「私と車どっちが大事なの」という質問に正しい回答など存在しない
日曜日、午後一時五十五分。
埼玉中央総合大学・6棟裏、第2駐車場。
秋の乾いた風が吹き抜ける中、一ノ宮雅紀はコンテナハウスの前に正座し、ガタガタと膝を震わせながら虚空を見つめていた。その手には、般若心経が印刷された紙が握りしめられている。
「南無阿弥陀仏……臨兵闘者皆陣烈在前……悪霊退散……悪霊退散……」
「雅紀、宗派が混ざっているぞ」
加賀練斗がセリカのボンネットを開け、スロットルワイヤーの張りを点検しながら冷ややかに突っ込んだ。
「だいたい、これから来るのは悪霊ではなく人間だ。少し情念の湿度が飽和水蒸気量を超えているだけの、ただの女子大生と先輩だろう」
「それが一番怖いんだよォォォッ!!」
雅紀が絶叫した。
「幽霊なら塩撒けば消えるかもしれないけど、詩音は塩撒いたら『雅紀くん……私のこと、お清めしてくれたの? 愛のお清めだね♡』って余計に喜んで距離詰めてくるんだよ! 物理的に除霊不可能なんだよアイツはァッ!」
「ふむ……愛の純度が高すぎて、あらゆる外的刺激を好意として変換してしまう絶対防衛結界か」
鈴木準がスケッチブックを抱え、深く感嘆したように頷いた。
「人間関係における永久機関だね。実に恐ろしく、美しい」
「感心してないで除霊グッズ持ってこい準!!」
その時だった。
――フォォォォォォンッ……!
キャンパスの静寂を切り裂いて、遠く正門の方角から響いてきたのは、雅紀のエイト(自然吸気ロータリー)とは明らかに異質の、極めて暴力的で澄み切った高周波。
シュバッ! と大気を切り裂くバックタービン音。
ツインスクロールターボが過給圧を一気に高め、排気熱でアスファルトを舐めるような地鳴りが近づいてくる。
「……来た」
加賀が作業の手を止め、視線を向けた。
第2駐車場に姿を現したのは、眩いばかりの純白を纏った伝説の名車。
マツダ・RX-7(FD3S後期型)。
オリジンのフルエアロを隙なく組み付け、車高はミリ単位で極限まで落とされ、低く構えたグラマラスなフェンダーラインは息を呑むほど美しい。
まさに、九〇年代日本のピュアスポーツの頂点。
キュキッ、と乾いたタイヤの音を立ててFDが停まり、運転席のガルウィング――ではなく純正ドアが滑らかに開いた。
「よっ、雅紀! 元気にしてたか?」
降りてきたのは、黒髪のマッシュヘアを軽やかに遊ばせ、都内の広告代理店勤務らしいこなれたジャケットを着こなした青年。
埼玉中央総合大学のOBにして、雅紀の高校の先輩――望月雄星だった。
落ち着いた大人の余裕と、どこか少年のような悪戯っぽい笑顔を浮かべ、周囲を見渡す。
「加賀も相変わらずだな。セリカ、前よりツヤが増してないか? お前もあいかわらず車狂いやってて安心したよ」
「お久しぶりです、雄星先輩。先輩のFDも、相変わらず完璧な燃焼状態を維持しているようですね」
加賀が軽く会釈する。
「ゆ、雄星先輩……!」
雅紀がおっかなびっくり立ち上がった。
「先輩、お久しぶりです……じゃなくて! なんで連れてきちゃったんですか! 助手席に積んできた核弾頭を!!」
「あはは、悪ぃ悪ぃ」
雄星は頭を掻きながら、呆れたように助手席側を顎で指した。
「俺も断ろうとしたんだけどさ。『お兄ちゃんが雅紀くんに会わせてくれないなら、FDのインタークーラーに熱湯注ぐね♡』って笑顔でヤカン持ってきたからさ。命の危険を感じて乗せるしかなかったんだよ」
「お前の妹の脅迫手段がピンポイントで車好きを殺しにきてんだよ!!」
バタン。
重厚な音を立てて、FDの助手席ドアが開いた。
降り立ったのは、華奢な身体に黒のゴシック調のワンピースを纏った少女。
ふわりと揺れる黒髪のエアリーツインテール。
陶器のように白い肌と、大きな瞳。
一見すれば、誰もが振り返る可憐な美少女――望月詩音。
だが、その瞳の奥には、光を一切反射しない漆黒のブラックホールが渦巻いていた。
「……雅紀くん♡」
鈴を転がすような、甘く、冷たく、鼓膜の奥に直接まとわりつくようなウィスパーボイス。
詩音は小走りで駆け寄ると、雅紀の胸元にスッと飛び込み、その服の裾をギュッと握りしめた。
「ひ……っ!?」
雅紀の全身の毛穴から冷汗が噴き出す。
「雅紀くん……やっと会えたね♡ 高校を卒業してから、ずっと、ずーっと会いたかったよ……。メッセージ、全然返信してくれなかったでしょ? でも私、信じてた。雅紀くんは照れ屋さんだから、私のCDを聴いて愛を温めてくれてるんだって♡」
「あ、あはは……詩音、元気……そうで……」
雅紀の喉が引きつる。
しかし、次の瞬間。
詩音の視線が、雅紀の背後に停めてあった黒塗りのRX-8へとスライドした。
「…………」
スッと、詩音の顔から表情が消えた。
温度が、一瞬でマイナス四十度まで急降下する。
「……まだ、乗ってたんだね。この車」
「えっ……」
「高校のときから、ずっと一緒だよね、この車。……雅紀くん、私の誕生日、忘れてたことあったよね? なのに、この車のオイル交換の日は、カレンダーに花丸つけて絶対に忘れないんだよね?」
「い、いや、ロータリーは三千キロごとにオイル交換しないとアペックスシールが摩耗して圧縮が抜けるから――」
「言い訳しないでッッ!!」
キィィィィンッ! と響くような甲高い叫び声とともに、詩音の瞳が狂気に濁った。
「私と! この鉄くず!! どっちが大事なのよォォォッ!!」
「鉄くずって言うなァァァッ!!」
雅紀の魂の叫びが木霊した。
「私より、この車の排気音の方が好き? 私と手を繋ぐより、シフトノブを握ってる方が気持ちいい? ねえ、雅紀くん、答えてよ! 私の胸の鼓動より、ローターが回転する振動の方が愛おしいの!? ねえッ!!」
「質問の癖が強すぎるんだよォォォッ!!」
詩音はエイトのボンネットに両手を叩きつけるように張り付いた。
「許せない……! お兄ちゃんが雅紀くんに吹き込んだこの悪魔の機械……! 雅紀くんを私から奪ったこの泥棒猫ならぬ泥棒鉄板……! 今すぐ壊してあげる……! スクラップ工場に持っていって、プレス機でぺちゃんこにしてあげるからねぇぇぇッ!!」
詩音がバッグから、キラリと光る金属製の鍵を取り出し、エイトのドアパネルに突き立てようと振りかぶった――その時。
ガシィッ!
「……そこまでだ」
詩音の細い手首を、鉄の万力のような握力で掴み止めた男がいた。
加賀練斗である。
「な、何よアンタ! 邪魔しないで!」
「他人の愛車を傷つける行為は、いかなる痴情のもつれであろうと工学への冒涜、物理法則への宣戦布告だ」
加賀の黒い瞳が、氷のように冷たく詩音を射抜いた。
「セリカたんの視界に入る場所で、内燃機関への物理的テロを働くことは万死に値する。今すぐその鍵をポケットにしまえ。さもなくば、お前のツインテールをセリカのダイレクトイグニッションコイルに接続して高圧電流を流すぞ」
「加賀、脅し文句の治安が悪すぎるよ!」
「まあまあ詩音、やめとけって」
雄星がタバコを取り出し(火はつけずに)、やれやれと首を振った。
「お前がそうやってヒステリックに車に嫉妬するから、雅紀に逃げられたんだろ? ロータリーの良さを理解できない女は器が小さいぞ」
「お兄ちゃんは黙っててェェェッ!!」
詩音がブチギレる。
「お兄ちゃんが高校のとき雅紀くんに『ロータリーの加速は宇宙だ』とか変な宗教を吹き込んだからでしょ! 元凶はお兄ちゃんでしょォォッ!!」
「宗教って言うなよ、真理だろ真理」
「……ふむ」
準がスケッチブックにペンを走らせながら、深遠な溜息をついた。
「肉体の愛を叫ぶ哀しき乙女と、内燃機関の宇宙に魂を奪われた少年、そしてその少年を深淵へと導いた悪魔の導師……。まるでゲーテの『ファウスト』を彷彿とさせる壮大な悲劇のトライアングルだね」
「ポエムで片付けるな準先輩! 雅紀先輩の車がリアルに傷つくところでしたよ!」
葵人が大真面目に前に出た。
「詩音さん! 車は鉄くずじゃないです! RX-8はマツダの技術者がロータリーの灯を消さないために血の滲むような思いで開発した、世界唯一の四シータースポーツなんです! こなたちゃんも『好きなものに命を懸けるのはオタクの誇りだ』って言ってます!」(※言ってない)
「オーウ! ジャパニーズ・ヤンデレ・ファイト! ベリー・デンジャラス・パッションデース!」
周囲がカオスに包まれる中。
雅紀は、深呼吸をひとつした。
いつもなら真っ先に逃げ出し、机の下に隠れて震えているはずの男が――ゆっくりと、詩音とエイトの間に割って入った。
「……詩音」
「雅紀くん……?」
雅紀の緑系の瞳は、恐怖に揺れていた。足も相変わらず小刻みに震えている。
だが、その視線は、真っ直ぐに詩音を捉えていた。
「悪かったと思ってるよ。高校のとき、お前の気持ちを全然考えないで、車の話ばっかりして、寂しい思いをさせたのは……本当に、俺が悪かった」
「雅紀くん……! じゃあ――」
「でもな」
雅紀は後ろの手で、愛車RX-8のフェンダーを、ぎゅっと掴んだ。
「この車は、壊させない。こいつは……俺が初めて自分でバイトして、ローン組んで、いつ壊れるかビクビクしながら、それでも毎日大切に直して乗ってきた……俺の、たった一つの相棒なんだ。お前に壊される筋合いは、絶対にない!」
「…………っ」
詩音の大きな瞳が、見開かれた。
普段は情けなくて、心配性で、姉の影に怯えて逃げ回っている男。
だが、その男が、たった一台の黒い車を守るためだけに、自分の狂気じみた怒りに真正面から立ち向かってきている。
その瞳の奥にある、決して誰にも譲らない頑なな光。
詩音の頬が、ポッと上気した。
その口元が、ゾクッとするほど艶やかに、狂気を帯びて弧を描く。
「……あはっ♡」
「え?」
「そういうところ……。そういう、絶対に折れない頑固なところ……やっぱり、大好き……♡」
「えええええええええっ!?」
雅紀が絶叫した。
詩音はうっとりとした表情で、両手で自分の頬を包み込んだ。
「決めた。やっぱり、私、雅紀くんを絶対に諦めない。今日は帰ってあげるけど……絶対に、その車よりも私のことを好きにさせてみせるから。その車から雅紀くんを奪い取って、私の愛で窒息させてあげるね♡」
「全然嬉しくねええええええええッ!!」
「あーあ、完全に火に油注いじゃったな」
雄星が豪快に笑いながら、FDのキーを回した。
キュルルル、ブォンッ! と美しいツインターボのアイドリングが響く。
「じゃあな雅紀! 詩音の相手、頑張れよ! 次は峠でロータリー同士ランデブーしようぜ!」
「二度と来ないでください雄星先輩ィィィッ!!」
「バイバイ、雅紀くん♡ またすぐ来るね♡」
手を振る詩音を助手席に乗せ、純白のRX-7は甲高いロータリーサウンドを残して、華麗に去っていった。
静寂が戻った第2駐車場。
雅紀は膝から崩れ落ち、アスファルトに突っ伏して動かなくなった。
「……終わった……。命拾いしたと思ったのに……地獄の定期便が確定した……」
「フッ、安心しろ雅紀」
加賀がセリカのボンネットを静かに閉じ、冷徹に見下ろした。
「お前が女の情念に押し潰されて死んだら、そのエイトは俺が引き取って部品取りにしてやる。セリカたんの足回りの流用に使えるかもしれん」
「絶対に死なねえよバカヤロウッッ!!」
叫ぶ雅紀の声が、夕暮れの新座の空に響き渡る。
厄介すぎる元カノと、無責任すぎるカリスマ先輩。
S・H・Bの日常に、決して消えない特大の火種が、こうしてしっかりと刻み込まれたのだった。




