686話 山上の垂訓です
気付けばそこは坑道の入口で、領主は肩で息をしながら、その暗い横穴を見据えていた。
それはまるで、全てを飲み込まんとする怪物の口のようだ。
あの長い坑道を灯りもなく迷わずに抜け出たのは奇跡にも近いことだった。
もしくは神の導きであったかもしれない。
そのまま鉱山にある教会によろよろと駆け込むと、この世の悪夢と対峙して戻ってこれた幸運への感謝と、それと向き合う勇気を得るために彼は長い時間祈りを捧げ続けた。
それからの領主の行動は早かった。
突然、有毒ガスが発生したと布令を出し、鉱山の町の人々を麓の街へと追い出すにはじまり、そのまま山への立ち入りを禁止にしたのだ。
そうして人払いをした後、信用する使用人と山守を従えて、目隠しをしたままのどこからか連れてきた男達を率いて5番坑道へ潜ると作業を始めた。
男達には発注した材料を運ばせ、あの水晶の入口を口頭で指示しながら頑丈な扉を設置した。
目隠しをされた彼らは今、どこで何をしているかも分からない状態だ。
当然作業はスムーズにはいかないが、それも折り込み済だった。
彼らは大金に釣られた労働者だ。
ここが何処かも知らなければ、何をしているかもわかっていない。
そうでなくてはならなかった。
ここがオイゲンゾルガーの鉱山だと、山ほどの水晶があるのだと知られてはならない。
少しでも噂にでもなれば、全てが台無しになってしまう。
秘匿するにはこうするか、もしくは関わった者達を始末するしかないのだ。
ここにいる全員には足枷がつけられ、鎖で繋がれていた。
鎖の先はひとつずつ地面に大きなピックで止められて、ここから離れられないよう移動に制限がかけられていた。
それは領主も同じで、不自由だがあのおぞましい水晶へ身を投げない対策であった。
万一走り出しても、鎖が物理的に止めてくれるはずだ。
それでも脳内に響く声に抗えるかは賭けであった。
案の定あの怒号は、領主と男達を苛み生贄を求めた。
領主は強靭な意思でそれに打ち勝つと、泣き喚く男達を叱咤激励し、のろのろと柱を打ち付け門をつけ施錠をした上でかんぬきをかける事に成功する。
そうして、また暗い道を男達を引き連れて外へと戻った。
集められた労働者達はすっかり気が小さくなり少しの音にも怯える程であった。
そうして目隠しのまま馬車に乗せられ、訳の分からぬまま金を握らされ適当な街で解放された。
そこまで手を掛けてあの壁の穴を塞いだというのに、領主の心は晴れなかった。
彼の頭には疑問がもたげていた。
何故、扉を付けて満足したのか。
何故、発破して坑道を潰さなかったのか。
あれではまるで、まだ扉の先で人の来訪を待っているかのようではないか。
知らぬうちに洗脳でもされて、あの穴自体を潰す選択が出来ないようにされていたかに思えた。
それは間違いではなかった。
彼の精一杯の抵抗は、あの時の彼に出来たことは、扉にかんぬきをかける事だけだったのだ。
恐ろしい
恐ろしい
恐ろしい
領主は自身の行動に震え、自分を信用出来なくなっていた。
今にもあの扉が開かれ、光とともに自分を飲み込むのではないかという妄想に囚われてしまった。
恐ろしい
恐ろしい
恐ろしい
もしかしたら自覚がないまま、あの扉を開けに行ってしまうかもしれない。
そんな恐怖に繋がれて、彼はここから遠くへ去ることも、かといって間近で見張る事も出来なかった。
勇敢に行動を起こし、人々を救ったというのに、2度の怪異との邂逅は彼の正気を無惨にも削り取っていた。
そうして狂気に取り憑かれて、彼は財をかけて山の上に平和な世に不似合いな時代錯誤な堅固な作りの戦に向いた館をこしらえるに至る。
その館の扉には、坑道の扉と同じく鉱山妖精の叩き金がつけられていた。
それは善性の妖精に助けを求める心の表れだ。
窓も極力少なく、戦闘に備え剣や槍に鎧を集め、館内を飾り立てた。
いつ襲われても戦えるように。
領主は頭の中に恐ろしい敵を飼い、それに対抗する架空の軍隊を住まわせ、誰にも知られることなく空想の戦いを死ぬまで続ける事となる。
哀れな憐れな山の上に君臨する領主。
閉鎖された鉱山について、一族の者が口を出そうとすると、物凄い剣幕で鉱脈は枯れたのだと言い張り抵抗を示した。
逆らう者は1人残らず放逐され、残されたのは口を噤む者達だけとなった。
彼の生存中、ついに再開される事はなかった。
衰退する伯爵家を見れば、誰しもが鉱山の鉱脈は枯れたのだと信じただろう。
残された気弱な者達もまた先代の言を鵜呑みにし、再開発を手掛けようとする気概のある者は皆無であった。
さいはひなるかな
義のために責められたる者
天國はその人のものなり
狂気の中でも彼は領地を守っていた。
誰に褒められる事も讃えられる事もなく。
そうしてその先に、彼の崇高な精神を踏み荒らす者達が訪れる。
全ては神の導くままに
作中の聖句は「マタイによる福音書5章10節」より




