拾七 夢
暗闇の中で、白い影がふわりふわり、と舞うようにゆらぐ。
宗音は、それをぼんやり見つめながら、「あぁ、私はあのヒトに会ったことがある⋯」と何故か思った。
白い影は人の形もしていない。しかし、そう思うとどんどん輪郭がはっきりしてきて、次第にしなやかな手が宙を舞い、足先が軽やかに地を蹴って、さらりさらりと髪の毛が踊る。
気がつくと、影は真っ白な娘の形をかたどっていた。淡く光る、美しい娘。
「サグメ⋯」
宗音が呟くと、暗闇の中の娘が振り返った。眩いほどのきらきらした笑顔がきらめいている⋯
***
宗音はパチリと目を見開いた。
すぐさま体を起こし周囲を見やるが、異変はない。
妖もいない。
毎晩寝床に張る簡易結界も、勿論解かれてはいなかった。
宗音は怪異を引き寄せてしまう質なので、特に夜寝るときは結界を張るのが常なのだ。それがひとときの静寂を守る手立ての一つだった。
まだ夜は明けていなかったが、再び寝ることもできそうになかった宗音は観念して支度を整えた。いつも通りの袈裟姿に身を包む。
そして、薄暗い廊下をすり抜け、中庭から石灯籠や小さな池のある庭園の横をすり抜け、鍛錬場へ足を運んだ。
朝露に濡れた木槍を槍立てから引き抜き、いつもより少し早い鍛錬で身をほぐしていく。
最近、毎晩のように同じ夢を見る。
真っ暗闇に浮かぶ白い影が、次第に形を現して少女へ変貌していく奇妙な夢。
その娘の後ろ姿、笑顔。見たことがあるような気がするのだが、誰だったか。夢の中では間違いなく知っている人物らしく名前を呼ぶのだが、夢から覚めると忘れている。
なんという名前だ。
どこで会った。
彼女は何者なのだ。
少女の顔も、目覚めるとおぼろげだった。笑っていたことは覚えているのに、目鼻立ちは記憶に残っていない。そして何故か胸騒ぎがした。寝付けぬ理由がこれだった。思い出さなければいけないような気がしているのだ。
槍先で空を斬りながら、その思考を研ぎ澄まそうと集中する。だが、中途で動きを止めた。
人の気配がする。
「⋯宗音殿。随分と早い朝稽古でございますな」
落ち着いた声色でそう語りかけるのは、先の奉納試合で、興泰の命を狙った伊賀者、山下角之進と名乗った忍びだった。
「薬師」
宗音は今の名を呼んだ。
この伊賀者は手傷を負った状態で捕縛されたが、興泰に赦免された。その才を買われて現在興泰の臣となり主に密偵として働いている。今の名は「中山薬師」といった。
「興泰様の命で出雲へ向かったと聞いていたが、帰ってきたのか」
「はい」
薬師はそもそも出雲の尼子氏の依頼で興泰の命を狙ったのだが、興泰はそれを拾って出雲へ送り返したのだ。いわゆる二重スパイ、間者である。こういうところは本当に食えない御仁だ。
薬師は既に興泰への報告は済んでいるのだろう。でなければこんなところで油を売るわけがない。
「出雲はどうだった?」
「きな臭うございます。安芸も只事では済みますまい」
「だろうな」
宗音は周防国からやってきたので安芸の情勢には疎い。だが、近辺の大名、国人らの争いによって身内を亡くしているし、周辺の者たちも戦によってさまざまな傷跡を抱えている者も多かった。例えば、興泰の妻、奈美。彼女は周防の大内領にいた兄以外の一族を亡くし、己も命からがら逃げ延びたクチだ。
(⋯また戦が始まるのか)
戦で流れる血は憎悪を掻き立て、怨念を呼び、大地を魑魅魍魎の湧く地獄へ変えていく。妖が見えるかどうかに関わらず、それらは人民を等しく巻き込んで惑わせるだろう。
目の前の薬師もまた、忍び稼業に身を置きすぎて闇に呑まれる手前まで堕ちた者だった。
「薬師、具合は良さそうだな」
宗音の言う具合とは、妖が視える体質による心身の具合である。
「はっ。宗音殿のお陰にて」
宗音も頷いた。
以前、薬師は心を鬼へ奪われかけた。故に今は宗音の助言を受け、身を清め心を正すことを日々続けているようだ。
「旅の道中は色々あったろう。それなのに良く気を保たれている。暫くはゆるりと休まれるといい」
「ありがたき御言葉。興泰様への恩義を返さなければならぬ身にて、また闇に堕ちるなどあってはなりませぬからな」
「そうだな」
そこで二人はふっと笑んだ。
「また近日にでも稽古のお相手を勤めさせてくださいませ。では」
そう言って、薬師は鍛錬場に背を向けた。
***
薬師の持ち帰った出雲の情報は、興泰によって領主の屋敷に速やかに届けられた。
領主・興盛だけではなく、一門衆、重臣らも集められた軍議は思いのほか長引き、夕暮れになってようやく興泰が四本松城へ帰ってきた。
「皆を集めてくれ」
興泰の下知によりいつもの面子がそぞろに顔を見せる。
いつも賑やかな平野仁左衛門。
寡黙な近習。
不真面目な猪山光次。
今回の功労者、中山薬師。
奥方の奈美まで控えている。
そこまでは良かったのだが、それに続いて日が暮れて人型になった妖・介石。そして、
「ひょこたん」
「ぴょこたん!」
「だーリがツツイタぁ」
と言いながら乱入してきた三匹の妖。
宗音は音もなくつまみ出し、
「お前たちは煩いから入ってくるな」と言ったかと思うと障子をぴしゃりと閉めた。ご丁寧に簡易結界まで張ってある。
「「「くっされボーーーーーず!!!」」」
ぎゃあぎゃあガタガタ、なんとか障子を開けようともがく、ヒトマル・フタマル・ミツマルだが、結界のせいでびくともしない。
「⋯なんで儂まで追い出されたんじゃ⋯」
と、その後ろで泣きべそをかいているのは介石。結界によって一緒に追い出されてしまったらしい。
「まあまあ、介石。オレたちはまた後からお話を聞かせてもらおう!」
さらにその後ろから声をかけたのは藤吉だった。少し見ぬ間に身長が伸びてしっかりした体つきになっている。
「藤吉ぃ〜、おヌシも追い出されたのかぁ?」
介石が問うと、藤吉は首を振った。
「あのさ、人間には〈ミブン〉ってもんがあるんだよ。俺はただの下働き。それに奥方様や仁左様たちは視えない方々だし⋯」
妖がいては困る。
これに尽きるのだと思われる。
そんな二人の合間を割るように、ぬっと顔を出した者がこれまた愚痴た。
「ちぇっ。お前らも入れなかったのかよ⋯」
「うわびっくりした!」
「おお、六郎か」
そう、いまや卑賤の者から格上げされ、門番として雇われている片目の六郎だった。
六郎は、昼間に弱まった妖を視ることはできないが、夜になると介石やチビマルたちが視えるらしい。
「領主の屋敷では軍議が長引いたんだってな。さては戦か!と思って俺の出番をもらいに来たんだが」
六郎は、奉納試合で片目こそ失ったが、その体躯による馬鹿力は健在で、活躍の場を欲している。
このひしめき合うような場外に、また新しい声が加わってきた。
「みんな、薬師さまがお土産でくださったお団子があるの。お台所で食べましょう」
六郎の巨体にすっぽり隠れていたが、全員のその後ろには、奈美の侍女として仕える最年少のお滋がお盆のうえに山と積まれた団子を乗せて立っていた。
勿論、この一言で一斉に花が散る。
「オシゲ〜♡」
「ヒャホ〜〜い」
「ダダダだんごおおんん」
というチビマルたちはすっかり上機嫌だ。
「わしの分もあるか?」
という介石。石の妖だが実はよく食う。
そして、六郎はというとまだ幼さの残るお滋に見惚れるように黙りこくり、もじもじとしながら「かわいいなぁ⋯」と呟いた。
デカい図体をして少女に顔を赤らめる六郎をジト目で警戒する藤吉は、二人の間にわざと割って入って「そうしよう、そうしよう」と皆を促し、その場を後にした。
結界の向こうでは、既に興泰からの話が始まっている。




