663話 煌めくは花か水晶かです
大事にしていた枯れた花束。
これを今の自分のそばに置くことで、人としての感情を追体験したかった。
だけれど、それは期待したほどの効果はなかった。
夫人は、肩透かしを食らった気持ちになった。
そして気付く。
自分はもう完成された美に同化したのだから、哀れな女であったことを思い返すのは馬鹿らしい行為であることを。
貧しく退屈であった日々を、無理やりに美化して閉まっておく必要はもうないのだ。
少し前であれば、この色褪せた花束は心を慰めて温かくしてくれたに違いない。
けれど、もうどうでも良かった。
自分は朧水晶という、美しい煌めく鉱物なのだから。
水晶が身を震わすと、枯れた花束は隣の炎の花にぶつかって、ぽうっと小さな火をあげた。
それは小さな小さなひかり。
自分が人で会った時の欠片。
ああ、こうして消えていくのだ。
人でいた自身が愛した記憶も思いも全て、火にくべるようになくなって。
ほんの少しの寂しさと共にそれを見つめた。
その火は小さくも美しく、夫人の心は満足した。
自分の人生はつまらないものだったかもしれないけれど、こうして小さな綺麗な炎になったのだ。
それで満足だった。
それにしても、あの修道女は何故この炎の花を置いていくように進言したのか疑問であった。
これからここに人が来なくなる事への同情?
この先、変化のない時間を過ごす事への慰め?
馬鹿な事だ。
何十年か先には、自身だけが残りそこから再開するというのに。
どちらにせよこの花が炎だというなら、この空間の空気を使い切ったら消えてしまうだろう。
そうでなくとも魔力を燃やしているのなら、その魔力が無くなり次第消えるのだ。
ほんの一時の慰めなど、ないも同然ではないか。
だからこそ、あの人の心を持っていなさそうな修道女が、この炎の花を置いていくように言ったのが不自然で違和感があった。
一輪の炎の花がチラチラと燃えていた。
枯れた花は全てを炎に捧げて、黒い煤をほんの少しそこに残して失せた。
炎の花は消えない。
チラチラと燃えていた。
そうして気付くのだ。
水晶の輝きが、ほんの少しずつ消えているのを。
これは空気、ましてや魔力を燃やしているのではなかった。
これは朧水晶の存在であるその輝きを糧に燃えているのだ。
パキパキと音を立てて身を捩る。
だけれど花は燃えるのをやめはしない。
水の一滴もないこの空間で、この炎を消す手段はなかった。
例え消火する水があったとしても、鎮火出来るかは怪しかった。
この水晶の光を燃やす炎が、そんなもので消えるとでも?
少しずつ。
人で言うならそう。
爪の先からゆっくりと、生きたまま燃やされているも同然の仕打ちだった。
あの修道女は知っていたのだ。
この炎の花が、何を燃やすのかを。
自分の一番遠くから、命が剥がれて散っていく。
それを止めようとしても、伸ばす手はどこにもない。
この土地にばら撒かれた全てがひとつでいて、全てが独立していた。
切り離さなければ。
繋がったまま自分が消えてしまったら、全てが無となってしまう。
全てが死という網に囚われる前に。
それは無駄な足掻きであった。
炎はゆっくりと炙りながら朧水晶という存在を燃やしていた。
全てが独立しているから、ひとつふたつ、いや十でも百でも命を奪われても影響を受ける前に自切してしまえば痛くも痒くもない。
また人を誘い補充すればいいだけなのだ。
それなのに。
なのに
なのに
燃やされているのに
分からないまま
ここまで燃えてしまっている
蛙を熱湯に入れると驚いて逃げてしまうという。
だけれど水に入れてゆっくりと温度をあげると、気付かずに茹で上げる事が出来るのだ。
既に炎は伝播し、水晶はいわば茹で上がる寸前の蛙同然であった。
炎の花はゆっくりと気付かないうちに、朧水晶という存在全体に熱を広げていた。
そうして端から茹で上がり零れていく。
ああ
ああ
いかないで
それは死を超越していたはずの生き物だった。
死とは無縁の存在だった。
すばらしいわたくしを
もやしたりしないで
それが為す術なく侵されている。
束の間眠りについて、後から自身を増やせばいいなんて、そんな都合のいい事はなかったのだ。
いかないで
もどってきて
わたくしのもとに
水晶は嘆いた。
去っていく命を。
自身を飾っていた美しい光が、生命の円環へ戻っていくのを。
敵などいないはずだった。
時間さえかければ達成出来る簡単な野望であった。
人を全部水晶に変えれば終わるゲーム。
自身は、永い時の流れに横たわって囁いていればいいだけだったはずなのに。
うばわないで
わたくしから
うばわないで
わたくしを
きぃんきぃんと水晶は音を立てて叫んだ。
それは断末魔というには、あまりに澄んだ美しい音色。
そうして全ての光が消え失せると同時に、炎の花も燃えるのをやめた。
そこにはもう光はなく、暗闇だけが満ちていた。




