670話 帰り道です
「別れは、すんだだしか?」
霧の中、駆けてくる少女にソレは声を掛けた。
「ぐーちゃ!」
曇った表情がぱっと笑顔になる。
少女は、旅人の好むフード付きのマントで身を包んだ男に抱きついた。
「あの男が用意してくれた物だけど、着心地がいいだしね」
ソレは、自分の慣れない格好に戸惑いながらも、その肌触りに御満悦のようだ。
背は曲がって少々奇妙な立ち姿ではあるが、フードを被れば人と遜色無く見える。
「うん、ぐーちゃかっこいい」
背丈で見れば身体に不自由がある兄と妹に見えるかもしれないが、少女はドレスを着ているのでどちらかと言うと人さらいと被害者いう感じである。
だけれど、闇を行く者にはそんな心配は無用のことだ。
「もうアニーは自由でし。好きな事をするだしよ」
「しゃう、あいたい」
「まだ会えないだし。あの男と約束したでしよ。アニーがちゃんとするまでは会うのは駄目だし」
あの洞窟で、水晶の棲家で、黒い雄牛はソレに囁いた。
「この少女を救いたければ、ついてこい」と。
あの時、男は散々アニーを酷い目に合わせるような事を言っていたから、どんな要求をされるかと身構えていた。
自分がついていけば、アニーが救われるならと納得して同行したのだ。
しかし、ついてきたものの要求されたのは、拍子抜けする内容であった。
指示された通りに馬車を止めて、後はアニーを両親と対面させたら身を隠すだけ。
馬はグールであるその身が近付くだけで怯えて止まるだろうと。
黒い雄牛はアニーをその身分に相応しいドレスに着替えさせると、門の影に隠れるように指示した。
言われた通りにすると、勝手にシュヴァルツ男爵夫妻は出てきたようだ。
そうして何年ぶりかの親子の会話を交わし、アニーはもう戻れないことを悟った。
特に難しい事は何も無かった。
何もかもが黒い雄牛の言う通りになったのだ。
「おとうさまとおかあさま、わたしのことわからなかったの。でも名前よんでくれた」
ふふっと小さく笑ってみせる。
それは諦めを含んだ寂しげなもの。
その控えめな笑い方が不憫だった。
ソレは少女を横に抱きかかえて持ち上げた。
いわゆるお姫様抱っこである。
「さみしいだしか?」
少女は、ふるふると首を振る。
「ううん、もういい。かぞくは、ぐーちゃとしゃうだもん」
少女は落ちないように、ぎゅっとグールの首に腕を回してその胸に顔を埋める。
長年隔離されて会えていなかった親といっても、実際別れるとなれば、子供心にも辛いものであることは間違いない。
口で強がってみても、やはりさみしいのだ。
「アニーは、いい子でし」
慰め方を知らないソレは、こんな時どうすればいいか分からなかった。
「ねえ、ぐーちゃのおとうさまと、おかあさま
どんな人だった?」
「そうでしな……。厳しくてしっかりしてただし。うんと昔に死んだでしよ」
そこまで言ってから、彼は思い出に浸るように少し沈黙してから言葉を続けた。
「……、父親は『甘かった』だし。とてもとても『甘かった』でし」
その味は忘れえぬ甘露。
「ふうん、ぐーちゃを好きだったのね」
「きっと、アニーの親も『甘い』だし。いつかその時になったら、また来ればいいだしよ」
「うん、早くちゃんとしたいな。むかしはね、すごく、わたしをあまやかしてくれたの」
少女は、懐かしむように思いを馳せる。
「いい思い出だしな。きっと、キャンディみたいに『甘い』でし」
「ふふ、へんなの。じゃあ、しゃうのアップルパイみたいに甘い?」
「そうだしな。食べたらうんとうんと『甘い』だしよ」
「あはは! あまーい! あまーい」
暗闇の中、少女の笑い声が響き渡った。
黒い雄牛の言う通りにした事で、2人は幾許かの金と衣服、食べ物を得ることが出来た。
そして、この後は鉱山に帰ってよいのだそうだ。
大盤振る舞いと言っていいだろう。
敵対していたはずなのに、あの水晶の棲家の一幕は一体なんだったというのだ。
アニーを手放すのに躊躇もなく、送り出してくれた。
鉱山には住む場所も用意されていて、2人の存在は外には漏れないよう手配してくれるのだそうだ。
「アイツ案外いい奴だったでしな」
何故、良くしてくれるのかグールは疑問に思った。
聞くと美貌の神はうっとりとするように微笑んで返した。
「理由かい? それは楽しませてくれたからだよ。そして、もっと楽しくなるからだ」
グールには理解出来なかったけれど、風が良い方へと吹いている事はわかった。
何がどうしたのかこの神は、逃亡を手伝ってくれるのだ。
シャルロッテと引き離された事は残念だが、条件を飲めばそのうち会う機会も作ってくれるという。
ソレは、この少女をあんな性悪で喚き散らかす生き物のそばに置いておきたくなかった。
ならばこの男の話に乗らない手はない。
そうして男の言う通り全てこなして、後は鉱山を目指すばかり。
馬が怯えるので馬車は使えないが、その異形の脚力は小さな少女ひとりを抱きかかえても負担になりはしない。
「さあ、ジーモンが待ってるだしよ」
闇を歩き、家に帰ろう。
光はなくともその赤く滾る焔の瞳が、道を照らしてくれるから。
そうして少女はしがらみを断つ。
賢者の付属品でしかなかったすべてをそこに置いて、自分自身の物語を歩み始める。
闇は深く暗く静かに、そして優しく少女を歓迎した。




