DAY 4 AM
死んだように眠るという言葉があるが、眠りから覚めた時に、夢を見ていたというよりもあの世に行ってきたと感じる夢がある。夢はたいていばかばかしくて、つじつまが合わなくて、たいていの場合、途中から、ああ、これは夢なのだと気がつく。
例えば、今までの人生で出会った人々が一堂に会すようなパーティーが開かれている。すでに死んでしまった友人たちの姿ももちろんある。自分自身はそこで何をしているわけでもない。ただ友人たちが酔っぱらって笑っているのを見ている。なぜかそれがとても楽しい。やがて目が覚めると、夢の中に誰がいたのかまったく思い出せない。こういうのが、あの世に行った気にさせる夢。
夢に愛おしさはない。もう一度同じ夢を見たいとか、夢が現実になればいいのにとか、そんな思いを抱く間もなく夢の記憶は薄れていく。それでも夢は楽しい。現実と同じように楽しい。夢も現実も生きている間にしか体験できない。前世も来世もなく、人は死んだらおしまいだ。だから一生懸命生きなければいけない。あの世に行った気になる夢を見る理由はただひとつ。「おまえはちゃんと生きていないじゃないか」という警告だ。
北九州発羽田行きの飛行機は九州上空を南東に進み、やがて四国の南側の太平洋上に出る。唐沢譲は自分の殻に閉じこむように窓に顔をつけ青い海を見下ろし、眼を閉じた。その表情があまりにも幸せそうだったため、知人でさえ彼だと見分けることができないかもしれない。見ようによっては、一人で陶酔している。頭のいかれた中年男に見えないこともない。たとえそう思われたところで、意に介することはない。入院中の病院のベッドでの上で彼は何度も何度も同じことを繰り返した。そしていまは海を見下ろせる場所で、病院のベッドの上で繰り返したように三日前に自分が海に落ちた一部始終を振り返っていた。
訪問先から部下の城崎大輔と一緒にホテルへ戻る途中で、突然タクシーを降りたくなった。灰色の海に心を引かれたわけでないし、気分が悪くなったわけでもない。特別な予感もなかった。降りたくなった理由を問われても説明はできない。
タクシーが去り、ひとりで歩き始めたところから、唐沢の記憶は鮮明になる。
緩やかにカーブをした道路が海沿いに伸びていた。車道の左側は白線で区切られただけの歩道とガードレール。その向こうは木や草があったりなかったりで、緩やかな斜面が10メートルほど下の海へと続いている。明らかに人が歩くことが想定されていない道路。途中、大人がどうにか体を入れられるくらいの幅でガードレールが切れている場所があった。唐沢はしばらその場所にたたずみ、空と同じ色の灰色の海を眺めていた。時折ぱらぱらと波光がきらめき、そのたびに声が聞えるような気がした。
突然、目の前に巨大な波がせり上がり、その波の中から二本の長い腕が伸びた。長い腕は唐沢の身体を両側から抱きかかえ、水の中へと連れて行った。
なすすべがなかった。泳げない唐沢は死を覚悟した。
「やっと見つけてもらえた」水の中で女の声がした。
レースの刺繡が施された、限りなく白いに近い薄い紫色のワンピースをまとって、水川刹那が水の中で優美に揺れていた。
「刹那?」唐沢は確かめるように訊いた。
「そうよ、譲」まぎれもない刹那の声だった。
「これどういう状況?」
「私は水に溶けるの、私が抱きしめている限り譲は決して溺れないわ」
「水に溶ける?」
「水溶性なの」
「刹那?」
「なあに?」
「生きてたの?」
「ひどいわ、久々の再会のあいさつがそれ? …じゃあ、譲は私のこと覚えていてくれた?」
「え?」
「今驚いたでしょう? 忘れてたわね?」
「だって…」
「だってなあに?」
「別れたことが辛すぎて、刹那のことを忘れないと前に進めなかった」
「へえ、そういう言い訳するのね?」
「言い訳じゃない、本当のこと」
唐沢譲は大学3年の時に同じゼミで出会った水川刹那と恋に落ちた。どちらからどうやって告白したのかもわからないくらい、二人は当たり前のように恋人となった。時間の許す限り二人は一緒にいた。二人で勉強した後そのまま家に帰らないこともあった。卒業して就職すると、研修期間中はお互い離れ離れになり、1か月ほど会えない時間があった。月が替わり、やっと会えると心躍らせてデートに向かったその日に、唐沢は刹那から別れを切り出される。唐沢にとって世界が終わった日だった。
失恋の痛みを紛らわすため、唐沢はいろいろな女性と付き合ってみた。誰と付き合っても虚しさしか残らない。そんな女性の中で、ひとり結婚に対して積極的だったのが結希子だった。
唐沢は流されるままに結希子と結婚した。仕事も順調で、二人の子供に恵まれた。こういうのが世間で言うところの幸せなのだろうとは理解していた。でも、自分が幸せかどうかはよくわからなかった。少なくとももしもう一度人生をやり直せるとしたら、この人生を選ぶことは決してないだろう、と唐沢はいつも感じていた。
「譲、会いたかったわ」水の中で刹那の声が甘く響く。
「別れたのはオレに失望したからだよね?」唐沢はまだ戸惑っている。
「どうしてそう思うの?」
「だって、…オレは刹那のことが大好きだった、顔を見ているだけで幸せだった、あまりにも刹那が好きだったから、将来何をしたいとか、何かを成し遂げたいか、そんなことを考えたいとも思わなかった、明日という日は常の今日の続きなのだと当たり前のように思っていた、向上心の全くない人間だったんだよ、刹那が嫌になるのも当然だよね?」
「へえ、そんな風に思っていたの?」
「そうだよ」
「でも、私のことを忘れてたって言ったわよね?」
「ずっと忘れてたんだ、本当だよ、いま少しずつ思い出してる」
「取り繕うのが下手ね」
「取り繕ってなんかない、本当だってば」
「わかってるわ、譲、私は世界の誰よりもあなたを理解している…、だから…、あなたを試すようなことをしたことをずっと後悔していた」
「オレを試した?」
「お別れするとき、譲に『私を探さないで』って言ったことの、本当は譲に探してほしかった、でも素直に言えなかった、それでも譲は探してくれるって期待したわ、試したのよ、…気づいたときはあとの祭り、そうよね、譲は私の言うことを何でも聞いてくれた、今はよくわかるわ、私が『探さないで』って言ったから譲は私の言うことを聞いてくれただけなのよ、探してほしかったのなら『探して』とはっきり言わなければいけなかった…ねえ、もしかして覚えてない?」
「…あの時はショックが大きすぎて、…たぶん記憶から抹消した」
「思っていたことをやっと伝えられたのに、残念だわ」
「ごめん、刹那」
「また試すようなことしちゃった…、譲、会えて本当に嬉しい、あなたにさよならを言ったのは、あなたと同じことを考えていたからよ」
「え?」
「私も譲のことが好き過ぎたわ、二人でベッドに入るともう出たくなかった、ずっとこのまま体を合わせていたいっていつも思っていた」
「オレもだよ」
「私たち、最高のバカップルだったわね?」
「そうだね」
「だからよ、このまま一緒にいたら私は譲の人生をダメにしちゃう、いつか別れなければいけないって私は思っていた」
「そんな…」
「そんな矢先に事件が起きたわ、私たちが就職した直後に、父が勤務先のお金を横領していたことが発覚したの」
「そうなの?」
「うん、今だったらアウトでしょうけど、時代的にまだ内部でこっそりと処理できたから刑事告訴はなしですんだ、父は将来事業を始めるつもりで人脈作りのため横領したお金で接待を繰り返していたの、それでも会社にはかなり貢献したらしいからクビだけですんだ、私も首になるんじゃないかって思ったわ、ちょうど研修で神戸にいた時で、ある日の夜に無性に海が見たくなってひとりで出かけた、暗くて静かな海をじ~っと眺めていたら、死にたいなんて気持ちはまったくなかったけど、水に入ってみたくまったの、四月の夜の海よ、水は冷たい、それなのに抵抗なく入ってしまったの、たぶんあれほど長く水に入っていたことはなかったのでしょうね、その時に初めて、自分の身体が水に溶けることに気がついたわ、あの時に真っ先に譲のことを考えたわ、ただでさえ自分が譲のことをダメにしてしまうと思ってたところにきて、父親はほぼ犯罪者で私の身体は水溶性、こんな変な女が側にいたら譲がかわいそうだって思って私は別れる決意をした」
「なんで? なんでその時に何も言ってくれなかったの?」
「ちゃんと付き合った人は譲が初めてだった、だから、あなたがどれだけ私にとってかけがえのない人か気づいていなかった…」
「それはお互い様か、若かったね、オレたち」
「そうね」
「今までどうしてたの?」
唐沢は22歳の時に別れた水川刹那のその後を全く知らなかった。彼ひとりだけではない。大学時代の共通の知人は誰一人刹那の消息を知らなかった。
刹那と仲の良かった数人の女友達は口を揃えて同じことを言った。
―唐沢君が知らないのに私たちが知ってるわけないじゃない、だってみんな唐沢君と刹那は結婚するって信じてたから!
「譲と別れてからすぐに、私は求婚された」刹那は唐沢の質問に答えた。
「え?」
「私は、彼の気が変わることを期待して、父のことを話したわ、迷惑をかけるから私となんか結婚しない方がいいという気持ちで、でも彼は構わないと言った、それでひっそりと結婚することにした、年上でね、当時はサラリーマンだったけど、何人かの知り合いと起業の準備をしていた、時間はかかったけれど起業は成功したの、近くで見ていたからよくわかるけど起業で成功する人って24時間仕事のことだけを考えてる、家庭と両立なんて無理なのよ、家庭は崩壊するのがデフォルトだと思うわ、夫がサラリーマンをやめてから旅行なんて連れて行ってもらったこともない、それでも私は夫のためにできることはした、知人を招くときはせいいっぱいもてなし、夫婦で人前に出るときは夫を立てた、見返りなんて求めなかった、機械のように私は夫をサポートした、それが私にとって一番楽だったの…、妊娠もした、でもダメだった、流産したわ、わかった時はほっとしたの、少しも悲しくなかった、欠落してるのよ、私、…夫も二度と子供が欲しいとは言わなかった、あの人にとって事業が子供みたいなものだったから喉元を過ぎたころには全部忘れたでしょうね」
「そうだったんだ…」唐沢はそれしか言えなかった。
「流産してよかったことはね、夫が私を求める機会が激減したことよ、だって譲としたときのような、昇った後にどこまでも堕ちるような気持ちよさは一度もなかった、苦痛だったわ」
「本当?」
「本当よ、私たちは相性がよかったのよ、…数年前に夫を含む経営陣は、大手ファンドに株式の大半を売却すること決めたの、それが夫たちの望んだ成功だった、やり切ったと夫は言ったわ、結局モチベーションがなくなってしまったの、夫はビジネスの世界から引退を決めた、そして、今まで私を旅行にさえ連れていけなかったから、これからは二人で世界中を旅しながら楽しく過ごそうと言ってくれた」
「すごいね」
「…、私は、まずは国内に行きたい場所があるって言った、『どこ?』って訊かれて、日本海側の断崖絶壁に行きたいって答えた、私2時間サスペンスがすきなの、知らなかったでしょう?」
「知らないよ」
「そうよね? 譲と付き合っていたことは見たことないし、…それで、二人で断崖絶壁に立って、夫に渡したの」
「何を?」
「離婚届」
「どうして?!」
「だって、夫と一緒に楽しく過ごすなんて想像ができなかった、どこへ行っても、何をしても、譲と一緒だったらもっと楽しかったのにって、そう思って過ごす未来が透けて見えたの、だから私は言った、あなたは起業して成功するという人生の夢をかなえた、誰にでもできることじゃない、すごいことを成し遂げた、だからこれ以上求めないで、人生で夢は二つも叶わないわ、あなたに私を喜ばせることはできない」
「そんな言い方したの?」
「そうよ」
「ひどい女だね」唐沢はそう言って笑った。
刹那もつられて笑う。「ひどいわよね? でも、譲ならこの話で笑ってくれるって信じてた、私たちツボが一緒だから」
「そうだね」
「夫がどうしたか聞きたい?」
「もちろん」
「私を突き落としたわ、日本海の荒波に」
「え?」
「夫の顔を見たのはそれが最後、私はそのまま水に溶けた、水に溶けていればいつか譲に会えると思っていたから」
「死んでないよね?」
「死んでいるように見える?」
「だって断崖絶壁から突き落とされたんでしょう?」
「でも私の遺体は上がってない、失踪届が出されたか、離婚届を出されたか、それとも何も出されていないかどれかよ」
「刹那、これは現実なの?」
「夢の方がよかった?
「良くない、現実がいい」
「本当? 夢の方が都合がいいんじゃないかしら? いままで幸せだったんでしょう? 私を忘れるくらい、奥様もお子様もいるんだから」
「ずっと思ってた、端から見たら自分の生活は幸せそうに見えるだろう、でも自分には幸せって何だかがよくわからなかった、今やっとわかったよ、オレは刹那のいない世界で生きてきた、そんな世界にもともと幸せなんてないんだよ」
「でもちゃんと家族を作ったじゃない?」
「オレは自分の家族をまっとうできないだろうってずっと思っていた、きっと母親もそうだったんだ」
「譲のお母さま?」
「刹那に母親の話をちゃんとしたことはないよね? オレが小学生の時、母親は夜中に置手紙一枚残して静かに家を出て、それっきり戻らなかった、親父はわけがわからないという感じで取り乱してね、大人があそこまで号泣するのを後にも先にも見たことがない、…実は、オレは寝たふりをしたまま母親が家を出ていく姿を黙って見送ったんだ、何の感慨もなかった、自然なことに見えたんだ、その後母親に対してどういう気持ちを抱いたのかもう思い出せない、自分は屈託のない明るい子供とは全然違っていた、でも刹那と出会って世の中は本当に楽しい場所だと思った、だからこの世に誕生させてくれた母親には感謝しかない、母親がオレにしてくれたことはそれだけで十分だった、刹那のいない世界に生きていたからそのことも忘れていたけど、いま少しずつ思い出してる、たぶん母親がオレに対して感じていたものを今の自分が子供に対して感じている、オレの役割はもう終わったよ、あとは楽しく生きてくれればそれでいい」
「言いたいこと理解できるわ、…でも私、自分が譲の一番の理解者のつもりでいたのに、お母さまの話さえ知らなかったのね?」
「おたがい過去を詮索する必要もなかった、子供だった過去しかないから」
生まれた場所でずっと育ったのか、それともいろいろな場所で生きてきたのか、親の職業とかお互い何一つ知らなかった。話すこともなかったというか、どうでもよかったというか。唐沢には別に誇れるような過去もなくいつまでも忘れられない思い出もなかった。自分の昔のことを別に話したいと思ったことはないし、刹那から聞かれたこともない。刹那自身も昔の話はしなかった。二人にとって目の前が楽しすぎた。
「私たち、いい時に出会ったわ」
「そうだね、あんなふうに人を好きになることなんて二度とないって今はわかる」
刹那は唐沢の頬を撫でた。唐沢は犬か猫にでもなったかのように、水の中で、刹那の掌に顔をこすりつけて目を閉じた。
「まだ信じられない、夢みたいだ」
「夢じゃないわ、ねえ、そろそろ苦しくなってきたでしょう?」
刹那に訊かれて唐沢は黙ってうなずいた。もうずっと水の中にいる。どうやって息をしているのか自分でもわからない。
「今日はもう放してあげる、またすぐあなたの前に現れるわ」
「本当?」
「約束するわ、譲、さあ、ゆっくり力を抜いて、そのまま何もしなくていいの、流れに乗れば岸にたどり着けるわ」
唐沢は言われた通り力を抜き、両手両足を伸ばしてみた。身体が水の中を勝手に進む。
「振り向かないで、まっすぐ前だけを見て」後ろから追いかけてきた刹那の声が、耳元で泡のように消える。水の中ではすべてが流れていく。唐沢は流れに身を任せてゆらゆらと揺れながら岸にたどりついた。水から上がると浮力が消え、身体が言うことをきかない。その不自由さがあまりにも心地よく、唐沢は眠りに落ちた。
その日の記憶はそこで終わる。
眠りから覚めた時、夢を見ていたのではなく、あの世に行って戻ってきたように感じた。
現実が夢へと続き、夢の中であの世を体験し、あの世からまた現実に戻る。それが現実なのか夢なのかもうどうでもよかった。かつて愛した刹那のいる世界に戻って来たのだから。
次回で完結します。