DAY 1
タイトルにある「波」はOctavio Pazの短編「Mi Vida con la Ola(波と暮らして)」へのオマージュです
―人は何のために生きる? 陶酔のため? 自分の半分を失ったような気持ちで生きていたら、陶酔なんてできないよ
―私は水に溶けるの
「お客さん、本当によろしいんですか? 歩いたらホテルまで一時間近くかかりますよ…、天気だってぱっとしませんし」
ブレーキを踏んで車を停車させると同時に、それまで無言でハンドルを握っていたタクシーの運転手が突然饒舌になった。
「ご心配なく」唐沢譲はそっけなく答えた。唐沢の隣に座っていた城崎大輔は二人のやり取りを黙って目で追っていたが、唐沢は「じゃあ、また後で」と城崎に声をかけ、一人でそそくさと車を降りてしまった。
タクシーに乗った時、自分に奥に座るように言ったのはそういうことだったのか…、城崎は納得した。
乗客が一人減ったタクシーはゆっくりと発信し、運転手が城崎に言った。
「晴れていればいい景色ですけど、この曇り空はいけませんね、歩いたら気が滅入りますよ、まあ五月ですから日が長いのはいいことですけど…」
なんだ、話好きの人が気を遣って黙っていただけか…、そう結論づけて城崎は後ろを振り返る。唐沢の姿は遥かに遠い。カーブに差し掛かると城崎の体が横に揺れて、唐沢は視界から消えた。
今日は朝から北九州市にある取引先のソフトウェア会社のオフィスにいた。長い打ち合わせは4時前に終わったが、このあと別の仕事が待っている。それでも話に付き合うのが礼儀だと、城崎は考えていた。運転手は明らかに白髪を染めた茶色の髪の毛をしている。取引先のオフィスでは周りは自分と同年代の30代ばかりで、40を超えた唐沢が明らかに一番年上だったが、運転手を見て、この国の人の大半が自分よりもずっと年上であることを城崎は思い出した。
「いま降りたお客さんは歩くのがお好きなんですか?」
「いえ」城崎は少し考えてから言葉を継いだ。「あの人は一人になるのが好きみたいです」
「なるほど」運転手の声のトーンが上がる。「一人になりたがるということは、結婚していい手お子さんがいるのでしょうね?」
「ええ」
「奥さんに会ったことありますか?」
「はい」
「あのタイプからすると、奥さんは美人でしょうね、違いますか?」
城崎は唐沢の妻の顔を思い出して「ええ、美人です」と返事をしたが、もし彼女が美人ではなくても「いいえ」とは答えなないだろう。そう思うと意味のない質問を得意げにしてくる運転手とコントをしているような気分になる。
「雰囲気からわかりますよ、きっと奥さんは美人で気が利く人でしょう、完璧な妻というのはずっと一緒にいると気が詰まるらしいですよ、そういう奥さんを持ってしまった人は一人の時間を欲するようになるそうです」
「運転手さんはまるで見てきたように仰いますね、本当にその通りですよ、すごい考察力ですね」
「ははは、いやあ、こういう仕事をしていますとね、人を見る目が養われるんです」
運転手が相好を崩したことを、後部座席の城崎はルームミラーを使って確認した。
やはりコントだ、城崎は感じた。
市役所の職員をしていた城崎の母親は、小学生時代から息子に処世術を教えた。確実に人から好かれる方法のひとつは、単純なことで喜んでみせること。食事を出されたらすごくおいしそうに食べるとか、自慢話をされたら相手の目を見て笑顔で「すごいですね」と驚いて見せるとか。それこそが礼儀というもので、礼儀を知っていれば世の中を上手くわたっていける。礼儀さえあれば心の内では何を思っていてもいい。他人の心のうちなんてしょせんわかるはずのないものなのだから…。二度と会うことのないタクシーの運転手に対しても礼儀正しく振る舞うのは、大切な局面で失敗しないためのトレーニング。トレーニングだからこそ城崎は楽しくやりたい。コントを演じているくらいがちょうどいい。
「お客さん、東京からですか?」
「はい、運転手さんはずっと福岡ですか?」質問をされたときは、同じ質問を返せばいい。たいていの人は聞きたいのではなく自分の話がしたいのだから、これも城崎がシングルマザーだった母から教わった。
「私も実は東京なんですよ、東京と言っても町田ですけどね」
やはり自分の話か、そう思いながら城崎は言葉を返す。「だから言葉が標準語なんですか?」
「普段はこっちの言葉使ってますけどね、東京のお客さんを乗せた時は標準語に戻ります、ほっとしますよ、慣れたつもりでも多少は無理してるんですかね? もともとは妻が九州の出身なんですよ」
「それでこちらに?」
「ええ、…私も妻も子どもが大好きなんです、ただこればかりは授かりものでね、…うちはダメでした、5年ほど前に義理の親が亡くなりましてね、妻は介護のためにしばらく戻っていたんですけど、家もあるし、親戚の子供も近くにいるし、こちらに住もうかって話になって勢いで来てしまったんですよ、来てみたら仕事がこれくらいしかなかったんですけど…、ああ、でもね、楽しいんですよ、私には合ってるんでしょうね? 妻と結婚しなかったらいまの暮らしはなかったわけですから、こうしていられるのも妻のおかげですよ」
「いいお話ですね、奥様とはどこで知り合ったのですか?」
「職場結婚ですよ、職場と言ってもお客さんみたいに立派な会社じゃないですけどね…」
なかなか興味深い言いまわしだと城崎は思った。卑下しているようで、実は相手を蔑むようにも聞こえる。この人の生活なんてどうでもいいが、使う言葉が面白い。城崎は言葉を継いだ。「そこで運命の人に出会ったというわけですね?」
「いやいや、そんなんじゃないですよ、まあなんていうか、人は半径3メートル以内で恋をするっていうじゃないですか、まさにそれですよ、会社が同じなら相手の給料も察しがつく、腹の探り合いもいらないし楽だったんですよ、で、結婚してみたら喧嘩もしますけど、一緒にいたら情が移るのが夫婦ってものですよ」
「結局はのろけですか? いい話が聞けました」城崎はおどけた口調で言った。
「のろけちゃいましたかね、ははは、お客さん、ご結婚は?」
「してないです」
「もったいない、お客さんでしたらいくらでも相手が見つかりそうですけどね」
「いやあ、なんか面倒くさくて…」城崎は運転手が「こいつ、何もわかっていないな」と感じるような言葉を選んで返事をした。バカなふりやもてないふりも大切、それがふりであることを見破れない相手はたいてい心を許してくれるし、それがふりであることを見破る一枚上の相手ならあなたのことを評価してくれる、自分を大きく見せるのは愚かな人のすること、…どういうわけか今日はやたらと母から言われたことを思い出す、
「愛が冷めるなんてよくあることですからね」運転手の話が続く。地味な外見でロマンチックな話をする。そのギャップに城崎はおかしくなった。「それでも続けなければいけないのが結婚です」
「そういうものですか?」
「だって婚姻届というものを役所に提出するんですよ、婚姻届とはすなわち契約書です、たとえばある女性をものすごく好きになったとしましょう、あなたはとても誠実な人だ、誰よりも彼女のことを愛する自信がある、そんなあなたの思いを彼女にすべて伝えた、時間もお金もたくさん使った、それでも彼女はあなたの気持ちに応えてくれない。どうすればいいでしょうか? どうすることもできないのです、それどころかあなたがストーカーだと訴えられるかもしれない、あなたの愛に応えようとしない彼女には何の非もない、悪いのは好きになったあなたの方です、愛さない側が愛する側を訴えることができる、それが恋愛というものです、でも結婚はそうではない、ギブアンドテイクです、愛が冷めたというのは言い訳にはなりません、愛されたら愛さなくてはいけないのです、愛を強制されるんですよ。…でもねここが面白いところなのですが、強制されるのはそれほど嫌なものじゃないんですよ、しょうがないなあと思う気持ちも愛なんですよ、結婚が面倒くさいと感じる気持ちはわからないでもないですが、してみるとそれほど悪いものではないですよ」
「周りには離婚している人間がけっこういるんですが…、運転手さんの話を聞いて思ったんですけど、子供がいない方が夫婦は仲がいいのでしょうか?」
「それはちょっと違いますね…、子は鎹と言うくらいですから、たいていの夫婦は子どもを育てている間は協力してやっていけるものなのでしょうね、子供が間をつないでくれますから、結局は子どもがいない夫婦が幸せなのではなくて、子供がいなくてもやっていける夫婦が幸せなのだと思いますよ」
「なるほど…」
「さきほど降りたお客さん、お子さんはおいくつくらいなんですか?」
「中学生の男の子と女の子、二人ともいい学校に行ってますよ」
「じゃあ、お金もかかるんでしょうね?」
その質問を聞いて城崎は感じた。結婚観を聞かされるくらいならちょうどよいが、経済観まで聞かされるのは面倒くさい。「そうですね」と適当にあいづちを打って話題を変えることにした。
「ホテルに戻ってからオンラインの会議なんです」
「これからですか?」
「海外とつなぐので夜の9時スタートですが、そのまえに1時間その会議のための打ち合わせがあって、終わるのは11時ですかね」
「大変だ! 終わったらくたくたですね?」
「死んだように寝てしまいます」
「じゃあ、先ほどのお客さんが一人になれる時間は今しかないってことですね」
「そうなりますね」
「それにしても、…一人になりたい気持ちはわからないでもないですけど、一人になって何をすればいいんでしょうか? 私の場合酒を飲むくらいしか思いつきませんが、一人で飲んでも淋しいだけじゃないですか?」
もう少しでホテルに着くだろう、そう思いながら城崎は「そうですよね」と心無い返事をしたが、突き放しているのか共感しているのか自分でもよくわからない。
周囲の人間を観察することがすっかり習慣になってしまった。結婚してずっと誰かと一緒にいたら、いろいろなことを考えすぎて疲れ切ってしまいそうな気がする。かといって、誰とも接することがなければ、人間観察もできないし、自分は何をするのだろう。タクシーの運転手は自分の話をしたいだけかもしれないが、結局自分だって自分のことしか考えていない。それがコントの落ちだと城崎は気がついた。
「ただいまホテルに戻りました。バッグを預かっていますので、戻られたらご連絡ください」
部屋に戻るとまず唐沢にLINEで送った。
エレベータの横の自販機で買ったペットボトルのコーヒーに口をつけてから、セットアップの上下をハンガーにかけ、靴下を脱ぐと、ベッドに大の字になりストレッチを始めた。ストレッチは気持ちが良いだけではなく、関節を柔らかく保つことはメリットが大きい。ケガをしなくなるだけではなく、動きが優美な人間は動きがぎこちない人間よりも格段によい印象を与える。結局は小さなことの積み重ねが埋めようのない大きな差へとつながる。格差のない社会などあるはずはない、それが当たり前だと思っている。そして、そのことは口にしない方がいい、それもまた礼儀だ。
戻ってから1時間が過ぎたが、唐沢のLINEが既読にならない。一人のときはスマホも見たくないのだろう、城崎はベッドから起き上がり、PCを開こうとした。その時部屋の電話が鳴った。
「フロントでございます、城崎様、本日はタクシーでお戻りになられましたか?」女の声が唐突な質問をした。
「はい」城崎は落ち着いて答えた。
「唐沢様はお戻りでしょうか?」
「まだのようです」
「お手数ではございますがロビーまでお越しいただけないでしょうか? 運転手さんが唐沢さんの件でお話があるそうです」
「わかりました」
城崎は受話器を置くと、急いで部屋を出てエレベータで1階に降りた。先ほどの運転手とフロントの女性が不安げにこちらを向いている。
「どうも先ほどは」二人にちょうど聞こえる程度の声量でそう言いながら、城崎は軽く頭を下げた。
「あの…」運転手は数時間前とは表情だけではなく声のトーンも違う。「お連れの方が海に落ちたようです」
「え?」
「私の同僚が落ちる瞬間を見たって言うんです、車を停めて一服していたら遠くの海岸沿いをあのお客様が歩いてるのが見えて、そしたら突然その場所にだけ波が高く上がって、あの人を攫っていったそうです、そんなことあるのかって話ですけど、『信じてもらえなくても無理はない、実際に目で見た自分でさえ信じられないんだ』って同僚が言ってましたよ、とにかくすぐに車を出して現場に行ってみたら、あのお客様は自力で泳いだらしく岸で倒れてたと言うのです、救急車で病院に搬送されましたが意識はしっかりあるそうです、私が降ろしたところからは1キロ以上離れていましたが、服装をお聞きしたところ、おそらくお連れ様で間違いないと思いまして、お知らせに参りました。病院までお連れしましょうか?」
「お願いします。必要なものを持ってすぐに戻りますので、車の中でお待ちいただけますか?」
城崎は部屋に戻ると、使うはずはないと思いながらもパソコンをバッグにしまい、上着を着てポケットのスマホと財布を入れ、バッグも持って部屋を出た。
車に乗ったらすぐに会社に連絡しよう、唐沢の身を案ずるよりそのことを思った。案じても何も始まらないが、連絡は必要なことだから。エレベータホールの鏡で自分の顔を見ていると、先ほどの運転手の顔を思い出した。自分が乗せたお客が「事故」に巻き込まれたことで興奮しているのを、不安げな表情を作って一生懸命隠しているようだった。しかも電話で伝えればよさそうなところをわざわざホテルまで出向き、お客を捕まえて病院に乗せていくなんてなかなかのやり手だ、と感心した。ところがエレベータを降りた時には。さきほど車の中で運転手の自慢げな話に乗り、彼をおだてて好感を得た気になっていた自分を浅はかに思った。もしかたら運転手は、わざと自分が彼をおだてそうな話を作り、おだてに乗って彼が喜ぶのを見て、自分が自尊心を満たすところまで計算して接客をしていたのかもしれない。こういうとき、城崎は自分のことを面倒な性格だと思う。気がつけばマウントを取ることばかり考えている。病院へ向かうタクシーの中で、今度こそ二度と会うことがなさそうな運転手と会話を続けながら不毛な腹の探り合いをするよりは、上司と連絡をすることで運転手との会話を避けようと決めた。
タクシーを降りて、病院の救急入り口で、「上司が海に落ちてこちらに運ばれたと聞きました」と告げると、「身分を証明するものはありますか?」と尋ねられた。城崎は自分の免許証と名刺を見せて、唐沢譲と一緒に出張で東京から来た旨を伝えると、看護師が現れて救急の病室に連れて行ってくれた。
唐沢は救急のベッドに目を閉じて横になっていた。名前を呼んでみると、少しだけ目を開きすぐにまた目を閉じた。気のせいか、目を閉じた瞬間とても幸せそうな表情をしているように見えた。
「大丈夫なんでしょうか?」城崎は目の前に座っている若い医者に訊いた。
「とりあえず外傷はありません。意識もしっかりしています。ただ、眠くてたまらないと仰ってお休みになられています。明日精密検査をします。入院の手続きをしたいのですがご家族と連絡はつきますか?」
「はい、まずは会社に報告しますので、お待ちいただけますか?」城崎はそう伝えて部屋から出ると部長に電話をして、病院に運ばれたのはやはり唐沢だったことと正確な情報が伝わるように彼の自宅には自分が電話をかけることを伝えた。
「その方がいいでしょうね、悪いけどよろしくお願いしますよ」動揺しているのか部長の言葉が気持ち悪いくらい丁寧だった。
城崎は唐沢の妻の携帯に電話をかけた。
「あら、城崎さん、どうされました?」彼女は少し芝居がかった声で電話に出た。
「奥さん、夜分に申し訳ありませんが落ち着いて聞いていただけますか?」
「はい」彼女は三秒ほど間を開けて返事をした。
「唐沢さんが海に落ちて病院に運ばれました」
「そんな…?」
「海沿いを歩いているときに風に煽られたそうです」城崎は自分が聞いた話を少し表現を変えて伝えた。「僕とは別行動をされていました。お医者さんとお話していただいてもいいですか? 入院の手続きは僕がやりますので」
「はい」唐沢の妻はそれ以上喋ろうとしない。
「少しお待ちください」城崎はそう伝えると病室に戻り、「奥様とつながっています」と言って医者に自分のスマホを渡した。
医者は電話越しに状況を伝えると、「お話になりたいそうです」と言って城崎にスマホを差し出した。
城崎は軽く頭を下げて受け取ると、医者の目を見ながら「代わりました」とスマホの向こうの唐沢の妻に言った。
「城崎さん、ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません」
「そんなこと仰らないでください、こちらのことはすべてやっておきますのでどうかあまりご心配なさらずに」
「明日、そちらに向かいます、それまでよろしくお願いします」
「どうぞお気をつけて」
「城崎さん、このあとはホテルに戻られますか?」
「そのつもりです」
「落ち着かれたらもう一度ご連絡をいただけますか?」
「わかりました」
「何時でも構いません、待ってます」
「戻ったらすぐに連絡を差し上げます」
電話を切ると、城崎は医者から渡された書類に指示通り記入をした。助かった唐沢が死んだように眠っている。事故に遭ったというより、遊び疲れた子供が動けなくなったように見える。この場にそぐわない言葉であることはわかってはいるが、城崎は唐沢に心の中で言葉をかけた。
「幸せな人ですね、誰にも気を遣わずに眠っている」