補講地獄と灰島凛、そしてマイケル再びやらかす
某月。
蝉が死ぬほど鳴いていた。
ミーンミンミンミンミーーーー!!!
大学のアスファルトが、陽炎で歪んでいる。
空気を吸うと肺が熱い。
日陰に入っても、反射熱が足元から来る。
E塔裏のコンテナ前。
S・H・Bの5人が、重い顔で集まっていた。
「……マジで今日、補講だよな」
加賀が空を見上げながら言った。
「俺も信じたくねぇけど、現実だ」と準。
「よりによって**"車両力学"と"文学概論"のW補講**。
殺す気か」と細田。
「オレ、物理と日本語、どっちもニガテデス!!」
「お前そもそも漢字読めてないじゃん」と雅紀。
「読める!……たぶん!」
「"たぶん"がついてる時点で読めてない!!!」
加賀が立ち上がった。
「行くぞ。遅刻したら課題三倍らしい」
「なんで補講で追加ペナルティがあるんだ!!!」
廊下のホワイトボードに、紙が貼られていた。
補講実施:担当・大宮先生(文学部)※遅刻者、課題三倍。※エアコンは故障中につき各自対策のこと。
「……大宮先生か」と準。
顔が曇った。
「終わったな」と加賀。
「あの人、補講を**"授業"じゃなくて"イベント"扱いする**タイプだ」
「去年、"古文補講 in 車内泊"とかやってたぞあの人……」と細田。
「車内泊!?!?!?」
「駐車場で一晩かけて古文の序文を全部暗唱させたらしい」
「それは授業じゃなくて拘禁だ!!!」
「オーマイガァ……」とマイケル。
廊下の窓から見える外は、光が白く飛んでいた。
教室の中はさらに暑かった。
エアコンが止まっている。
開けた窓から入ってくるのは、熱風だった。
汗が、座る前から額に浮いていた。
「……これ教室か、蒸し風呂か」
「地獄にも温度制限あるだろ……」
バァンッ!!
扉が勢いよく開いた。
「よく来たな諸君!!」
三菱コルトラリーアート(赤・MT)のキーを手に持ったまま、
大宮涼真が教室に入ってきた。
文学部準教授。走り屋仲間。S・H・Bの顧問的存在。
そしてこの補講の担当教員。
「補講という名の"知の耐久レース"へようこそ!!」
「地獄確定!!!!」
大宮先生が黒板に大きく書いた。
「"文学とは汗と涙の芸術である"」
「今日の気温39℃で汗しか出ない!!!」
「汗も芸術だ!!」
「違う!!!!」
大宮先生は全員の顔を見渡して、満足そうに頷いた。
「エアコンが壊れているのはむしろチャンスだ。
不快な環境が、人間の感性を研ぎ澄ます——」
「研ぎ澄ます前に熱中症になります!!!」
「水分補給は各自でな!!」
「開き直った!!!!!!」
講義開始5分後。
汗をかきながら、それぞれがノートを開いていた。
大宮先生が芭蕉の俳句を板書している。
その教室の、窓際の席に——
灰島凛が座っていた。
淡いグレーの髪。
チョーカー。
無表情。
こんな灼熱の教室の中でも、
凛の周囲だけ、なぜか空気が少し違う気がした。
涼しい、というより——静かだった。
加賀が小声で雅紀に言った。
「……凛さん、補講?」
「らしい。法学部の単位だって」
後ろの席で、阿部亜里沙が凛の背中を見て、
小さく舌打ちした。
「(チッ、出たよ無表情チョーカー女……)」
「……舌打ち、聞こえた」
凛が振り返らずに言った。
「へっ? な、なんも言って——」
「……(無言の視線)」
阿部が固まった。
教室の空気が、体感で5℃下がった。
「おい……なんか空気、凍ってねぇ?」と雅紀(小声)。
「灰島、発動した……」と準(小声)。
「"……きえろ"が来る前に静かにしとけ……」と加賀(小声)。
凛は前を向いた。
何も言わなかった。
それだけで十分だった。
大宮先生が黒板に大きく書いた。
「松尾芭蕉」
マイケルが手を挙げた。
「センセー! "ハショウ"って誰ですか? レーサーデスカ?」
「俳人だ」と大宮先生。
「ハイジン?」
「そうだ、俳句を詠む——」
「ハイク? マフラーのメーカー?」
「違う!!!!!」
「ハショウ……ハイジン……ハイク……全部チューニングパーツに聞こえるの俺だけ?」と雅紀。
「俺も聞こえる!!!」と細田。
「お前らのせいで俺もそう聞こえてきた!!!」と準。
大宮先生が呆れた顔で言った。
「……諸君、芭蕉の話をしているんだが」
「してください!!!!」
騒然とした教室の中で——
「……黙れ」
凛の声が、一言だけ落ちた。
静寂。
蝉の声だけが、窓の外から聞こえた。
大宮先生が感心したように言った。
「おお、灰島くんはクラスの治安を守れるな」
「……うるさいと不快なだけ」
「それが教育の力だ!!」
「違います」
マイケルが小声で凛に言った。
「ア、ソーリー……(ちょっと小声で)でも、キレイナ目ダネ……」
凛がゆっくりとマイケルの方を向いた。
「……消す」
「!!???」
「マイケル静かにしろ!!! 本気のやつだ今のは!!!」
午後2時。
補講は佳境に入っていた。
汗が止まらない。
ノートがふにゃふにゃになってきた。
大宮先生だけが、なぜかまったく汗をかいていなかった。
「先生、人間ですか」と準。
「文学で鍛えた肉体だ!!」
「意味がわからない!!!」
そのとき。
廊下の窓の向こうに、人影が見えた。
ダブルブリッジのメガネ。
呉福造だった。
窓をノックしながら、冷却スプレーの缶を掲げている。
「おーい! お前らぁぁ! 冷却スプレー持ってきてやったぞー!!」
教室が沸いた。
「呉さん!!!!!」
「救済者!!!!」
大宮先生が顔を上げた。
「おお! 呉自動車のダブルブリッジ殿ではないか!!
相変わらず、タイムリーな登場だ!!」
「先生、相変わらず暑苦しい講義してんな!」
「文学とは暑苦しいものだ!!!」
「賛成しかねる!!!」
冷却スプレーが全員に行き渡った。
シューッ!!
首元に当てると、一瞬だけ涼しかった。
一瞬だけ。
「気休めにしかならん!!!」
「気休めでも天国だァァ!!!」
午後4時。
「以上で本日の補講を終わる!!
諸君の汗は、文学史に刻まれるだろう!!!」
「刻むな!!!!」
教室を出ると、廊下の空気がわずかに涼しかった。
それだけで全員が「はぁ……」とため息をついた。
凛が無表情で歩きながら言った。
「……暑い。殺意湧く」
「理性を保て凛、殺意は詩に変えよう」と安藤。
「……詩人、きえろ」
「毎回言われてるな!!」と準。
「お前今日だけで3回消されかけたな」と細田。
「トラウマニナリソウ……」
呉が全員を見渡した。
「よーし! 補講も終わったし、呉自動車集合な!
アイス奢ってやる!!」
「おっしゃああああ!!!」
全員が動き出した。
その瞬間。
「……行く」
凛が、静かに言った。
全員が止まった。
阿部が目を見開いた。
「う、うわ……あの子も来るの!?」
加賀が小声で言った。
「……"行く"って言葉が、なんで怖いんだろうな」
「あの目で言うからだろ!!!」
凛は既に歩き始めていた。
安藤が隣に並んだ。
凛が安藤を一瞥した。
「……何」
「嬉しいと思って」
「……調子に乗るな」
でも——歩くのを止めなかった。




