっていた。
「それで、話って」
「準に頼みたいことがあるにゃ。絵の話にゃ」
「ああ。どんな」
「狐の——」
引き戸が、もう一度開いた。
「おにーちゃん……!」
ナターシャだった。
シャンパンゴールドの耳が、ぴんと立っていた。
セルリアンブルーのジャケットが、きっちりボタンを留めていた。
「えへへ」の笑顔が、そこにあった。
「ナターシャ、なんで——」
「えへへ。おにーちゃんのこと、遠くから見てたの。ここに入ったから、追ってきちゃった。えへへ」
「ストーキングじゃないですか」と細田。
「えへへ」
ナターシャが部室に入った。
一歩踏み出したところで、止まった。
朔夜が、こちらを見ていた。
目が——黄色かった。
細い。
値踏みするような目だった。
「……」
「……」
二秒、沈黙があった。
「その時計」と朔夜が言った。「CASIO F-91Wにゃ」
「……えへへ」
「その時計をつけてる人間は、だいたい危険にゃ」
「えへへ」
「否定しないにゃ」
「えへへ」
朔夜の視線が、ジャケットの内側に動いた。
一秒。
戻った。
「……便利そうにゃ」
ナターシャの笑顔が、少し変わった。
「えへへ」のままだったが、焦点が違った。
「……猫の子、目がいいね」
「猫又にゃ。猫じゃないにゃ」
「そう。ごめんね。えへへ」
「謝らなくていいにゃ。正確じゃない言葉は嫌いにゃが、敵意はなかったにゃ」
準が固まっていた。
加賀はセリカのメモを書き続けていた。
「……ねえ」とナターシャが言った。「それ、AKにゃ?」
「そうにゃ。47にゃ」
「ポリマーストック?」
「そうにゃ。M-LOKハンドガードにゃ。垂直フォアグリップとQDフラッシュハイダーもつけてるにゃ」
「サプレッサーは?」
「30cmにゃ」
「長いね」
「用途による、にゃ」
ナターシャがジャケットの内側に手を入れた。
取り出した。
Beretta 92FS Inox だった。
サイレンサーが、ついていた。
「ベレッタにゃ」と朔夜が言った。
「えへへ。92FSのInoxにゃ。ステンレスフレームにゃ」
「……口調が伝染したにゃ」
「えへへ。ごめんね」
朔夜がライフルを膝から外した。
立ち上がって、ベレッタを見た。
目が、少し変わった。
「整備してるにゃ」
「毎日してるよ。えへへ」
「スライドの動きがいいにゃ。ルーブはCLP?」
「ブレークフリーにゃ。えへへ」
「正解にゃ。フレームとスライドの間に砂が入ると止まるにゃ。ちゃんと拭いてるにゃ」
「えへへ。おにーちゃんの邪魔をする人のためだから、ちゃんとしてるにゃ」
「……用途は人それぞれにゃ」
「えへへ」
準が、静かに椅子から立ち上がった。
出口の方に動いた。
「準。どこ行くにゃ」と朔夜。
「……ちょっと」
「座ってていいにゃ。邪魔しないにゃ」
「おにーちゃん、逃げないでほしいな……えへへ」
準が戻った。
座った。
目が虚ろだった。
「撃ったことあるにゃ?」と朔夜が聞いた。
「えへへ。あるよ」
「距離は」
「近い方が好きにゃ。えへへ」
「……正直にゃ」
「猫の子も?」
「僕はライフルにゃ。距離は遠い方が便利にゃ」
「へえ。狙撃にゃ?」
「用途による、にゃ」
「えへへ。意気投合したにゃ」
加賀がメモから顔を上げた。
「何の話してんの」
全員が加賀を見た。
「セリカのリアの車高、1.5mm下げたら限界域でのアンダーが減る計算なんだけど。お前ら、試乗してみて感想くれない?」
沈黙。
「今その話してないですよ」と細田。
「俺はその話してる」
「ベレッタとAKの話してましたよ」
「知ってる。興味ない」
「銃が部室にあるんですよ?」
「走れないから興味ない」
加賀がメモに戻った。
マイケルが天井から目を下ろした。
ナターシャとAK-47を順番に見た。
AK-47のスコープを見た。
「……JAPANESE SOUL WEAPON!!」
「黙れ」と加賀。
「ヘーーイ!! これ、AKデスYO!! ロシア製デスYO!!」
「ポリマーストックはロシア製じゃないにゃ」
「DETAIL!! JAPANESE DETAIL!!」
「猫又にゃ。日本人じゃないにゃ」
「SAME SOUL!!」
引き戸が、また開いた。
「ちょっと待って」
舞花だった。
電卓を持っていた。
朱音がビデオカメラを回しながらその後ろにいた。
「今、部室の外まで銃の話聞こえてたんだけど」
全員が静止した。
「銃刀法違反、わかる?」
ナターシャが「えへへ」と言った。
朔夜が「……不便にゃ」と言った。
「不便じゃなくて違法なの。東入間警察署の番号、今から調べるから」
舞花がスマホを取り出した。
「ちょっと待って」と準が立ち上がった。
「なんで鈴木が待ってって言うの」
「いやそれは——」
「おにーちゃん……えへへ」
「鈴木を守ろうとしてるなら余計なお世話だから」
「えへへ」
「怖い笑顔やめて」
朱音がメモ帳を取り出した。
棒付き飴をガリリと噛み砕いた。
静かに書き始めた。
「舞花。セリカの車高の件、乗ってみて感想くれない?」と加賀。
「今じゃない」
「今がいいんだけど」
「東入間署の番号調べてる最中なんだけど」
「先にセリカ」
「なんで車高が優先なの」
「走り屋だから」
舞花が目を閉じた。
三秒、静止した。
開いた。
「……番号、調べ終わった」
「乗ってから聞いて」
「乗らない」
朱音がメモ帳を開いた。
朔夜(猫又・推定年齢不明)とナターシャ・ニコライエヴナ・スミルノワ(妖狐・180歳)が部室で初遭遇した。
理由:ナターシャが準を追ってストーキングした。
被害:AK-47カスタム一丁およびBeretta 92FS Inox(サイレンサー付)が部室内に持ち込まれた。
特記事項:二名は銃器の整備状態・用途・射程距離について十五分以上にわたり意見交換を行った。会話の質は高かった。
結論:部室が武器商談の場になった。
追記:加賀は終始セリカの車高調整について話していた。舞花は銃刀法違反で東入間県警に二人を連れ出そうとしていたが、加賀に「先にセリカに乗ってから」と言われ、現在保留中である。




